暗く静まり返った室内に
微かな薬液の滴る音と
電子機器の微細な駆動音だけが響いていた。
アリアは天井から吊るされたまま
両腕を頭上で拘束され
身じろぎ一つせずにいた。
彼女の首には
不自然な繋ぎ目が残っている。
まるで人形のように
首の付け根から肩にかけて
淡く線を描くような切れ目。
縫い目ではない、それは──
再生の途中経過。
不死鳥の炎であれば一瞬で塞がる筈の傷も
今は繋がりきらない。
何種類もの薬剤が血管を満たし
筋肉の反応を鈍らせ
痛みの感覚すらも遅らせている。
チューブは
彼女の肩、腕、腿、首筋にまで何本も這い
まるで蜘蛛の巣のように絡みついていた。
重力に引かれるまま垂れ下がる髪が
頬を撫でるが
それすら感じていないように
アリアの表情は微動だにしない。
目の前にある三つのモニターには
映像が淡く浮かび上がっていた。
一つは
目隠しをされた時也が
木製の椅子に縛られている。
その顔には苦痛も恐怖も浮かんでいないが
周囲の音に神経を尖らせていることは
彼を知る者ならば誰もが察するだろう。
もう一つには
重力に抗うように吊るされたソーレンの姿。
両手を後ろ手に縛られ
細いワイヤーが喉元を絞めていた。
爪先は床に辛うじて触れ
その度にかすかな擦過音が響く。
最後の一つには、レイチェルの姿。
細い肩を揺らしながら
ソーレンと同じく吊るされた状態で
懸命に息を繋いでいた。
彼女の瞳には
恐怖よりも怒りの色が宿っている。
アリアは
その三つの画面から目を逸らさない。
表情は平然と
だがその胸の奥に走る激痛にも似た焦燥は
薬によって鈍らされている。
動こうとすればできる──
だが
今の状態で炎を制御できるとは限らない。
彼等を巻き込む可能性が僅かでもある限り
アリアは動かない。
吊るされたままの姿勢で
それでもなお女王の威厳は揺るがなかった。
その深紅の双眸は
燃え盛る色を宿しながらも
極寒のように冷たく冴えている。
そこに──音が忍び寄ってきた。
硬質な革靴の足音が、一歩一歩
確かな音を立てて闇を割る。
やがて、光の届く位置に姿を現したのは
一人の男だった。
腰まで届く黒髪を一筋に編み束ね
細身の体を黒い礼服で包み
冷たく光るアースブルーの瞳を
真っ直ぐアリアへ向けていた。
その瞳は
まるで彼女を見つけ出した獣のように
狂気と歓喜が入り混じった光を宿していた。
口元には丁寧な笑み。
けれど、それは何処か捻れており
感情の純粋な発露とは程遠い。
「美しき女王⋯⋯
お招きを快く受けて頂き
ありがとうございます」
男は優雅に片膝を曲げて会釈し
滑らかに言葉を紡ぐ。
まるで舞踏会の挨拶のように
その所作は洗練されているのに
全てが偽物のように感じられた。
アリアは一言も返さなかった。
ただその深紅の双眸が、氷のように冷たく
彼の頭上から見下ろしている。
それは返答ではない。
威圧でもない。
──ただ、価値を見ていないのだ。
深紅の瞳を通して心を射抜くような
凍てつく無表情。
アリアの視線に
男の笑みが僅かに深くなった。
その姿はまるで
愛されないことを喜ぶ狂信者のようだった。
その男──アライン・ゼーリヒカイト。
その名を、意識を手放す直前に聞いた。
顔はよく憶えている──忘れるわけがない。
だが、アリアの中での彼の名は
違っていた。
薬剤で鈍る脳裏に、過ぎる記憶。
遥か昔、かつての魔女狩りの最中
焼け落ちる村の中で、あの瞳が──
美しきアースブルーが
恐怖の色に染まるのを
彼女は確かに見ていた。
漆黒の髪を束ねた姿、細身で端正な容貌。
全てが
記憶の中に刻まれた〝あの魔女〟と
寸分違わぬ姿。
しかし、それが不気味なのだ。
これまで幾人もの転生者と対峙してきたが
誰一人
前世の姿そのままに
生まれ変わってきた者などいない。
新たな肉体に、旧き魂が宿り
かつての能力だけを継いでいた。
それが転生の摂理だったはずなのに──
彼だけは
まるで時を越えてそのまま現れたかのように
美しいまま、だが歪んだ笑顔で
そこに立っている。
(なぜ、この者だけが──)
理解できない。
けれど、今はその謎を追う時ではない。
目の前の三つのモニターに映る
大切な者たちの姿。
彼らの命綱は
アリア自身の判断一つにかかっていた。
重たく冷たい空気が
薬で鈍った体の隅々まで絡みつく。
だが、アリアの精神だけは
どこまでも静謐で澄んでいた。
目の前の男──
アラインが
自らの欲望を隠そうともせずに笑う。
その笑顔は歪み切っていた。
だが、彼の狂気の本質は〝血〟ではない。
彼が欲するのは──心なのだろう。
屈辱。喪失。絶望。
そうした感情に彩られた〝心の破壊〟こそ
彼の嗜虐の本質。
だからこそ、アリアは彼に言葉を向けた。
「⋯⋯あの者達を⋯⋯解き放て」
冷たく、乾いた声音。
力を込めたものではない。
だがその響きには
命令としての絶対性が込められていた。
しかし
アラインは愉悦に浸るように
唇を吊り上げた。
「今すぐは無理な相談だけど⋯⋯
キミがしっかり協力してくれるのなら
話は別さ」
ゆっくりと
アリアの眼前に歩を進めるその姿に
彼女は一切の畏れを見せない。
首の付け根に感じる痛みすら
今の彼女には無い。
注入された麻酔と筋弛緩剤が
感覚を奪っていたからこそ
彼女は〝心〟だけで戦うしかなかった。
「お前が欲しいのは⋯⋯この血だろう?」
目を伏せることもなく、ただ淡々と告げる。
「ならば、私の首をもう一度切り落とせ。
身体は⋯⋯好きにすれば良い。
血も臓腑も、くれてやる」
それは命乞いではなかった。
あくまで、彼女自身の意思で差し出した
譲渡の申し出。
そこに情緒など一片も無い。
冷徹で、理性的な判断。
──だからこそ、アラインの顔が歪んだ。
「いけない⋯⋯
それは、いけないねぇ、アリア」
その声は低く
ねっとりと絡みつくような響きを持つ。
長く美しい指先で、大太刀の柄を撫で
アラインは静かにその刃を引き抜いた。
月明かりすら届かぬ室内で
その刀身は冷たく煌めいた。
「そんな一瞬で終わらせたら⋯⋯
キミの美しい顔が
屈辱に歪む所が見れないじゃないか」
ゆっくりと、刃先をアリアの目前へ向ける。
まるで愛おしいものに触れるような
穏やかさと敬意を装いながら
その実、暴力を孕んだ歪な仕草。
「ボクは⋯⋯
キミの心をぐちゃぐちゃにしたくて⋯⋯
堪らないんだ」
アリアはその言葉を
無表情のまま受け止める。
体には痛みも恐怖もない。
それでも、彼女の心は動かされなかった。
(⋯⋯転生者の、性か)
これまで幾度も、彼女は報復を受けてきた。
己の手で焼き尽くした魔女たちの怨念。
その呪いを
彼女は甘んじて受け入れてきた。
まずは
その怨みを解き放たなければならない。
怨みが終わるまで、彼等の魂は癒されない。
だからアリアは──
その深紅の瞳を、そっと閉じた。
まるで、全てを受け入れるように。
あるいは
自らの心に、鍵をかけるように。
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血と臓腑に塗れた密室で、 吊るされたアリアはなおも静かに、抗った。 首を斬られ、内臓を貪られ、 狂気に歪むアラインに 肉体を玩ばれながらも、 その深紅の瞳だけは決して折れなかった── 猟奇と狂愛の狭間で、女王の心が静かに燃え続ける。