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翌日は、ルーブルを攻め、続いてはオルセー。ガラスのピラミッド前ではやはり、写真を撮りたくなり、彼女とのツーショット写真を撮って貰った。観光客が多く、気さくな感じのオーストラリア人に話しかけられた。We have just married…打ち明けるときは多少の気恥ずかしさを伴った。
「――Good luck on your trip!」
親指を立ててナイスガイは去っていった。こうしてひとのなかに囲まれてみると、日本という場所がいかに日本人だらけなのかを認識させられる。観光地であるパリは、人種の坩堝だ。フランス人と思われるひともいれば、アジア系アフリカ系アメリカ人……様々なひとがいる。実をいうと日本人向けのオプショナルツアーでほっと一息。地下鉄なども油断ならぬゆえ気を張ってばかりいて、少々しんどいのも事実。地元の民であれば慣れっこなのだろうが。何事も慣れだ。
日本人は日本人同士でつるむのが好きらしく、街で見かければすぐ分かる。なお、ヴェルサイユの帰りに、日本人の中年の団体がどこへ向かうのかと見てみれば、発着所のすぐ近くの日本料理レストランであった。滞在期間は一週間程度であろうに、もう日本食が恋しいとは。
さてルーブルで見逃してはならぬのは、モナ・リザ、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ。やはり、人気の美術品の前では人だかりが出来ており、大人しく順番を待ち、実物を見る。やはり、写真だけでは伝わらぬ息遣いがそこにはある。その芸術家が生きていたという財産が。おそろしいほどの執念が。
午前中だけではやはりすべてを見ることは出来ず、オルセーは翌日に持ち越しとなった。パリナイトツアーで、エッフェル塔のシャンパンフラッシュを眺める。シャンパンを垂らしたかのようにきらきらとエッフェル塔がきらめき、観光客から歓声があがっていた。夜のパリもまた……いい。あらゆる建造物が魅惑的にライトアップされており、昼間とはまた違った表情を見せてくれている。
オルセー美術館は、パリ万博のために建造された古い駅舎を利用したドーム状の美術館であり、金色の大時計がまばゆい。ハリーポッターの世界に迷い込んだようだ。
「モネも……シャガールも、素敵」美術に詳しくないものでも楽しませてくれる要素が満載だ。睡蓮の前で写真を撮ると広坂は笑みを見せる。「……うん。すごく綺麗だ……」
時間があることもあり、たっぷりと楽しんだ。「モネの絵ってどうしてこんなに素敵なのかしら……夢の世界に迷い込んだみたいな気分になれるわ」
「――モネが好きなら」ガイドブックを手に広坂。「オランジュリー美術館にも行ってみようか」
そこには、二十二枚のパネルからなる八点の睡蓮があった。壁一面、絵画で彩られており、その美しさにしばしのあいだ、我を忘れる。
最後の夜は予約した店でフランス料理を楽しんだ。この季節ならではの――ジビエ。砂肝のサラダ、予期せぬ生ハム。山鴨のローストも、日本では食べられない味だ。すこしドレスアップした彼らは、お皿を取り替えっこしながら、料理を楽しんだ。
直行便は乗り換えがない分楽ではあるが、乗り換えがあればあるなりに楽しさがある。彼らはスイスで乗り換えた。さほど時間がないゆえに免税店をちらりと見るのみだが……なんにでも国旗があしらわれているのはどこの国も同じだ。類似性を見出し、にんまりとしてしまう。
こうして七日間の旅を楽しんだ彼らは重たいスーツケースを押しながら帰宅した。……その前に。
「ああ……もう……我慢出来ない!」隣駅で降りて吉野家へと駆け込む。彼女のリクエストでだ。実は機内でカップラーメンを食べ、あまりの美味さに気絶しそうになった彼女である。いつも通り、美味しい味を提供する吉野家にて、牛丼、並、つゆだくを堪能する彼女は、「こんなに美味しい牛丼を食べるのは初めて!」と目を輝かせていた。広坂とて同感だ。一週間。確かに楽しかったのだが、よその料理はあくまでよそものであり、自分たちの味ではない。パンばかりを食べ、無性に、しょっぱいラーメンが食べたくなった広坂である。
「よし、じゃあ、一旦帰宅してから、広坂スペシャルと行きますか」
腕まくりをする広坂の頬をそっとつつき、彼女は、「……楽しみにしてる」
平常通り、ときは流れていく。どんなに辛いことや悲しいことがあろうとも、無慈悲なまでに。そのときに流れで広坂はただ、生きていることへの意味を感じていた。――パリは、あんなにも近くて、遠い。きっとこうしておれがくさくさと働いているあいだにも、あそこでめいっぱい観光を楽しむ客であふれかえっているのだろう……目に蘇るパリのまばゆい景色。気温。ひとびとの息遣い……耳慣れぬフランス語の語感。ボンジュール……。
一連の流れが宝物となって広坂の胸に仕舞われていた。それは、彼女とて同じであろう。時差ボケが抜けるまでがなかなか辛く、八時間の時差があればリカバリに八日間を要すという。アメリカに比べればましであろうが、それにしても、日中の仕事が辛かった。彼女のほうはもっと深刻で、帰宅するとすぐ寝る。遅く帰宅した広坂が調理をし、ようやく食べ、そして寝る……広坂は料理の支度が面倒云々よりも、彼女の体調が心配であった。一週間もすれば落ち着くものかと思いきや、そうでもなく。食欲は落ち、元気がなくなり、いよいよ広坂は本気で心配になった。
そんな日々に慣れつつも、心配という真心を伴う日常を過ごして広坂に、
『話したいことがあるの』
メッセが届いた。そろそろ病院に行ったほうがいい……広坂の助言に従い、会社を休み、病院に行ったはずの彼女。いったいなんだろう……深刻な病気だろうか? 不安を感じつつ広坂が帰宅すれば、
「おかえりなさい」
真っ先に彼女が抱きついた。懐かしい感覚であった。一時期彼女は、広坂が帰宅するたび、彼を出迎えていた。最近はそれがないことにちょっぴり寂しさを感じていた広坂である。
――すこし、痩せたか? 無理もない……あれほどしんどそうなのだから。
「それで、……話したいことって」
広坂が彼女の頬に手を添え、問うてみれば、
「……出来たの」
「うん?」広坂は生返事をした。突然のことで思考が、追いつかない。「ていうと。もしか。もしかしてもしかしての……本当に?」
「――うん。おめでとうございます、って言われたよ……。
わたし、あなたとの赤ちゃんが、出来ました……!」
そのあとなにをどうしたのかは分からない。ただ、笑って泣いて、彼女を抱き締めて頬ずりして……それで、彼女の体調が悪くないのかを気遣い、姫抱きでベッドへと運び、彼女にキスした。
見たことのない幸福がそこにはあった。パリの世界にも圧倒されたが……それでも、この感情には敵うまい。
「でも、……しんどいんでしょう? 大丈夫……?」
「んー。でも、寝てれば平気だから……大丈夫。明日から会社には行くわ……」
「時間帯変えたほうがいいかもな」と広坂。「激込みの電車だから、きみを守ってあげられるかどうか……変えるんならぼくも一緒に行くよ」
「ありがとう」と彼女。「そうね、自分の体調や仕事の具合と相談しながら、ゆっくり……考えるわ」
「出来ることならなんでもするから。……ご飯も、無理して作らなくていい。ぼくが作るならちょっと遅くなるけど、それがしんどいってんなら弁当にするとか……いろいろ手はある」
「そうね……じゃあ、しばらくはお弁当にしようかしら。つわりはないんだけど、でも肉臭いのがちょっと苦手で……不思議ね。こうして、妊娠したのが判明したとなると途端に、症状がやってくる。気の持ちようって大事なのね。わたし……元気な赤ちゃんを産むわ。絶対に」
「うん……ありがとう」
「女王様はしばし休暇を頂戴します。ごめんなさいね」
「いいんだよそんなのは。それより、あなたのほうが、大事だ……」
「ありがとう譲さん。……愛してる」
「ぼくも、愛しているよ、夏妃……。生まれてきてくれてありがとう」
その夜はただ静かに抱き合った。それだけで胸の奥から自然とあふれ出るものがあった。これが――愛なのか。未知なる生き物がもたらしたその感情に、眩暈を覚える広坂である。彼女のなかに埋め込まれた愛の証。まだ見ぬその命にそっと想いを馳せ、広坂は味わったことのない感情へと身を投じた。
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