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「くるみあのねえ。保育園お休みのするの寂しいけど楽しみ」
娘の来海が言うのは、明日保育園をお休みしてプールに行くことだ。両価的な自分をこの年で認めるようになったか。娘の成長ぶりが眩しく見える広坂である。
「そんで……暁人(あきと)は? プール楽しみ?」広坂が聞いてやると楽しみー、と顔をほころばせる。まだ四歳。嬉しい楽しいでいっぱいの毎日を過ごす年頃だ。
帰宅すると妻である夏妃が料理を準備していた。彼女は妊娠して以来、八時半から四時半までのフレックス勤務をしている。娘息子の保育園の送迎は広坂が受け持っている。平日の炊事や洗濯ものの処理だけで大変な労力だ。頑張る妻を支えたいと、こころから広坂は思っている。
第一子の来海が生まれた頃に、『働き方イノベーション部』なる部署が創設され、それまで問題であった残業過多……三六協定の施行により、一ヶ月の残業時間は八十時間までと定められているのにも関わらず、守らぬケースが後を絶たない。ゆえに、会社は本格的に革命に乗り出した。ちょうどその頃から定時帰りを意識しだした広坂には願ってもない話であった。営業部一課の課長として、出来る限り彼らの活動に参加をした。
産休も、取得した。来海と暁人が生まれたときに一ヶ月ほど。いなければいないでなんとかなるものだ。取引先はこうした広坂の妻への献身に好意的なものが多く、取引先からの取材も何度か受けた。そのたび、自信を持って広坂は断言した。――超少子化超高齢化社会の進む現代において、育児や介護の負担を妻ひとりに背負わせるのはとんだ愚行だ。夫であるなら積極的に参加すべき――広坂のビジュアルのよさも相まって、マスコミに何度か報道され、知人友人からも連絡を受けた。――おまえ、変わったなあ、と。いやいや、愛する妻に子どもが生まれて、変わらないほうがどうかしている……彼は思った。
さて妻の作ってくれた肉じゃがやキャベツのコールスローを、暁斗に食べさせる手伝いをしながら、妻の話や娘の話を聞き出し、妻が後片付けをしているあいだに広坂が娘息子を風呂に入れる。まだまだ六歳と四歳。それなりに自分のことが出来るようになったとはいえ、目が離せない年頃である。
風呂をあがると、洗濯ものの処理を全員で行う。広坂はその間、会社の仕事を、持ち込んだノーパソで済ませることもある。がせいぜい三十分程度だ。どうにも家だとのんびりほんわかしてしまい、会社でするほどには仕事に集中出来ない。娘や息子が甘えてくることもあるから。
そうこうしているうちに瞬く間に九時を迎える。もう、眠る時間だ。妻のほうは一日の疲れを取るストレッチが不可欠らしく、寝かしつけを広坂が担当している。おやすみロジャーを読み始めると数分程度で暁人が眠り、終わる頃には姉である来海が続く。
終わって寝室のドアを閉めると、ちょうど夏妃が運動を終えたところであった。
「――毎日、お疲れ様。ありがとうね……」
「きみのほうこそ」
一日の仕事を終えた達成感とともに、無糖炭酸水を口に含む。リビングで向かい合わせに座りながら。一日の終わりにこうして夫婦ふたりで顔を突き合わせて話をすることは、大切な時間であった。相互理解を深めるうえで。広坂には、まだまだ分からないことが多い。産後の妻の体調がどんなだったか……第二子を妊娠しながら仕事をすることがどれほど大変であったか。一日三十分程度、広坂は妻の話を聞く。それは夫としての務めだと考えていた。仕事は仕事で大変だが育児はまた別の疲労感を伴う。とにかく、話をせねばこころが壊れてしまう……それほどの責任感を伴う、大仕事だ。思えば、仕事であれば、あれほど大泣きするクライエントなんかいるはずがないし、夜中、細切れ睡眠で眠りを妨げられることなど……ない。広坂の目に見て育児は育児で大変だ。仕事とはまた別の筋肉を使うと思う。
広坂は仕事に育児に頑張る妻の話を聞き出し、基本的には妻に同意し、それから妻の子どもたちに思うこと……願うことなどを聞き出していく。
「……正直、大学には行かせたいわよね、二人とも……気が早いかもしれないけれど」
「いやいやそんなことはないさ」第一子の出産前に、二人は、学資保険の代わりとなる生命保険に入っている。ちょうど来海の入学に合わせて何百万円単位のお金がおりるはずだ。「何ごとも、用意周到にしておいてこそ、ってものさ。準備をするのに早すぎることなんてない……ぼくはそう思うよ」
「わたし、もう眠たい。……寝るね」
「……うん」
朝早い妻はこの時間にはもう眠たさを覚える。仕方がないと分かっていつつも、広坂はいつでも妻の肌に溺れたい自身を発見してしまう。そんな広坂の欲望を満たすべく、金曜と土曜の夜はたっぷり、広坂を愛しこんでくれる。それが彼にとっての幸せだ。
子どもをふたり産んでも産前と変わらぬすらっとしたスタイルを維持する。その艶めかしいからだが広坂にとっては魅力的であった。否、他のどの男にとってもそうであるに違いない。
ある程度ひとりのリビングで、三十分ほど集中してベッドに入る。妻は完全に夢のなかのひとであった。親に頼らず子どもをふたりで育てることは、大変な労苦を伴う。悩める妻を支える男でありたいと広坂は願う。だからこそ、広坂はときどき平日に休みを取り、子どもふたりを彼らの望む場所へと連れていく。明日は、よみうりランドだ。アンパンマンが大好きな暁斗は喜ぶに違いない。微笑みを乗せ、広坂は妻の額にそっと口づけ、ありがとうと呟いてから眠りへと誘われる。甘美で、豊かなる幸福。そのただなかにおいて生きることは大変なる努力を伴うが、それだけの財産を彼にもたらしてくれるものであった。子どもがいなければいまの自分はどうなっていたか……想像もつかない。
――たまには、ひとりでバーにでも行っていいんだよ?
と広坂は伝えたが、さあ明日金曜日の夜、妻はどうすることか……。保育園が一緒のママ友にでも見られたら、という当惑は働くらしいが、ならムサコに行ってはどうかと広坂は提案した。
生活を積み重ねるごとに楽しみが増えていく。年齢ゆえの責任も強いが、未来への希望を凌駕するほどの威力は持たない。その幸せな魔力を感じながら広坂は眠りへとつく。明日がまた、とびきり幸せな毎日へと繋がる――そのことを確信しながら。
―完―