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オフィスビル一階のコーヒーショップでカフェラテを買っていると、後ろから低い声で呼びかけられた。
「秋野美月」
振り返ると、そこには不機嫌な顔をした長身の男が佇んでいる。
「あ……藤原さん」
私は苦手な相手との遭遇に、心の中でため息を吐いた。もちろん顔には出さないように。
藤原雪斗(ふじわらゆきと)は、社内で知らない人はいないだろう有名人。
百八十センチはありそうな長身に、上質なビジネススーツを着ていても分かる均整がとれた体つき。すっきりした顎のラインの小顔に収まるのは、印象的な美しい切れ長の目と、きりりとした眉、すっと通った鼻梁に厚すぎない唇。
つい見惚れてしまう極上の容姿だけでも感心するというのに、、頭の回転が早く、判断力、決断力が優れ、仕事も誰よりできるという噂。
実家はかなりの資産家らしいし、とにかく女の理想を凝縮したような男で、だからどこにいても注目を浴びる。
「あの……何か用でしょうか?」
私は周囲からの視線を気にしながら、しかめっ面の藤原さんに問いかける。
いったい、どうして起こっているのか。彼を怒らせるようなことをした覚えはないし、そもそも大した接点だって無いというのに。
「何度も呼んでるのに無視するな」
「え、そうなんですか? ……すみませんでした。ちょっとぼんやりしていて」
慌ててそう言うと、藤原さんは呆れたような目をしながら右手を突き出した。
「あっ、それは……」
彼が手にしているのは、見覚えの有るブルーのハンドタオル。
朝、バッグに入れた私のものだ。
「すみません、拾ってくれたんですね」
さっきバッグからスマホを出したときに落としたのかもしれない。
「ああ」
藤原さんは私のお礼に素っ気なく頷くと、直ぐに背中を向けて去って行った。
……なんて愛想の無い人だろう。
拾ってくれたのは有り難いけど、返事が遅れたくらいであんな不機嫌そうにすることないのに。
そんなことを考えていると、いつの間にか傍に来ていた同期の成美がコッソリと耳打ちして来た。
「藤原さん、相変わらずカッコいいね」
「うん……」
確かに、見かけは完璧だけど。
「私も何か落とそうかな」
半分本気の成美の言葉。
成美だけじゃなく、同じような事を考えてる女子社員は多いと思う。
でもその想いは決して叶わない。
だって、藤原雪斗には妻が居るから。
総務部で社員情報を管理している私は、手続きのときに偶然知ってしまったのだ。
あの人は結婚しているくせに、社内では独身のように振る舞っている。
個人情報だからもちろん誰にも話していないけれど、私個人の彼への印象は最悪で、どんなに完璧と言われていても彼を信用できないでいる――
入社して今年で四年目になる。
仕事にもすっかり慣れ、何も考えなくても手は自然とキーを叩き、出張費の清算に必要な処理が進んでいくのだけれど。
私は、経費精算システムの画面に【藤原雪斗】の名前が表示された瞬間、思わず手を止めた。
インドネシアへの海外出張。期間は十日。目的は視察と書いてある。
視察……一体何を見に行くのだろう。
添付の資料を確認しようとして、不意に我に返った。
藤原雪斗の行動を調べる自分が、ひどく滑稽に思えたから。
私……なんであの人の事気にしてるんだろう。
今朝、会話をしたからか、それとも結婚しているくせに独身ぶる不自然な行動が気になるからなのか。
自分でも分からない。
あの人のことなんて考えても仕方ないのに。
私は馬鹿らしくなり機械的に清算処理を進め、藤原雪斗のファイルを閉じた。
「美月」
就業時刻になって直ぐに、成美がやってきた。
「成美、もう終わったの?」
「うん、月中は暇だし、ねえこれから飲みにいかない? 課長が奢ってくれるって」
「え……課長?」
チラリと窓際の課長の席に目を向けると、私達の様子を窺っている江頭課長と目が合った。
飲み好きの課長らしく、すごく期待の籠もった目をしている。
これは……断れないよね。今日は湊も遅くなるって言ってたから、少しだけ付き合ってもいいかな。
課長に了解の合図を送ると、上機嫌の笑顔を帰ってくる。私は大急ぎで机を片付けた。
今日の飲みは成美と課長と三人だけかと思っていたけれど、店には意外と人が集まっていた。
総務部以外にも課長の社内飲み仲間らしき人が数人いる。
その中に藤原雪斗の姿が有ったのには驚いた。
まさか、課長と仲が良かったとは。
「えっ、藤原さんいるよ?」
成美は一気にテンションが上がったようで、はしゃいだ声を出した。
「……うん」
「このチャンスにいろいろ聞いてみない?」
「いろいろって?」
「本命の彼女いるのかとか。遊びの相手は結構いるみたいだけど……」
彼女どころか、あの人には妻がいるのだけど。
成美からストレートに聞かれたとき、藤原さんは何て答えるんだろう。それは気になるかも。
でもやっぱり私は結婚してるのに遊んでるいるような人は、尊敬できないし不快感をもってしまう。
だからなるべく近寄らないようにしなくちゃ。
そう思っていたのに、藤原雪斗はいつの間にか私の隣に座っていた。
なんで私の隣にくるの?
さっきまで隣のテーブルで成美達といたはずなのに……。
気になって隣をちらりと見たため、うっかり目が合ってしまった。
「あ、あの……今朝はありがとうございました」
無視する訳にもいかないから、とりあえずお礼をしてみる。
「今朝?」
彼は怪訝そうに眉をひそめる。
もしかしたら忘れてる?
「あの、タオルを……」
「ああ、別に」
会話終了。
驚いた。なんて素っ気なさだろう。
気を遣って話しかけなければ良かった。
後悔していると、ひときわ大きな声が耳に届く。
「今更、嫁とはやる気にならないよなあ!」
こんな明け透けな発言は、江頭課長しか考えられない。
声の方を振り返ると完全に出来上がり、見るからに上機嫌な課長が居た。
顔を赤くして恐いくらいの笑顔。
やっぱり……今日も酒に飲まれたんだ。
半分呆れながら眺めていると、課長は楽しそうに話を続けた。
「俺なんかもう一年以上嫁とやってないぞ」
「そ、そうなんですか?」
隣に座っていた男性社員が、若干引きながら答えている。
「嫁相手じゃやる気出ないよ」
「奥さん美人じゃないですか?」
「そうか? けどそれとこれとは話は別だろ?」
「そんなもんですかね……」
「そんなもんだよ。食欲は家で満たして、性欲は外で。これ基本だろ?」
……最低。
何が基本だろ? だ。
女を何だと思ってるんだろう。
こんなこと言われているの知ったら、奥さんどう思うかとか考えないのかな。
イライラしながら、グラスを手に取り、一気に中身を飲み干した。
その後も課長の馬鹿な話は続き、私のイライラも連動するように増して行った。
もう帰ってしまおうか。
そう思った瞬間、
「何、怒ってんの?」
すぐ近くから深みの有る低い声が聞こえて来た。
「え?」
顔を向けると予想より随分近くに、藤原雪斗の整った顔。
あ……この人の事忘れてた。
「さっきから恐い顔してるけど」
藤原雪斗は戸惑う私をじっと見つめながら言う。
「別に……怒ってませんけど」
「そうは思えないけどな」
フッと笑いながら言われ、なんだか嫌な気持ちになった。
馬鹿にされてると言うか、見透かされているというか……。
「もしかして欲求不満?」
「……は?」
「課長の話で機嫌悪くなったんだろ? 奥さんと自分を重ねたとか?」
……何、この男。
さっきまで愛想無く無口だったくせに、急にペラペラと余計な事を。
「もしかして図星? 適当に言ったんだけどな」
この人……かなり性格悪くない?
もう会話をする気にもなれない。
立ち上がり、課長には適当に挨拶して店を飛び出した。
ムカムカしながら駅までの道を早足で歩く。
課長もふざけてると思ったけど、藤原雪斗はそれ以上。
欲求不満って……。
心から失礼な奴だと思う。
顔が良くて、仕事が出来ても、中身は最悪。
図星? とか馬鹿にして。
怒りのせいか駅まで直ぐに着き、丁度来ていた電車に乗り込んだ。
ドアの隣に立ち、流れる景色に目を向ける。
欲求不満……図星……。
思い出すと気分が悪い。
でもそれは藤原雪斗が言うように図星だからかもしれない。
湊と抱き合えなくなってからもう一年。
本当は寂しくて仕方ない。
同じ家に住んで、時には同じテレビを見て笑い合えても、心の中の痛みは消えない。
湊に触れたい、触れて欲しい。
そんな気持ちがもう抑えられない程溢れていた。