テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#アラスター
64
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
とんでもないことを言った彼が私の前に一枚の紙を置く。そこには、こう書かれていた。
『制裁レシピ 第一工程 ――夫を、油断させる』
「ゆ……油断させるって、どうやったらいいのですか?」
突然、慎一が浮気しているって聞かされて。しかも相手は、同じ会社の女で。
昨日、私が父の形見を失って泣いていた時も、慎一は別の女と何食わぬ顔で連絡を取って、楽しんでいたんだ。
思い当たるフシもある。
急に増えた残業、急に増えた出張、部長からの連絡に休日の呼び出し――
外資系の会社だから忙しいと思っていた。
「油断させるやり方がわかりません……」
すると、オーナーが静かに語り掛けた。
「では、美輪さん」
低く落ち着いた声。
「今すぐご主人を問い詰めますか?」
「え……?」
「スマホを見せろ、愛人は誰だ、と」真琴さんは微笑んだまま、続ける。「そう言ってご主人を責めますか?」
「それは……」
言いたい。
問いただしたい。
なんでこんなことしたのって。
どうして私を裏切ったの、って。
「その瞬間、証拠はすべて消えますよ」
驚いて顔を上げる。涙が止まった。
「相手は追い詰められた瞬間に隠します。スマートフォン、SNS、レシート、位置情報……あなたに見つからないよう、周到に、すべてを」
オーナーが、私の前に置かれた制裁レシピを指先でなぞる。
「復讐に感情論は不要です。勢いで問い詰めたり、こちらが冷静さを欠くと失敗します」
「……じゃあどうすればいいんですか」
私にはわからない。
夫の浮気を知って、笑っていられるほど器用じゃない。
するとオーナーは、ふっと笑った。
「簡単です」
そして。
「今まで以上に、いい妻になってください」
「……え?」
意味がわからなかった。
「ご主人を安心させるんです」
「安心……?」
「ええ。美輪さんは、なにも知らない妻、なにも気づいていない間抜けな妻だと、そう思わせる。男は、自分が支配できていると思っている間は油断します」
自分が支配できていると思っている間は油断する――オーナーの言葉が胸に響く。
「逆に、妻が勘づいたと思ったら、隠します。今までのような証拠は残さない」
「じゃあ……私ができることは……」
「笑ってください」
真琴さんは即答した。
「美輪さんは今まで通り、従順な妻を演じて、愛想よくしていてください」
ドクン、と心臓が高鳴る。
こんな負の感情が爆発しそうで渦巻いている中で、そんなの――
「む、無理です……!」
私は思わず首を横に振った。「浮気されてるのに、普通に接するなんて……!」
「できますよ」真琴さんは迷いなく言った。「だってあなたは、今までずっと耐えてきたでしょう?」
「……!」
息が止まる。
「美輪さんの人となりは、クライアントから伺っています。料理が苦手だと責められても、生活費が極端に少なくても、仕事を辞めさせられても、あなたはずっと、いい妻であろうと努力を重ねてこられた。家庭をよくしようと、頑張ってこられた」
静稀ったらそんなことまでオーナーに伝えてくれたんだ……。
「違いますか?」
なにも言い返せなかった。
隣でリリコさんがストローをくるくる回しながら笑う。「男ってさー。俺に惚れてる女には警戒しないんだよね」
「外面男は特にそうよ」カスミさんも紅茶を飲みながら頷いた。「家庭が順調って思い込むと、ほんと調子乗るから」
「泳がせるの、大事~」
ユカリさんは、三つ目のマカロンを食べている。「うちの夫も、ボロ出しそうだから~。耐久戦だよ~」
この人たちはみんな経験者だから、重みが違う。
みんな傷ついて。
泣いて。
それでここに集まってきているんだ……。
「私も伴侶に裏切られた経験があります。マカロンにいる人はみんな、辛い思いを経験された方ばかりです」
オーナーが微笑んだ。「早速始めましょう。復讐の準備を」
「そうそう。せっかくだから、夫クンの裏垢も探してみようか~」
ユカリさんがのんびり言った。「ねえ、夫クンの写真ある? あ、これか」
私の返事を待たずに、ユカリさんが金のメニュー表に飾られた夫の写真を自分のスマートフォンで撮影し、読み込んだ。
「ちょっと待ってね~」
マカロンを口に放り込みながら、彼女がやや太めの指でスマートフォンを操作する。打ち方早……っ!
タタタタ、と驚くようなスピードで何かを打ち込み、タップを繰り返す。その間、わずか5分ほど。
「見つけたぁ~! これだと思うよ~。特徴一致してたから、すぐ引っかかった☆」
見ず知らずの人のアカウントが彼女のスマートフォンに映っている。
アカウント名は”イケてる俺最強_いっちゃん@エロ垢”。画面を覗き込んだ瞬間、背筋がぞっとした。
夫 だ。
顔は見せていないが、自慢げな口元、そしてその左横に特徴的なほくろ。まさに、慎一と同じ。
「美輪ちゃんの夫クンも裏垢やってるんだね~! 知ってた? あ、知るわけないよね。ごめんごめん。あはは」
そんな……夫の裏垢が存在していたなんて――!
いったい、どんな内容が投稿されているのかと思い、確認してみた。
最新の投稿には、こう書かれていた。
『妻がメシマズすぎて家に帰りたくない。
今日は癒しの子とデート。最高楽しみ♡』
添えられていた写真に写っていたのは、私が昨日焦がした肉と鍋だった。
慎一も、フォロワーたちも。
みんなで私を笑っていた。