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#フライギ
にもあえ
229
葉菜
26
その視線の主が、少しずつこちらへ近付いてきているということだった。
もちろん。
そんなことを知る者は誰もいない。
拠点では相変わらず建設が続いていた。
むしろ以前より忙しい。
住居が増えれば水路が必要になる。
人が増えれば食料庫も必要になる。
鍛冶場が完成へ近付けば、それを守る防壁も必要になる。
何か一つ作れば、次に必要なものが見えてくる。
その繰り返しだった。
「予紬さん」
しゆらが図面を抱えたまま近付いてくる。
最近はもう見慣れた光景だ。
ただ。
以前と違うのは、しゆらへ話を持ち込む住人達が明らかに増えていることだった。
「東側の通路なんですが」
そう言いながら広げられた図面には、新しく引かれた線が増えている。
住居区と倉庫を繋ぐ通路だ。
「運搬用か」
「はい」
しゆらが頷く。
「今は問題ないんですけど、人が増えると混雑すると思うんです」
確かに。
荷車。
運搬用魔獣。
人。
全部が同じ道を使えば必ず詰まる。
「いいと思う」
図面を眺めながら答える。
「むしろ最初から分けておいた方が楽だな」
その瞬間。
しゆらの表情が少しだけ明るくなった。
本人は隠しているつもりらしい。
だが付き合いが長いと分かる。
褒められるのが嬉しいのだ。
それが少し面白い。
「予紬さん」
「なんだ」
「今また笑いましたね」
「笑ったな」
「最近隠さなくなりましたね」
「隠す必要があるか?」
しゆらが言葉に詰まる。
少し考えて。
そして。
「ないかもしれません」
そう言って小さく笑った。
その様子を少し離れた場所から見ていたルカが何とも言えない顔をしている。
さらにその隣では千代が腕を組んでいた。
「なんじゃあやつら」
「いつものだよ」
「いつものなのか」
「うん」
「解せぬ」
納得していないらしい。
だが本人も最近は諦め始めている。
以前ほど口を挟まなくなった。
その時だった。
見張り台から声が飛んできた。
「長ー!」
見張り役の半魔だ。
ただ様子がおかしい。
警戒というより。
困惑している。
大和が視線を上げる。
「どうした」
すると見張りの半魔は少し言いづらそうに頭を掻いた。
「なんか変なのがいる」
沈黙。
全員が見張り台を見上げる。
変なの。
あまりにも雑な報告だった。
「人間か」
榊が聞く。
「違う」
「魔獣か」
「違う」
「じゃあ何じゃ」
今度は千代が聞く。
見張り役は本気で困った顔になった。
「いや」
そして。
「変なの」
それしか言わない。
説明を放棄したらしい。
千代が額を押さえる。
大和も珍しくため息を吐いた。
「どこだ」
「南西」
その返答を聞いて、大和の表情がほんの少しだけ変わった。
本当に僅かだった。
だが俺は見逃さなかった。
何かに心当たりがある顔だった。
「長?」
千代も気付いたらしい。
だが大和は答えない。
代わりに南西の森を見た。
そして。
数秒後。
またため息を吐く。
今度は諦めたようなため息だった。
「そういうことか」
その声を聞いた瞬間。
なぜか嫌な予感がした。
理由は分からない。
だが。
大和がこんな反応をする相手はそう多くない。
そして。
その予感はすぐに的中することになる。
森の向こうから聞こえてきたのだ。
人の声が。
しかも。
やけにのんびりした声が。
「おーい」
静かな森に声が響く。
「おるのじゃろー?」
その言い回しは妙に和風で。
だがどこか不自然だった。
そして。
次の一言で、大和は完全に目を閉じた。
「大和ー」
呼び方だった。
あまりにも遠慮がない。
長でもなく。
殿でもなく。
敬称すらない。
ただ名前だけ。
それを聞いた瞬間、千代がゆっくり大和を見る。
榊も見る。
俺もしゆらも見る。
全員の視線を受けながら、大和は静かに額を押さえた。
そして。
心底面倒そうに呟く。
「来たか」
その一言で、まだ姿も見えていない相手が、とんでもなく厄介な人物なのだと理解してしまった。
森の奥から聞こえてくる足音には警戒心というものがまるで感じられない。
人間軍が近付いてくる時のような緊張感もなければ、魔獣が獲物へ忍び寄る時の殺気もない。
まるで自分の庭でも歩いているかのような気楽さだった。
やがて木々の隙間から一人の女性が姿を現す。
最初に目へ入ったのは和傘だった。
深い紫色の傘は見た目こそ上品だが、柄の部分には複雑な紋様が刻まれている。ただの日傘には見えない。武器として使われても不思議ではない雰囲気があった。
傘を肩へ担いだ女性は周囲を見回し、完成途中の防壁や住居区を興味深そうに眺めている。
長い黒髪。
白い肌。
赤い瞳。
見た目だけなら絶世の美女と言ってもいい。
だが、周囲の半魔達が警戒している理由は別にあった。
強い。
その一言に尽きる。
魔力を見せつけている訳でもない。
威圧している訳でもない。
それなのに、この場にいる誰もが理解してしまう。
目の前の女性は強者だ。
榊も僅かに目を細めているし、見張り役の半魔達も自然と距離を取っていた。
女性はそんな周囲の様子を気にすることなく、大和を見つけると小さく笑った。
「相変わらず酷い顔色じゃな」
開口一番がそれだった。
大和も驚く様子はない。
「お前も相変わらずだな」
「百年くらい見ておらん気がするの」
「盛るな」
「細かい男じゃ」
軽口を交わす二人を見ていると、長い付き合いなのだろうということだけは分かる。
千代も同じことを思ったらしく、不思議そうな顔で二人を見比べていた。
女性はようやくこちらへ視線を向ける。
「初めましてじゃな」
口調は和風だ。
ただ、千代とは少し違う。
東の国の言葉を覚えた者が、長い年月を掛けて自分のものにしたような独特の響きがあった。
「儂はミズキ・カースバル」
そう名乗ると、和傘を肩から降ろして軽く一礼する。
「吸血種じゃ」
周囲がざわついた。
珍しいどころではない。
文献でしか見たことがない存在だ。
俺も思わず観察してしまう。
昼間だというのに平然としている。
恐らく全身を覆う魔力膜か何かを維持しているのだろう。
微かに感じる魔力の流れが不自然だった。
そんなことを考えていると、ミズキの視線がふと横へ流れる。
しゆらだった。
紫色の瞳がきょとんと瞬く。
ミズキは無言でしゆらを見る。
しばらく見る。
かなり見る。
嫌な予感しかしなかった。
「綺麗な子じゃな」
案の定だった。
しゆらは突然褒められて戸惑っている。
「ありがとうございます?」
語尾が疑問形になっていた。
ミズキは満足そうに頷く。
「髪も綺麗じゃ」
一歩近付く。
「目も綺麗じゃ」
さらに近付く。
距離感がおかしい。
しゆらも気付いたらしく少し後退る。
だがミズキは止まらない。
そのまま白い髪へ手を伸ばそうとした瞬間だった。
考えるより先に身体が動く。
しゆらの肩を引き寄せる。
気付けばしゆらがすぐ隣にいた。
肩が触れるほど近い。
ミズキの手は空を切った。
「む」
少しだけ不満そうな声が漏れる。
「駄目かの」
「初対面だろ」
「そうじゃな」
納得したような返事だった。
だが全然納得していない顔をしている。
しゆらはというと、急に引き寄せられたせいで固まっていた。
白い髪の隙間から見える耳が少し赤い。
「大丈夫か」
声を掛けると、しゆらは慌てて頷いた。
「だ、大丈夫です」
大丈夫そうには見えない。
ミズキはそんな様子を見て何かを察したらしく、意味深に目を細める。
その笑顔を見た瞬間、俺は面倒なことを考えている顔だと理解した。
そして案の定、次の標的は千代だった。
赤い瞳。
黒曜石の角。
赤みがかった黒髪。
ミズキは千代を見る。
しばらく見る。
そして頷く。
「ほう」
その一言だけで千代が警戒態勢に入った。
半歩下がる。
ミズキは一歩近付く。
千代はさらに下がる。
ミズキは止まらない。
完全に獲物を見付けた顔だった。
「待て」
千代が真顔で言う。
「落ち着くのじゃ」
「儂は落ち着いておるぞ?」
「落ち着いておらぬ」
会話になっていなかった。
ミズキが手を伸ばす。
千代が身構える。
その瞬間、黒い羽織がふわりと視界を覆った。
千代が目を瞬く。
気付けば大和の腕に引き寄せられ、羽織の中へ半ば隠されていた。
見覚えのある光景だった。
以前、千代が照れ過ぎて固まった時と同じだ。
「長?」
千代が見上げる。
大和は平然としていた。
「相手をするだけ無駄だ」
「お主な」
「なんだ」
「近いのじゃ」
「そうか」
全く気にしていない返事だった。
だが千代の方はそうではない。
羽織の中は思ったより近い。
体温も。
心臓の音も。
全部伝わってくる。
耳が赤くなるのを隠せていなかった。
ミズキはそんな二人を見ていた。
しばらく見ていた。
それから。
口元をゆっくり緩める。
「なるほどの」
その声には妙な納得が含まれていた。
大和は嫌そうな顔をする。
千代は何を言われたのか分からず眉をひそめる。
俺は何となく理解した。
この女。
全部察したな。
そして間違いなく面白がっている。
その予感だけは外れる気がしなかった。
コメント
1件
よかったです、第35話。ミズキさん、いきなり現れて一気に空気を持っていく感じがすごく鮮やかでしたね。大和の「来たか」の一言で既に面倒な人物と分かるのも上手いし、しゆらを引き寄せる予紬の動きにドキッとしました。この人、無自覚に距離が近いんだなあ、と。そして千代と大和を羽織で隠す流れ、自然で微笑ましかったです。ミズキの観察眼も怖いけど面白い。次が気になります。