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Side深澤
名札には、「タツ」と書いてある。
それは店のルールに従った、ただの“あだ名”だ。けど、俺にとっては――“隠れ蓑”みたいなもんだった。
「ふっか」って呼ばれてたのは、もうずっと昔の話。
学生時代。笑われたり、からかわれたり、でも悪い気はしなかった。
けど今は、その名前を口にされるのが、どうしようもなく落ち着かない。
何かを思い出してしまいそうで、何かを期待してしまいそうで。
バーカウンターの奥、薄暗い照明の中で、今日もグラスを磨く。
店の空気、常連の声、ガラス越しのネオン。
全部、もう慣れた景色だ。
「おつかれさまです、タツくん」
声をかけられて、条件反射で笑顔を返す。
いつも通りのやりとり。馴染んだ対応。
グラスの向こうにいる客が笑えば、俺も笑う。
この“タツ”としての顔も、最初は慣れなかったけど……今は、けっこう板についてきたかもしれない。
「おいタツ〜、氷、ストック切れそう」
カウンターの端から声をかけてきたのは、後輩のユウト。
歳は俺より四つ下で、チャラい見た目のくせに、やたら気が利く。
「了解。冷凍庫から出しておくわ」
グラスを洗い終えた手を拭いて、裏に回ろうとすると――
「ちょっと待って!さっきのテーブル、モヒート頼んできたけどミント切れてるっぽい!」
今度はホール担当のミナが慌てて戻ってきた。
「またぁ?今日、やけに人気だな」
「ね?タツくん、替わりにオススメのカクテルでいい感じにごまかしてくれない?」
「ごまかすって言うな(笑)。まぁ、こっちでアレンジするよ」
こういうときの臨機応変さも、ここで働きようになってからの武器だ。
冷静に対処して、誰かのフォローもできるようになった。
肩の力を抜いて、冗談を返せる場所。
誰かのために動けて、頼られる場所。
この店が好きだ。
“ふっか”じゃない自分で、ここにいられることが、今の俺を支えてくれてる。
……だからこそ、過去なんて、もう忘れてしまえばいい。
ふっかとして昔想い人がいた事なんて…
――そう思ってた。
――――――――――――
グラスを片付け終えたタイミングで、ふと入口のベルが鳴った。
静かな音だったけど、その場の空気が一瞬、張りつめるように感じたのは――たぶん俺だけじゃない。
扉の向こうから入ってきたのは、スーツ姿の男たち。
人数は五、六人。無駄に騒ぐわけでもなく、整った歩幅で揃って店内に足を踏み入れる。
「……ああいうの、今日に限って入るんだよな」
隣にいたユウトが、俺だけに聞こえるように小声でつぶやいた。
確かに、あの集団は目立つ。
だがガヤついているわけじゃない。むしろ静かすぎるくらいだった。
あの感じは――たぶん飲みに来たっていうより、会議の延長。
仕事の話を切り上げるタイミングで、「軽く一杯」って流れなのだろう。
このラウンジは、そういう客にもよく利用される。
昼間はバリバリのビジネスマン。夜はスマートな顔で酒を傾ける。
華やかなだけじゃなく、こういう“静かな大人の夜”に溶け込めるのが、この店の良さでもある。
「いらっしゃいませ」
俺は姿勢を正して、柔らかな声で出迎える。
会釈のタイミングを逃さず、自然な笑顔を添えて。
「ご案内いたします。奥のテーブル席でよろしいでしょうか?」
一人が軽く頷いた。
俺はそのまま、店の奥へと彼らを案内する。
スーツが擦れる音だけが、やけに耳に残った。
奥のテーブル席まで案内を終え、俺はいつものように丁寧に腰を落とし、メニューを手渡す。
「本日は、フルーツカクテルとクラフトジンが入荷しております。お好みなどございましたら、お伺いします」
その瞬間だった。
視線を下げた俺の目に、すっと入ってきたスーツの袖口。
その手の形に、仕草に、どこか覚えのある既視感があった。
胸の奥が、不意にざわつく。
――まさか、って。そんな偶然あるわけない。
でも、ゆっくりと顔を上げてしまった俺の視界に――
……いた。
黒髪が少しだけ伸びて、学生の頃よりもぐっと大人びて、
でも目の奥の強さも、口元の少しだけ優しい角度も、何ひとつ変わってなかった。
照。
あの頃、名前を呼ぶだけで胸が痛かった、一つ下の後輩。
ずっと隣にいたのに、何も伝えられなかったやつが、今、目の前にいる。
「……」
呼吸が一瞬、止まった気がした。
鼓動がひとつ、明らかにリズムを乱した。
けど、顔には出さなかった。絶対に。
「それでは、最初のお飲み物、お決まりになりましたらお呼びください」
喉がひりつくほど乾いているのに、声だけはなめらかだった。
表情も崩さず、接客用の笑みを乗せたまま、俺はその場を離れる。
背を向けてから、ほんの数秒で全身が汗ばんだ。喉もやたら渇いている。
視界の端に誰も映らないことを確認して、俺はカウンターの奥へ足早に戻った。
……見間違いじゃない。間違えるわけがない。
あの顔、あの目、声はまだ聞いてないけど、確信だけはずっと先に走ってる。
(なんで、今ここに……。よりにもよって、なんで今日……)
心の中で何度も繰り返すが、答えなんて出るわけがなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしてるのは――俺が俺だってだってバレたくない。
カウンターの内側で、震える手を隠しながら、俺はユウトに声をかけた。
「なぁ、ユウト。奥のスーツの団体、ちょっと代わりにオーダー取ってくれない?」
「あそこ?え、やだよ~。ああいう圧ある集団、俺マジ苦手」
苦笑しながら、軽く肩をすくめるユウト。
「頼むって。たまには交代で――」
「てか俺、今フロアの補充もあるし、ボトルセットの確認もしなきゃで詰んでんの。タツ先輩のが空いてんじゃん」
そう言って、彼はグラスとカゴを抱えてホールに消えていった。
(……マジかよ)
周囲を見渡せば、他のスタッフたちもそれぞれ手いっぱいだ。
ミナはフルーツのカットで手を離せず、カイさんは厨房で新しいオーダーに追われている。
誰も――代われない。
逃げ道が、ない。
カウンターに置いた手が、自分でもわかるほど強く握り締められていた。
けど、もう逃げる理由にはならなかった。
オーダーが入ったと告げられたのは、ほかでもない――あの席からだった。
(くそ……よりによって)
俺は気持ちを押し殺すようにして、トレイを手に取る。
呼吸を整え、笑顔を“装着”するように口角を上げた。
(俺はただのスタッフ。何も特別じゃない)
その言葉を心の中で何度も反芻しながら、足を運んだテーブル席。
そして、目に入った。
――照。
スーツを着ている姿を見るのは初めてだった。
なのに、なんでだろう。驚くより先に、目が離せなかった。
静かに座っているだけなのに、姿勢も、所作も、声の出し方すら――全部が、洗練されていて。
あの頃の、ちょっと不器用で真っ直ぐだった後輩が、大人になってそこに座っていた。
(……かっけぇ、な)
思わず、心の奥で呟いていた。
“好きだった”って気持ちなんか、きっととっくに過去にしまい込んだはずだったのに。
今目の前にいるその姿を見た瞬間、全部、あっさりとひっくり返された。
なのに、俺は“接客モード”を外せない。
「ご注文、お伺いします」
なんとか声を出す。平静を装って。目を逸らさずに。
「遠慮なく頼みたまえ、岩本くん」
ふと聞こえてきたのは、彼の隣にいた上司らしき男の声。
(岩本――やっぱり、照だ)
「ありがとうございます。では、ウーロン茶を」
「おやおや、飲まないのかい?」
「はい。大事な商談ですので、そそうのないように努めたいのです」
「ほう、それは素晴らしい」
そのやりとりを聞きながら、俺は何も言えずに立っていた。
変わらない部分と、変わってしまった部分。
どちらも、まるごと今の“照”なんだと、静かに胸に刺さった。
(好き…だったんだな、俺――)
まるで再確認させられるみたいで、悔しいような、嬉しいような、息が詰まるような。
トレイを抱え直す指先に、また少し力がこもった。
気を抜いたら、グラスごと揺れそうだったから。
「オーダー入りました。ウーロン茶一本、ジントニック、カシスソーダ」
厨房口に伝えて、俺はカウンターの奥へ戻る。
無心になって、手を動かすしかない。
ライムを切り、氷を落とし、グラスを並べて。
――でも、どうしても、考えてしまう。
(……昔、あいつが教室で寝てるんじゃないかって、よく後ろの席から見てたっけな)
斜め前の席で、まっすぐノートを取ってたと思ったら、時々ふっとペンが止まる。
目を閉じて、ほんのわずかにうつむいて……あ、寝たな、って思った瞬間。
俺は何食わぬ顔でプリント配りながら、わざと机をコツンと叩いたりして。
そのたびに照は「っすみません……!」って焦って起きて。
あの真面目さと、ちょっと抜けてるところのバランスが、すげぇ好きだった。
(……何してんだよ、俺)
バースプーンを握る手に、思わずため息が漏れた。
あの頃のあいつと、今の照――
商談の席で背筋を伸ばして、隙も見せないようなその姿。
ギャップにやられてる自分が、ちょっと悔しかった。
(俺の中じゃ、あいつはまだ“かわいい後輩”のままなんだろうな)
(……なのに、あいつはもう、ちゃんと大人になってた)
そう思った瞬間、心がざわっと波打った。
懐かしさとか、寂しさとか、情けなさとか、いろんなもんが一気に混ざってくる。
(……“ふっか”としてまた会いたいけど…もうこの恋心は…なかった事になったんだから)
そう呟いて、ウーロン茶をグラスに注ぐ手を止めた。
そこに映ってる自分の顔が、どこかぼやけて見えたのは、グラス越しのせいだけじゃなかった。
オーダーの品をトレイに乗せ、グラスの揺れを確認する。
カウンターを出る直前、もう一度だけ深く息を吸い込んだ。
――俺はただのスタッフだ。
テーブルに近づき、笑顔を浮かべたまま、手早くドリンクを置いていく。
「お待たせしました。ジントニック、カシスソーダ、そしてウーロン茶になります」
そして、最後のグラスを置いたそのときだった。
照と、目が合った。
一瞬、空気が止まったように感じた。
こっちの胸の奥で何かが鳴った気がした。
あの頃と変わらない――でも、大人びた静かな目だった。
けど、照は――
何の反応も、示さなかった。
そのまま、さも何事もなかったように視線をそらし、上司に向き直った。
「本日ご提案させていただく案件についてですが……」
落ち着いた声が、滑らかに響く。
俺は、その声を聞きながら、黙ってテーブルから離れた。
動揺は、なかった。
……いや、出さなかった。
バーカウンターに戻ってから、ようやく息を吐く。
「……気づいてない、のか?」
グラスを拭く手が、いつもよりも少しだけ強くなってしまっている。
目が合ったのに。
ほんの数秒でも、見つめ合ったはずなのに。
“ふっか”って、呼ばれるかも――なんて、一瞬でも期待した自分がいたことが、腹立たしい。
(……バカみてぇ)
気づいてほしくない。気づかれたら困る。
だから“タツ”でいることを選んだくせに――
(気づいてほしいとか……ないわ)
そう呟いて、笑った。
グラスの奥の自分の顔が、やけに間抜けに見えた。
照たちの席では、特にトラブルもなく商談が進んでいた。
笑い声と静かな相槌、グラスを置く音、そして真面目な会話。
俺はそのすべてを、カウンターの奥からただのスタッフとして聞いていた。
いつも通りの業務。
いつも通りの夜。
でも、心のどこかに重たい膜が張ったような、そんな違和感が取れなかった。
――そして、それは突然訪れる。
「お会計お願いします」
そう呼ばれたとき、もう照は席を立っていた。
笑顔で上司に軽く頭を下げ、書類をバッグにしまいながら、穏やかな顔で他のメンバーと談笑している。
その後ろ姿を、俺はカウンター越しに、黙って見ていた。
スーツがよく似合う。
背も伸びた気がする。
姿勢も、歩き方も、すっかり“社会人の顔”をしていた。
“後輩”じゃなかった。
あの頃の“〇〇照”じゃ、もうなかった。
それが、どうしようもなく寂しかった。
「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」
他のスタッフが明るく頭を下げる中、俺はほんの少し、視線を低くして、そっと心の中でだけ言った。
――さよなら、照。
呼ぶことも、止めることもできなかった。
ただ、見送るだけの、俺だった。
――――――――――――
Side照
資料を閉じ、軽く一礼をする。
時計を見ると、予定より少し早めに終わっていた。
「ふむ、岩本くん。君はなかなか筋がいいね。説明も的確だった」
そう言って、上司が笑う。
「ありがとうございます」
口調も姿勢も崩さない。ここはまだ“仕事の顔”のままでいるべき場所だった。
店のスタッフがテーブルを片付けに来る気配を感じながら、俺は上司のほうを向いた。
「おや、どうしたのかね? 少し、顔が和らいだようだが」
一瞬だけ、言葉に詰まった。
けれど、表情を崩さずに、ほんのわずかに視線を落とす。
「……いいお店でしたね」
それだけを言って、俺は立ち上がった。
グラスの水滴がテーブルに小さく残っていた。
その跡を見るでもなく、歩き出す。
扉の向こうには、夜の街の静けさが広がっていた。
―――――――――
Side深澤
週末でもないのに、店は妙に忙しかった。
カウンターもテーブルも、グラスと声でひしめいていて、俺は手を止める暇もなく動いていた。
フルーツを切って、グラスを並べて、返却されたトレイを下げて。
スタッフたちの声が飛び交う中、店の入り口に目を向けると――また、新しいお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけて、俺はそちらへ向かう。
そのとき、歩いてきたその姿を見て、心臓が跳ねた。
――照、だった。
今度はひとりだった。
スーツ姿のまま。けれど、前回のような“仕事の顔”ではなくて、少しだけ気を緩めた雰囲気。
ネクタイをわずかに緩めて、足取りも重すぎない。
けど、それでも俺の中には緊張が走った。
(……なんで、また)
動揺した。でも、立ち止まるわけにはいかない。
「いらっしゃいませ。カウンター席、よろしいですか?」
視線を合わせるのが怖かったけど、自然に見えるように努力した。
照は特に何も言わず、小さく頷いた。
その仕草だけで、心の奥がまたざわつく。
俺はいつも通りの声と動きで、カウンターの端へと案内した。
いつもなら無意識にしてる接客動作が、今夜はひとつひとつ慎重すぎるほど慎重だった。
(なんで、今度はひとりで来たんだよ)
何も聞けないまま、何も言えないまま。
でも目の前にいるのは、間違いなく――あの“照”だった。
俺はカウンターの内側に入り、手元にメモを置いた。
照との距離は、カウンター越しに一歩。
このわずかな隔たりが、今の俺には救いだった。
「本日はクラフトジンが数種類入ってますけど……お好みありますか?」
ごく普通に、よく通る声で問いかける。
“タツ”としての接客モードは、身体に染みついていた。
手元にメニューを置きながら、そっと照の顔を見た。
「……じゃあ、それ。ジンで」
「かしこまりました。クセのあるのと、さっぱり系とありますけど……」
「今日はさっぱりの方で」
「了解です。トニックで割ってもいいですか?」
「うん。お任せで」
俺は頷いて、グラスを手に取った。
視線を感じる気がしたけど、顔を上げるのはやめた。
手元に集中していれば、平常心を保てる気がした。
「お仕事帰りですか?」
ごく自然な流れで問いかける。
“誰にでもする会話”を装うのは簡単だった。心が追いつけば、の話だけど。
「まあ、そんなとこです」
「ネクタイ、ちょっと緩めてるあたりが“やり切った感”ありますね」
「……バレてた?」
ふっと笑った照に、俺の指先がわずかに止まりかける。
でもすぐに動きを戻す。
「はい、そこそこ。こう見えて観察力あるんで」
「怖いね」
「たまに言われます」
他愛もない会話。
けど、その一言一言が、妙に体に染み込んでくる。
ただ話してるだけなのに、どこか懐かしい温度を感じてしまう。
ジンのグラスを置いたとき、照は一度だけ小さく頭を下げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
自然に返しながら、俺はまたグラスの拭き取りに手を伸ばした。
……このまま、何もなかったように流せる。そう思った、ちょうどそのときだった。
「……名前、聞いてもいいですか?」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
見上げると、照はまっすぐにこちらを見ていた。
探るようでも、責めるようでもない。
ただ、静かに、ひとつの質問を投げかけてきただけ。
(どうする……?)
心臓が痛いほど脈打ってるのに、声は意外にもすんなり出た。
「……これです」
そう言って、俺は胸元の名札を軽く指さす。
書かれているのは、慣れ親しんだ偽名――“タツ”。
「タツ、って言います」
目を逸らさずにそう答えたのに、喉がひりついた。
嘘をついたわけじゃない。でも、真実じゃない。
照はほんの一拍、間を置いて――小さく頷いた。
「……タツさん」
その声に、少しだけ温度があった。
そして照は、穏やかな口調で続けた。
「俺は、照です」
知ってる。
何年経っても忘れられない、俺が昔、好きだった名前。
けど俺は、何も知らないふりをするしかなかった。
「よろしくお願いします」
そう言ってグラスに手をかけた照を、俺はただ黙って見ていた。
「この間は、商談のようでしたが……うまくいきましたか?」
グラスを拭きながら、何気ない雑談のひとつとして。
「ええ。おかげさまで」
照は軽く笑って、グラスを持ち上げた。
「静かで落ち着いたお店だったので、助かりました」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
口にした瞬間、自分でもそれが“タツ”の反応なのか、“ふっか”の声なのか、わからなくなった。
「……なんとなく、また来てみたくなって」
そう続けた照は、視線を落としてグラスを傾けた。
その表情は読めなかったけど、どこか遠くを見ているような、そんな目をしていた。
俺は何も言わず、静かに頷いた。
「ありがとうございます。またいつでも、お待ちしてますよ」
あくまで、“誰にでも言うセリフ”として。
でも、どうしてだろう。
そのひと言が、どこか切なく響いてしまった。
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