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「やれやれ。仮にも魔族に連なる者が、人に肩入れするとは、無様なものよ」
闇姫は満面の笑みで、しかし侮蔑の言葉を、もう消えてしまった存在に投げかける。
死者に鞭打つその言葉に、フリッツは再び怒りが身体中を駆け巡るのを自覚した。
クリスは、壊れたような声をただ口から垂れ流している。
彼女の援護は期待できなかった。フリッツは一人で地面に転がっている棍を回収し、そのまま闇姫へと向かう動きを模索する。
しかし、それが容易ではない――どころか不可能に近い――ことは沸騰した頭でもわかる。
どうすればいいか? フリッツは考える。
だが元々考えること自体が、アリシアやビットほど得意ではない。状況を打破する手は、フリッツには思い浮かばなかった。
だから、フリッツは決断する。
限界を超えた速度で動くべく、息吹を丹田に落とし込み、構える。
フリッツの意図を察して、闇姫は口が裂けているかのような、深い笑みを浮かべた。
フリッツは本気で動く。それを封じれば、絶望の芽が顔を出す。
強い意志を持つ者の絶望ほど、甘美で、上質な味となる。
真魔である闇姫は、絶望を呼び起こし、それを喰らうことで世界を穿っていく。
フリッツの姿がかき消える。冗談のような速度で、棍へと向かう。
闇姫はそのあまりの速さに驚きはしたが、それでも取り乱したりはしない。
棍を掴み、闇姫へと駆けるための一瞬の間。そこに狙いを定める。
闇姫の意識が、フリッツの動作に集中する。
それら、一瞬にも満たない時の流れの中で――
無防備な闇姫を蹴り飛ばしたのは――アリシアだった。
わずかにたたらを踏む闇姫が、憎々しげにアリシアを睨む。
「貴様!」
怒りの声を上げる闇姫に、今度はフリッツが襲いかかった。
棍を左手だけで巧みに操り、闇姫を一歩、下がらせる。
その一歩をきっかけに、闇姫が大きく跳んで下がった。
忌々しげに、舌打ちしながら、アリシアを見据える。
「死に損ないが。聖魔法も、生命維持が精一杯と思っておったがの」
「実際そうよ。あんたが消したシウムの最後の魔力がなければ、立ち上がるなんて無理だったわ」
その言葉に、アリシアは挑発で応じた。そのまま、闇姫を無視して、フリッツの右肩に掌をかざす。
「癒しを、あなたに」
言葉と共に白い光が傷口を覆い、流れる血を止める。
傷口が完全にふさがるわけでも、痛みがなくなるわけでもなかったが、それでも血が止まるとずいぶん違う。
フリッツは視線で礼を言い、アリシアは笑みで応じた。
フリッツがアリシアを背後にかばい、再び闇姫と対峙する。
一方、アリシアは闇姫とは別の方向へと走る。その先にいるのは――いまだ意味のない絶望に浸る少女。
クリスティーナ=シェルフェリア。
闇姫に身体を支配される少女エリスの、たった一人の、最愛の姉。
そのクリスを、アリシアは容赦なく蹴り飛ばした。
「うあっ!」
クリスの口から、違う種類の悲鳴が漏れる。
一瞬焦点の戻ったクリスの瞳が、アリシアを映す。しばらく視線は胡乱なまま留まり、そして驚愕に瞳が見開かれた。
「アリシアさん?」
「またウジウジウジウジと! わたしに言われたことをもう忘れたの?」
驚きの言葉を無視して、アリシアが怒鳴りつける。
それにクリスも、激昂で応じる。
「わたしのせいで! エリスはこうなったのよ! それを思い知らされて、わたしに何をしろっていうんです!」
その言葉に、アリシアは視線の温度を氷点下に落とした。怒鳴りつける価値もない、とばかりに静かに、そして軽蔑を込めて言う。
「どうしろなんて知らないわよ。あなたはどうしたらいいかわからずに、絶望してただ泣き喚いていたの? だとすれば――失望したわ」
アリシアは興味を失ったように視線をクリスから闇姫へと移した。
腰を落とし、構えを取る。
「どうするかなんて、自分で決めるしかないわよ。ただあなたの選択が、泣き喚くことだったのには、失望したわ」
アリシアが、再び戦場へと駆ける。
「目覚めさせる最後の方法。それは今でも、有効よ。例えそれが、夢魔ではなく真魔が相手でも。人間にはほぼ不可能だとしても。それは確かに、最後の方法よ」
失望したはずの少女に、一言、前へ進むための魔法の言葉を残して。
その言葉は確かに、クリスの瞳に再び意志の光を灯した。
「わたし……わたしは…………」
クリスは呟く。
その呟きは、今度は無意味なものではなく――
言葉にならない言葉が染み込むように、少しずつ、クリスの心に広がっていく。
フリッツの棍が空を切る。その一瞬後には、黒い錐が誰もいない空間を貫く。
加速するフリッツに、それに合わせてくる闇姫。二人の戦いは、眼で追うことが困難どころか、視界に写らないような状態に達していた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「はああああああああああああああああ!」
二人の雄叫びが響き、肉体と武器が互いにぶつかり合う。
一見すると、まったくの互角だった。
しかし、そうではない。幾度がフリッツに訪れている、決定的な好機。その時に限って、フリッツの動きがわずかに鈍る。
それを闇姫は気づいているし、フリッツは自覚している。
結局、フリッツは非情になりきれない。
これほどの人間離れした強さを持っていても――彼は人を殺せない。
頭では世界の敵と理解していても――子どもの姿に躊躇する。
それはあるいは、美点なのかもしれない。だが、この場においては、欠点でしかない。
「それがおぬしの限界よの」
嘲りと愉悦を含んだ言葉が、闇姫の口から漏れる。だが、何かをするよりも速く、アリシアが蹴りを繰り出し、かろうじてフォローする。
「お主も、絶望せぬ人間か」
闇姫は倦んだ調子で言うと、大きな溜息を一つついた。
「失せるがよい!」
アリシアの周囲に黒い錐が四本出現し、同時に襲い掛かる。
「食らわないわよ!」
アリシアは跳躍してそれを避け、さらに空中で上方に掌をかざした。
「守りを! わたしに!」
白い光が、落下してきた五本目の錐を防ぐ。
その反動を力として、アリシアの蹴りが、闇姫の肩に叩き込まれる。
完全に入った。アリシアはそう判断した。ここを見逃す手はない。
「はああああああああっ!」
着地と同時に放たれる、一瞬三撃の連続蹴り。それをまともにくらっても、しかし闇姫はわずかに身体を揺らしただけだった。
「鬱陶しいわ!」
逆に隙を見せたアリシアに拳を叩き込む。呻きをあげるアリシアに、今度こそ黒い錐が襲い掛かる。
だが、それは割って入った金色の混が薙ぎ払った。
「次から次へと! 勝ち目もないのに抗うでない!」
はっきりと苛立ちを顔に浮かべ、闇姫が吼える。
フリッツとアリシアがそれぞれ錐を避けながら、左右に別れる。
「勝ち目なら、あるわよ」
アリシアが不敵に笑う。それはフリッツの見慣れた、圧倒的な自信に裏打ちされた笑み。
「クリス!」
アリシアに名前を呼ばれた少女は、いつの間にかフリッツのすぐ近くまで歩いてきていた。
それはすなわち、闇姫と相対する距離。
恐怖に震える少女では、絶望に打ちひしがれる少女では、絶対に入れはしない、領域。
その横顔は、初めて会ったときと同じような、ひたむきな、それでいてどこか切迫した表情を浮かべていた。
いや、それだけではない。
その顔には確かに、力があった。誇りがあった。
まるでフリッツの主、アリシアのように。
フリッツは、クリスの横顔に思わず、見蕩れた。
その無遠慮とも言える視線の先で、クリスは意を決して、顔を上げる。
全力で、心から、叫ぶ。
それは愛しい妹への、久しぶりの真摯な言葉。
「エリス! 起きて! わたしはちゃんと! ここにいる!」
確かに響いた、呼びかける言葉。
「エリス! わたし、あなたを助けに帰ってきた!」
アリシアが満足そうに頷くのを――
闇姫が憎々しげに歯噛みするのを――――
「お願い起きて! わたしが、みんなが! エリスの目覚めを待ってる!」
フリッツは確かに、見た。
重い空気に満たされた、世界から外れた部屋が、わずかにぶれた。
――眼を逸らし、耳を塞いでいたはずの場所から、声が聞こえた。
それは、懐かしい声。そして――大好きな声。
ずっとずっと、声をかけて欲しかった。
霧に包まれていた時は、もしかしたら声をかけてくれていたのかもしれない。
けれど、その声は小さくて、悲しくて。
気のせいだと思っていた。思いこもうとしていた。
なぜなら、そんな悲しい声が呼ぶ世界は、きっと悲しいままだから。
眼を覚ましたくなんて、なかった。
呼ばれて、目覚めて、そしてまた突き落とされるのは、絶対に嫌だった。
けれど、今聞こえた声は違う。
それは、懐かしい姉の声。大好きな――溢れんばかりの力に満ちた、姉の声。
その声が導いてくれるのは、きっと、幸せな世界。
――眼を、覚ましたい。
少女は初めて、心からそう思った。
けれど、真魔の支配を抜けられる力など、どこにもない。
少女は眠りから、覚められない。
望めども叶わぬその現実に、少女はありったけの力を振り絞って、声にならない叫びをあげる。
――消えるはずの叫びは、何かに増幅されて、確かな声となる。
「お姉様!」