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「これを受け取って、身を引けとおっしゃるんですか?」
「お金にお困りのようだから。弟さんの留学費もあの子に工面させて、本当に卑しい姉弟ね」
李人まで馬鹿にされた気がして、膝の上で拳を握った。
「弟が帰国したら、少しずつ返金していきます」
「そうやって、いつまでもあの子につきまとうつもりね。でも、今日であなたの顔を見るのは最後よ」
朝倉さまが小切手を指差した。
「これと交換に、祐二と別れなさい」
(どこまで馬鹿にするのよ。飛びつくわけないでしょう)
私は辛酸を嘗めて、ここまで生きてきた。
窮地に追い込まれてからの巻き返しなら、何度も経験してきたんだから。
私はじっと小切手を見据えた。
「あの、本当にこんなに頂いても、よろしいのでしょうか?」
「……頭、悪いのね。これで手を引きなさいって言っているでしょう」
朝倉さまがイライラしたように足を組み替えた。
私は淡々と続けた。
「私が手切れ金をもらって祐二さんにお別れをお伝えしても、状況は変わらないと思いますよ」
「どういうこと?」
私はゆっくりと口角を上げる。
「だって、祐二さんは私に夢中ですから」
満面の笑顔を浮かべた。
朝倉さまは「はあ?」と、拍子抜けしたような声を漏らす。
(事実だもの。私は嘘なんてついてない)
「私が別れたいと言っても、祐二さんが離れてくれないでしょうね」
私は眉を下げ、わざとらしく首を振った。
あの年まで私のために童貞を死守した漢ですよ。
離れるわけがない。
「く、黒川! あなた、祐二を説得したのではないの?」
「実は奥さまっ、失敗に終わりまして……」
黒川さんが申し訳なさそうに深く頭を下げた。
怒りが高まった朝倉さまが、いきなり立ち上がった。
「それでは、ここで交渉する意味がないじゃないの! なにをやっているのよっ」
黒川さんは頭を上げない。
夏目莉央
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くま🐻☁️
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少しだけ可哀想になった。
「あの……一応、祐二さんに打診してみるので、この手切れ金はいただいてもよろしいでしょうか?」
私はそっと小切手に手を伸ばした。
すると黒川さんが、カルタ取り選手のような速さでそれを奪取した。
私の手が宙に取り残される。
瞬きをしながら、小切手の消えたテーブルを見つめた。
三人しかいない部屋の空気が、ぴたりと止まる。
「──牧野瞳子。いい度胸をしているわね」
朝倉さまが足を崩し、ゆっくりと立ち上がる。
私は彼女を見上げた。
彼女の額に、うっすらと青筋が立っているのが見えた。そして、会心の笑顔を見せてくる。
「なら、最後にいいことをあなたに教えてあげるわ」
「なんでしょう」
私は眉を寄せて、彼女を見据える。
朝倉さまは腕を組み、黒川さんを振り返った。
「黒川。この方は祐二のいくつ年上なの?」
「七つでございます」
「七つ! そんなに年上なのね!」
黒川さんと小芝居をして、私と朝倉くんの年齢差を強調してきた。
(改めて指摘されると……心が痛い!)
思わず目を細めてしまった。
「祐二は年上女を選んで、私の代わりにしようとしているのね」
「え?」
「主人が亡くなって、私が代わりに懸命に働いたわ。熱を出して寂しがるあの子の手を振り解いてまで。だから、あの子は不安になるといつも私にこう言うのよ」
私は指を握り込み、次の言葉に息を飲んだ。
「『行かないで、そばにいて』ってね」
「あっ──……」
ミラーハウスでの彼の言葉がよぎる。
──行かないで!
私の中で、すべてが腑に落ちた。
朝倉くんは、目の前から私が消えたことで、幼少期の体験から不安になった。
フラッシュバックだったんだ。
寂しいときに、母親が消えてしまったように。
「あの子は母親の代わりを探しているだけ。それを愛と勘違いしてはダメよ」
「違います。祐二さんと私は愛し合って……」
なぜだろう。言葉が続かなかった。
この母親の言葉が、深く心に突き刺さってくる。
身に覚えがないわけじゃない。
勤務中も、彼はいつも私のそばから離れようとしなかった。
いつも私の後を追ってきた。
(それは──母親の安心感を求めていたから?)
私の心が黒い水を吸い出し、一気に重くなる。
「あなたから母親業を取り上げたら、何も残らない。中身は空っぽ。いつかあなたは、あの子に飽きられるわ」
朝倉さまが、私を上から覗き込む。
その目には、憐れみが浮かんでいた。
そんなことはないと反論したいのに、身体が動かない。
だって、見抜かれてしまったと思ったから。
そうだ。
私は朝倉くんのような能力もない。
何か特別なものを持っているわけでもない、中身のない人間だ。
それが怖くて、認めたくなかった。
反撃する力が、削がれていく。
顔を上げることもできず、ただ項垂れるしかなかった。
朝倉さまがコツコツとピンヒールを鳴らして、私の真横に立った。
「傷つく前に、あなたから離れなさい」
私の肩を二回たたく。
そして、身体を翻した。
「黒川、帰るわよ」
ピンヒールの音が廊下に響いていた。
『勝者は私』と宣言されたようで、耳を塞ぎたくなった。
私はそっと、目を伏せた。
「牧野くんっ。大丈夫だったかね!」
高松支店長が、すごい音を立てて扉を開いた。
その音で、私は我に返った。
「は、はい。でも……交渉が……」
私は口ごもってしまった。
しかし、支店長は笑顔だった。
「しばらくは牧野くんの担当で様子を見るとのことだ。頑張りたまえよ!」
「そ、そうなんですか?」
たぶん、それは駆け引きの材料なのだろう。
私が別れを選ばなければ、責任を私に押しつけ、担当を降ろさせる。
そして、私の評価を一気に下げる。
姑息なやり方だ。
だが、経営者として自分の持つカードを最大限に利用する、優秀なやり手なのだろう。
しかし、美麗さんは甘い。
私と朝倉くんが結婚すれば、美麗さんは親族になる。
社内規定により、親族の担当はできないため、自動的に外されるだけだ。
美麗さんは脅威ではない。
けれど、聞き捨てならない言葉が、胸に重く残ってしまった。
「牧野くん、朝倉さまの忘れ物だ。ご連絡しておいてくださいね」
「はい」
手渡されたのは、四つ折りにされた一枚の印刷紙だった。
そこには『薬剤情報提供書』と印字されていた。
これは、薬局で発行される、医師から処方された薬剤についての説明書だ。
氏名は──朝倉美麗。
私が気になったのは、そちらではなかった。
用紙の端に手書きで書かれていた、黒川さんの連絡先のほうだった。