ふたたびここに戻ってくるとは――セラは顔をしかめた。
夕日差し込む森の中にある、狼人(ヴォール)らの砦が、目の前にあった。
石造りの古めかしい砦。城壁のいたるところに植物の蔦が侵食していたり、一部に穴が開いていたりするが、狼人らが拠点にしていただけあって、最低限の防衛能力はありそうだった。
「大丈夫?」
ちらと視線を向ければ、リアナだった。狐人(フェネック)の少女が、どこか気遣うように言ったのは、昨日セラが狼人らにさらわれたショックを引きずっていないか心配したのだろう。
セラは微笑んだ。
「ええ、大丈夫です」
本当は嫌だったが、それを表に出すことはなかった。
何故なら、元とはいえアルゲナムの姫だから。人前で弱気を見せてはいけない。白銀の勇者の末裔、その名に恥じるような言動はとれない――セラの生真面目な部分は、不安と恐れの感情を捻じ曲げ、踏ん張っていた。
思うところはある。狼人らがいた――その空気を感じるだけで、背筋に寒気が走った。裸にされ、袋詰めにされたこと。魔法を封じる枷を嵌められ、無力感と恐怖に押し潰されそうだったあの時。
絶望。
ケイタに助けられたのも奇跡だとセラは思っている。
彼の救われた時、どれだけ心の底から安堵したことか。彼の胸に飛び込んだ時、いつまでもその温かさに包まれていたいと思ったか。
そのケイタは今、殿軍として森で魔人軍の足止めをしている。アルフォンソのシェイプシフター能力を使って、奇襲と陽動を仕掛けると言っていた。
正直、彼とアルフォンソだけで、二千にもおよぶ魔人をどこまで足止めできるかという疑問はある。はっきり言って無茶苦茶だ。リンゲ隊長も同様の懸念を抱いたが、作戦を立案するユウラは微塵も疑っていないようだった。
圧倒的な信頼。
そうだ、ケイタならやってくれる。彼が今まで一度だってこちらの期待を裏切ったことなどあっただろうか?
だが、心配でもある。
セラは小さく嘆息すると、振り返った。
親衛隊のリンゲ隊長は、部下たちに指示を出す。
「砦内を確認を済ませろ。それが終われば休養と食事だ。班ごとに行動、では掛かれ!」
親衛隊兵らは駆け足で砦の門を潜っていく。
セラのまわりには、リアナとユウラ、アスモディア、そして親衛隊兵が五名、警備に残っていた。
「それでユウラさん。ここで私たちは立てこもるんですか?」
森の中に魔人軍を引き入れ、引き付ける。街道を避難する王都の難民を安全圏まで逃がすまで。それが今の行動原理である。
森の中にある獣人の砦に来たということはつまり――
「いえ、籠城はしませんよ」
ユウラは、砦を見上げながら言った。セラは目を瞬かせる。
「でも時間を稼ぐ必要がありますよね?」
「ええ」
「それなら、守りの堅い拠点で待ち構えるのが常道では」
「平地で正面から戦うより、拠点に篭ったほうが人数の差をある程度、補いがつく……確かにそうですが」
ユウラは首を横に振った。
「セラさん、我々は籠城などしてはいけないのです。理由は三つ。一つ、我々は外部からの援軍が全く見込めないこと。味方の軍勢が救援に来るならいざしらず、そうでないなら自ら退路を断つことを意味します」
青髪の魔術師は、ちらをセラを見た。
「結果は、文字通りの全滅です。……あなたは、ライガネンに行くのでしょう?」
「……」
「二つ、ここに食糧の蓄えがある可能性がほぼない。つまり籠城に耐えうる準備がなされていない」
「食糧、ですか?」
立てこもるとあれば、確かに食糧や水は必要だ。だがここは曲がりなりにも獣人らが使っていた砦であり、生活の場である。まったくないことは――
「狼人と人間の食事が共通していると思わないでくださいね。彼らは肉食ですし、人間とは食事の間隔も異なります。パンはありませんし……リッケンシルトの兵に、ネズミの調理に通じている方がいるとも思えません」
「ネズミ……」
セラは絶句した。そういえば、地下亜人であるグノームの集落で出された虫料理など、全く手を付けられなかったことを思い出す。
「三つ目は、何です?」
もう十分な気がしたが、一応確認する。ユウラは淡々と答えた。
「砦の防御能力自体が低いのが問題です。老朽化が目立ちます。だいたい魔人軍との戦力差がありすぎて、拠点に篭ったところで一刻ともたず押し潰されるのがオチでしょう」
アスモディア、とユウラは赤髪の魔人女を見た。
「一般的に、攻城戦において、相手兵力の三倍は必要と言われますが、魔人ではどうです?」
「レリエンディールでは、相手に対し二倍から三倍の兵力が攻城戦では望ましいとあります。投入される種族にもよりますが、やり方次第では二倍程度の戦力もあれば」
「こちらは相手のおよそ四十分の一ですからねぇ」
ユウラは苦笑するしかなかった。
セラは改めて自分が無茶なことを提案して、周囲を巻き込んだとネガティブな思考がもたげた。
とはいえ、あの場合どうすればよかったのか。避難する人々を囮にして逃げるなんて外道なマネをするくらいなら死んだほうがマシ。
――では、ここで魔人軍と戦い死ぬのか……。
自嘲したい気分だ。あのまま街道で逃げても結局魔人軍に追いつかれて殴殺されるだけ。ならせめて足掻くしかないだろう。
セラ自身に勝つビジョンはない。いや思い描けなかった。悔しいが、四十倍の戦力差を覆す名案が浮かばなかった。
だが傭兵たちは……ケイタやユウラには、セラとは違うものが見えている。それがなければ、当にセラを見限って逃げていてもおかしくない。
実際、そうなってもセラは彼らを責める気はなかった。見限られたら、自分自身の命を持って責任をとるしかないと思っている。
セラは、ユウラを見つめた。
「黙ってやられるつもりは、ないですよね?」
「砦は囮として使います」
ユウラは、すらすらと答えた。
「我々がここに立て篭もっているのを装い、包囲させます。そして魔人兵らが砦を攻略すべくその内部へ侵攻したところを一網打尽にする――」
青髪の魔術師は、そこで皮肉げに頬を緩ませた。
「物事というのは、そう上手くいかないものですが、何もかも上手くいってしまったら……もしかしたら僕らは勝ててしまうかもしれませんよ」
「勝つ――!」
その言葉に、セラは目を見開いた。ここにきて、まさか勝利するなどという言葉が出るとは思いもしなかったのだ。
時間稼ぎ、相手の戦力を削る――それ以上は望むべくもなかったのに。
「まあ、それもこれも森で頑張っている慧太くんが、どこまでやってくれるかに掛かっているのですが」
ケイタ――セラは胸の奥がうずき、思わず右手を胸もとに当てた。
たった一人、シェイプシフターを利用しながら二千もの敵を足止めするという、考えるだけで無茶過ぎる戦いを演じているだろう彼。……いくら彼でも心配にならないはずがなかった。
「彼がいなければ、こんな作戦を思い描いて実行なんてできなかった。そう考えると、軍師としては無能ですね」
青髪の魔術師は自嘲する。
「とはいえ、僕やセラさんの力も必要です。……戦いは夜。それまで、こちらも準備を整えましょう」
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