廃倉庫郡の鉄骨に風が唸り
錆びたシャッターが僅かに軋む音を立てた。
ここは、かつて〝王〟が君臨していた場所──
フリューゲル・スナイダーの本拠地。
だが、今やその支配の温度は低く
空気にはどこかよそよそしさが漂っていた。
その一角
かつての戦術会議室として
使われていた小部屋では
数人のハンター達が椅子を囲み
声を潜めて話をしていた。
「⋯⋯聞いたか?」
「例の⋯⋯〝神父〟の話か?」
「そう。
あのアライン様が
ギャングに胸倉掴まれてたって」
男の一人が言いながら
指先で紙巻き煙草をいじる。
火をつけるでもなく
ただ何かにすがるように
指の間で細く潰していく。
「信じられるか?
あの方が⋯⋯
神父服着て〝慈善活動〟だぞ⋯⋯?」
「⋯⋯そもそも、あの方が
〝人前に出る〟ってだけでも異常だ。
俺たちが声をかければ
首が飛ぶような人だったぞ。
あの冷たさ、忘れられるかよ⋯⋯」
言葉の節々に、怯えと困惑が滲む。
彼らは、まだ
〝記憶が書き換えられていない〟者たち。
すなわち
ハンターとしての〝過去〟をそのまま持つ者
そんな彼らにとって
アラインとは
近寄ることすら憚られる冷酷な王だった。
命の価値など一瞬で判じ
失敗の代償を何倍にもして返す
絶対者だった。
「で?
その掴んだってギャングは
どうなったんだ?」
「それが⋯⋯行方知れずだ。
まだ戻ってきてないらしい」
「普通に殺されたんだろうな⋯⋯」
「いや⋯⋯それが、残った仲間が数人
『あの神父は、気の抜けた顔してて笑えた』
とか、へらへら笑ってたらしい」
「仲間が、生きてんのかよ!
なら、消えたソイツも⋯⋯?」
「それすらわからねぇ。
ただ、アイツらは〝どこかで油売ってる〟
くらいの軽いノリだったってさ」
一瞬、静寂が落ちた。
誰もが思っていた。
──〝掴んだ〟その瞬間
既に命運は尽きていたのではないか。
「⋯⋯仮にその神父がアライン様本人なら
掴まれた時点で心臓止めてると思うんだが」
「でも〝あの方に似てるだけかも〟って話は
前からあったよな」
「でもよ、それが事実なら──」
男は、そこで言葉を切り、周囲を見渡した。
誰も話していないことを確認すると
声をさらに潜める。
「⋯⋯〝アライン様の気が変わった〟のか
〝何か計画〟なのか⋯⋯
それとも〝別人〟なのか。
どっちにしても、俺たちは今
正体の分からない誰かに
命を預けてるんだぜ?」
それは
誰もが心の奥で感じていたことだった。
記憶の改竄を受けていない彼らは
未だアラインの
〝絶対性〟と〝恐怖〟を知っている。
だが
その〝アライン様〟が
目の前で〝神父〟として微笑んだとしたら──
もはや何を信じれば良いのかわからない。
「あの方が⋯⋯本当に〝変わられた〟のなら
それはそれで、恐ろしいと思わないか?」
「⋯⋯確かに。
今の方がよほど見えなくて、怖い」
「掴んだ奴が戻ってこないのも
その証拠か⋯⋯」
「そもそも、掴ませたこと自体が⋯⋯」
言葉を呑む者もいた。
〝わざと掴ませた〟のではないか。
〝話が広まること〟を
むしろ望んだのではないか──
そんな穿った考えが、頭をよぎる。
「⋯⋯なあ」
一人が、ふと口を開いた。
「これって、もしかして⋯⋯
俺たちが〝試されてる〟って話じゃ
ないよな?」
「───っ!」
視線が交差する。
背筋に冷たい汗が伝った者もいた。
「⋯⋯アライン様のことだ。
全部〝計画通り〟かもしれない」
その声に、誰も反論はしなかった。
ただ、誰からともなく
敬称が崩れることも無かった。
──アライン様。
それは、もはや王ではなくとも
誰も〝無視できない存在〟である証だった。
⸻
その瞬間
ざらりとしたノイズ混じりの音が
会議室に響いた。
無線機──
それは
今では儀礼的に置かれているに
過ぎなかったはずのものだった。
「⋯⋯ッ、こちら監視班。
アライン様、帰還。
繰り返す──アライン様、帰還!」
乾いた声
だがその語尾には僅かな緊張が滲んでいた。
部屋にいた全員の身体が、一斉に跳ねた。
ついさきほどまで小声で囁き合い
不安と疑念に沈んでいた空気が、一転する。
「戻って⋯⋯きた?」
「⋯⋯まさか、こんなタイミングで⋯⋯!」
ざわめきは一瞬。
次の瞬間
全員が椅子から跳ね上がっていた。
座り方の癖がついた椅子の軋みを抑え
慌てて資料を片付け
散らかっていたテーブル上の
紙くずや未開封の煙草
空のカップが一掃される。
「早く!窓開けろ、空気がこもってる!」
「俺は入口前の床、拭いてくる!」
「机、斜めになってるぞ、水平にしろ!」
わずか数分の間に
空間はまるで
軍式の調練場のように整えられていく。
誰もが無言で
ただ〝その人〟を迎える準備に
全神経を集中していた。
そして──
全てが整った時、空気が一瞬、凍る。
「⋯⋯整列──!」
誰かが低く呟き、それを合図に
ハンター達は会議室の出入口前に一列に並び
背筋をぴんと伸ばす。
誰もが顔を正面に向け
視線を逸らさず、呼吸すら控える。
もはや王ではないはずの存在──
だが、王よりもなお
何か〝異質なもの〟を纏う人物が
今まさに戻ってこようとしている。
疑惑の王。
変わったのか、変わっていないのか。
それを確かめられる者は
誰一人としていなかった。
ただその名を冠する者が
今、扉の向こうに立つ。
彼らがそれを迎える時
自然と胸に手を添えてしまうのは──
恐れか。
忠誠か。
あるいは、そのどちらでもなく
─本能だった─
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