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#婚約破棄
霞花怜
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「そんなに怯えるなよ」
男は逃げ場を失った柊吾を逃がす気など最初からないように、薄く嘲笑を浮かべながらさらに距離を詰めてきた。欄干と男の体に挟まれ、逃げ道が完全に塞がれた。
「……ッ」
「それにしても、どっかで見た顔だと思ったら……お前、朝倉奏じゃねぇか」
耳元へ落ちてきた低い声に、柊吾の呼吸が止まった。
「な……っ、やだなぁ。べ、別人……じゃないですか?」
「いや、間違えるわけねぇよ。昔、よく見てたからな」
何を、と聞き返すこともできない。喉が凍りついたように動かなかった。男は、柊吾の戸惑いなど気にした様子もなく、さらに顔を覗き込んでくる。
「それに、隠したってその顔の整い方は異常だ。こんな美形がこんな田舎にゴロゴロいるわけねぇだろ。……それにしても、ふぅん……。あの朝倉奏が、ねぇ……」
男はくすりと鼻で笑うと、すっと指先を伸ばし、凍りついた柊吾の頬に軽く触れた。ぞっとするほど不躾で親しい触れ方。瑞樹の丁寧で優しい手つきとは似ても似つかない、粗暴な熱。
「あ、あのっ、だから――」
「弟が探してたんだよ。朝倉奏をさ……」
否定しようとした矢先、その名前が、鼓膜の内側で何度も反響し逃げると言う選択肢を奪った。
「……弟?」
「そう。あいつ、昔っからお前のことが好きすぎてヤバかったんだ。もう部屋中グッズだらけで――」
「大樹? 誰と話してるんですか?」
浴室の方から、聞き慣れた声が飛んできた。
次の瞬間、濡れた髪をタオルで拭きながら、瑞樹が廊下へ姿を現す。眼鏡はかけていない。シャツの前もまだ留めきれておらず、首筋にはいくつもの水滴が残っていた。
けれど、その目が柊吾を捉えた瞬間、表情から血の気が引いた。
「……っ柊吾、さん?」
「お? たく、お前の執念すげぇな」
大樹は楽しそうに笑い、柊吾へ向けていた身体を瑞樹の方へ向けた。
「こんな辺鄙なところに引っ越したって聞いた時は、何事かと思ったけどよ。まさか、本当に朝倉奏を見つけてたとはな。しかも――」
「大樹」
瑞樹の声が低くなる。
「余計なことを言わないでください」
「なんだよ。別にいいだろ。せっかく見つけた宝物なんだから、兄貴にも紹介してくれたって」
「いいから黙って!」
怒鳴り声に近い声が、古いアパートの廊下に響いた。
柊吾の肩が跳ねる。
瑞樹が、こんな声を出すなんて知らなかった。いつもならどれだけ腹を立てても、静かな笑みを崩さない人なのに。今は眼鏡もなく、濡れた髪の隙間から覗く目が、隠しようのない焦りに揺れていた。
コメント
1件
柊吾が完全に逃げ場を失う緊張感、ぞわっとしました……。それに、あの瑞樹さんが「黙って!」って怒鳴る場面、本当に驚きました。いつも穏やかな人があ♡♡♡って、よほどまずい過去があるんだろうなと。大樹っていう弟の存在も気になります。続きが気になって仕方ないです…!