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結局、ユカリたちはグリュエーを救うことはできなかった。
地上の一切を根こそぎ吹き飛ばさんと荒れ狂う嵐の様からユカリはグリュエーが呪われているのだと判断し、新たに手に入れた指輪の魔導書で変身して対峙した。しかし轟々と吹き荒れ、大地を揺るがす風に阻まれ、その解呪の力を伴う繊細な歌は声から掻き消された。亡国を癒す力を十全に発揮できぬ内に暴君の如き嵐とグリュエーの苦し気な声は過ぎ去ってしまった。
そうしてカードロアの人々に惜しまれつつも、ユカリとソラマリアとジニはわだかまる気持ちを抱えてビアーミナ市へと帰還したのだった。
屋敷へ戻ると出迎えてくれたのはレモニカとエーミ、そしてカーサだけだった。ベルニージュは未だ戻らず、目ぼしい情報も得られていなかった。
ユカリは軽く義母ジニを紹介し、その日は十分に休息を取ることとした。
そうして明くる日、ユカリはクヴラフワに来てからのことをジニに説明する。謎の力に引っ張り込まれたこと。ラゴーラ領を呪う『這い闇の奇計』、メグネイルの街で出会った外を夢見る少年ドーク。モーブン領を呪う『驕り蟲の奸計』とリーセル湖で助けた元護女エーミのこと。ケドル領でのことはジニも知っての通りだ。
ジニはユカリの語る様子を真剣に聞き、随分昔の教訓に満ちたありがたい説話でも聞くみたいに頷く。
ユカリが全てを語り終えると次はジニの番だ。
「エイカについてだね」
ユカリとジニがいるのはシシュミス教団に与えられた屋敷の一室だ。二階の廊下の突き当りにあり、ユカリの寝室であり、これからはジニもここで寝泊まりすることになった。
窓は開いていて暁や黄昏とも違う濁った水底のような朧げな光がさし、病人の吐息のような生ぬるい風が吹き込んでいる。
「生きているなら助ける方法はある」
「死んでるかもしれないんですか?」言葉の綾だろうと分かっていてもユカリは問い返した。「そうだ。屍の灯は無いんですか?」
死者の姿を見せる蝋燭だ。逆に生者を想って火を灯した場合は何の効果もないので生死の判断に使える。
「切らしてる。けど使ったことはある。そしてエイカの姿を見た」
「え? それって、……でも、え?」ユカリは嵐の海の大渦に囚われた小舟のように混乱に呑まれ、義母のために積み上げていた言葉が砂山のように崩れる。
蝋燭から湧き出た煙が姿を象ったのならそれは死者であるはずだ。
「大丈夫。まだね。あの状態はあまりにも特殊なのさ。それこそ世界の根本原理を歪めるほどにね」
つまり命の理を歪めるほどに? 肉体を消滅させた謎の闇に関してユカリが最初に思い浮かべるのは常にチェスタだ。ユカリが最初に出会った救済機構の焚書官であり、謎の闇の犠牲者らしき男だ。頭を失ってなお命を保ち、思考できていることに強い衝撃を受けたものだ。今となっては頭を含めて全身を失った者を知っているので少し衝撃は薄らいでいる。
「あの状態について何か知ってるんですか? 今まであれについて知ってる人に出会ったことがなかったんですけど」
「知ってるとは言えないね。たまたま肉体を失った者や取り戻した者について知ってたんだよ。いくつか仮説がある、という程度さ」
ユカリの内に集いつつあった希望が席を立ち始め、ユカリは義母を急かす。
「それでどうやって助けるんです?」
「いや、もっと前の段階だよ。助ける方法が分かるかもしれない。巨人の遺跡を調べれば」
「巨人? 遺跡? 謎の闇と関係が?」
どう繋がるのか分からずユカリは思わず鸚鵡返しにした。直接関わったわけではないが、この旅において巨人とは何かと縁がある。ベルニージュに至ってはウィルカミドの街の地下で巨人の髑髏と追いかけっこを興じたそうだ。クヴラフワに来てからも、救済機構のモディーハンナとサイスが巨人の遺跡について話していた。
ジニが巨人の遺跡に用があってクヴラフワに来たのだ、と言っていたことも思い出す。何の用があるのか、前に尋ねた時ははぐらかされたが。
「じゃあエイカを助けるためにクヴラフワに来たんですか?」
「いや、エイカが闇に呑まれたのはあんたに聞いて初めて知ったよ。でももちろん、知ったからには助けなきゃならない。愛する娘をね。クヴラフワに来たのは別件さ」
「私にはまだ話せないってやつですね」ユカリは変わらない疑念を短い言葉に込める。
「そうそう。それそれ」ユカリの深刻な思いは軽やかに流された。「実はクヴラフワのあちこちで巨人の遺跡が頻繁に見つかっているらしくてね。発見しているのは主に機構と大王国の連中だと、その筋の連中から聞いたのさ」
その筋と言われてもどの筋なのかユカリには分からなかった。
「沢山遺跡が見つかってるってことは、大昔のクヴラフワには多くの巨人たちが住んでいたんですね」
「いや、あたしは、クヴラフワにだけ見つかりやすい理由があるんだと思ってる」
ユカリは首をひねり、無造作に積み上げていた考えを形と大きさごとに再分類する。「えーっと、つまりグリシアン大陸全土に巨人の遺跡が分布しているものの、クヴラフワでだけ見つかりやすい要因がある、と。それはなぜですか?」
「さて、なぜでしょう?」
「また秘密ですか」
「いや、謎かけだよ」とジニは悪戯っぽく笑う。
ユカリは懐かしい気持ちになりつつ苦笑いしてため息をつく。「あいかわらずですね」
せめて楽しませようとしているのだ。村から出られない娘のために。ようやくユカリは母の想いの一端を理解できたように思えた。
一見人跡未踏の山岳の僅かに平らな場所であり、人界との縁を切った者たちが棲む森林の僅かに開けた場所に古びた塔が、その褪せた石積みの印象に反して真っすぐ天に伸びていた。頂には旗竿があり、中途なところに色の落ちた、元は真紅だったらしい旗が微風にはためいている。クヴラフワが呪われる以前においては、僅かな人員と巧みな魔術によって旗信号を介した情報が飛び交っていた土地だ。
赤髪の少女は自分に、あるいはその記憶に重ねるように、忘れられ旗信号の塔を仰ぎ見る。
記憶なき少女はあいかわらずライゼン大王国の調査団の世話になっていた。
調査団は野を越え、丘を越え、残留呪帯を越え、クヴラフワの中央には寄らず、周囲を巡っているそうだ。補給は現地調達だけでなく、時折補給部隊がやってくる。クヴラフワの外にも、そして中心地にも支援部隊がおり、本体の行軍速度を含めて計算尽くで澱みなく補給し、本体は滞ることなく調査を敢行しているのだ。
赤髪の少女は特に手伝うでもなく、邪魔するでもなく、少女の記憶を失わせた大王国王子の埋め合わせをとことん利用していた。
融通された紙に『情に薄い。それに計算高い。ワタシらしいかも』と書きつける。少女は自分自身という謎を解き明かすのに忙しかった。覚書の最初には大きな文字で『男嫌い。弱点ではない!』と記されている。
調査団は多くの屈強な戦士たちで構成されている。というより軍団にしか見えない。とはいえライゼン大王国の民は全てが戦士を兼任していると言っても過言ではない。少女が眺めて気づいただけでも魔法使いや学者、医者らしき人物までもが分厚い肉体に武装している。
それに比べれば己の肉体を殊更鍛えていないのは屍使いたちだ。生業は陰鬱だが、むしろ陽気な民族だ。放浪の民族の一つであり、故に多くの財産を身に着け、あるいは所有する屍の身に着けさせ、旅をしている。
少女は自分の記憶にない物は片端から覚書に記しているが、ライゼン大王国のことも屍使いのことも一般的な知識以上によく知っていた。ただし知っている理由、どこで知ったのかまでは覚えていない。その経験は自分自身の記憶と見なされるらしい。『物知り。ワタシの知識が目当て?』
まるで戦の準備でも始めるかのように騒々しく昼の休憩をしている調査団を少女は遠目に眺める。
「赤目。お昼は食べたの?」と屍使いの長フシュネアルテに声をかけられたが少女は気にも留めなかった。
「おい、赤目。あね様が呼んでいるだろう。さっさと応じろ」
イシュロッテの呼びかけで赤目の少女はようやく自分が呼ばれたのだと気づき、顔を上げる。やはりフシュネアルテは少し遠くにいて、間にイシュロッテが立っていた。まさか女嫌いではないだろうけれど。
「赤目ってワタシのこと?」と赤目と呼ばれた少女は尋ねる。
「そうよ。昨日も言ったでしょ。他にこの調査団に赤い目がいる?」とフシュネアルテが揶揄うように尋ねる。
「いないけど、そんな話してたっけ?」そう言いながら赤目は覚書を確認する。
「え? 他に赤目はいないの? 一人も?」自分で言っておいてフシュネアルテは調査団を眺める。「なんでそんなことが分かるのよ」
「全員の顔を覚えたからね。赤い目はワタシの他に一人もいなかった」
フシュネアルテは疑わしげな眼差しを投げ掛けつつ頷く。「そう。記憶力が良いのね」
誰も笑わなかった。
『赤毛呼ばわり。肌は青白い。自分の瞳はまだ見てない。爪は綺麗に切り揃えられている』
「やっぱり、昨日呼ばれたのは赤毛だよ。ちゃんと書いてるから」
「どっちでも同じでしょ」とフシュネアルテはぞんざいに言い放つ。
「同じじゃないけど、どっちでも良いよ」赤毛の赤目もぞんざいにうけとめ、覚書に目を走らせる。「それで、何だっけ? お昼? お昼は昨日食べたよ」
「毎日食べるものだって書いておきなさい」
フシュネアルテが尊大な振る舞いながら、寄ると触ると自分を気遣ってくれていることに赤目の少女は気づいていた。見た感じ、おそらく、年が近いらしいことも関係があるだろう。感謝していたが言葉にはしていなかった。
食事の準備をするのは一体の屍だった。他の雑用に供されている屍と比べてもまるで生気を宿しているかのような巧みな化粧を施されており、見た目には壮年の女で死ぬには若すぎる。長たる少女の身の回りの世話をする特別な屍のようだった。初めは屍の用意する食事に少女は少し躊躇われたものだが、少なくとも腐臭は感じないので観念した。
屍は抱えていた毛氈の敷物を広げ、背負っていた籠から出した箱と三枚の皿を並べる。箱の中身は黒い麺麭と香草を添えた燻製肉と幾つかの乾燥果実だ。それらを皿に盛り付ける。
「この女性はフシュネアルテの持ち物? 名前はあるの?」屍の働きぶりを眺めながら、好奇心に負け、好奇心の強い少女は尋ねる。
「そうよ。屍は財産だもの。でも普通名前はつけないし、生前の名前で呼ぶこともない。番号をつけて管理してるわ。これは二号。道具であって使役動物でも愛玩動物でもないからね。大切にはしてるけど。特にこれはあの盗賊王バダロットの姉君なのよ」
「へえ、バダロット」
関心を向けない少女の反応にフシュネアルテが不満そうに唇を尖らせる。
代わりにイシュロッテがようやく口を開く。「可哀想に。彼の偉大なるバダロット様の名前さえも忘れてしまったのですよ、あね様」
「ああ、なるほどね。そうだと思ったわ」フシュネアルテは少し嬉しそうに悲しそうな顔をする。「心配しないで、赤目。私が手取り足取り詳しく教えてあげるから、よく書き記しておくのね」
少女は紙を取り出して『香草は嫌い。特にどの種類がとかではなく、強い臭いが嫌い』と書き記す。
「いや、世間で知られている程度には知ってるけど、単に関心が――」
「ずるいです」とイシュロッテが乾いた葡萄を呑み込んで、拗ねる。「私もバダロット様のこと知りたいです、あね様。手取り足取り教えてください」
「あんたは知ってるでしょうが。屍使いが知らなかったら問題よ」フシュネアルテは妹から客人に目を向ける。「いつでも教えてあげるからね? 赤目」
「その内ね」赤目の少女はこの場を逃れる言い訳を探す。「えっと、そうだ。皿を洗ってくるね」
「そんなの二号に一緒にさせるわよ」
「その、ほら、自分のことは自分でしないと」
「ここ数日ほとんど人任せにしていましたよ」と冷たい目のイシュロッテが指摘する。
少女は誤魔化すような愛想笑いをし、皿を持ってその場を離れ、藪の向こうへと立ち去る。近くに水源に近いらしい清らかな川が流れている。辺りは渡河しようとする者への敵意でも抱いているかのように岩がちなので、このあと渡るのに苦労しそうだった。
赤目の少女はため息をつく。『人が多いのは得意ではない』は既に書いた。『でもユカリとレモニカ、ソラマリアとの旅は悪くない。あとグリュエーとユビスも』
姉フシュネアルテは懐いているかのような振る舞いだが物理的に距離があり、妹イシュロッテはあからさまに敵愾心を向けてくる。とはいえ少女自身は、むしろ自分はイシュロッテの方が近い感性を持っている、と思っていた。
藪を抜け、ごつごつした岩を踏み越えて、流れる清水を皿で浚い、汚れを拭うと、一息つく。
覚書によると、川で涼んでいたところを不滅公に驚かされ、川に落ち、不滅公は助けようとし、自身は男嫌いが故に逃げ惑い、そうとは知らず不滅公は……という騒動の結果がこれだ。
確かに男嫌いなようだが、不滅公にはそれ以上の警戒心を抱いていた。何が大王国の王子に対して警鐘を鳴らしているのか、少女には分からない。あるいはどんな時でも鎧を纏い、剣を佩いている臨戦態勢を警戒しているのだろうか、とも思ったが少女自身を納得させられる仮説ではない。
ふと少女は上流の大岩に気づく。他と比べて圧倒的に大きく、岸辺に構え、川が避けて流れている。
ちょっとした思い付きだ。再び足を浸けて涼めば何かを思い出すかもしれない。恐らくそんなことは起きないだろう、と確信しているが少女にも遊び心のようなものはあった。
水気が流れるよう皿を岩に立てかけて、少女は大岩の方へと移動する。
普通とは違う水音が聞こえたのと、見慣れた鎧が岸辺に並んでいるのに気づいたのが同時だ。
大岩の陰で不滅公が水浴びをしていたのだった。
「おい、客人とはいえ無礼だぞ」
そう言いながらも不滅公ラーガは堂々たる佇まいで、何一つ隠そうとはしていなかった。
赤目の少女は驚きと衝撃で思考が硬直し、逃げることも焼き殺すことも出来ず、ただじっとその豊かな髪と豊満な肉体を見つめることしかできなかった。
『ラーガは女だった!』