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ユカリが衣服や毛布の洗濯を終えたところでレモニカが合流し、丁重に断ったものの押し切られ、二人で屋敷の庭に干すことになった。今はユカリの母エイカの、焚書官ルキーナと名乗っていた頃の姿に変身している。
物干し紐に吊るされるも、吹き方を忘れた風に揺られる洗濯物は果たして乾くのだろうか。八つもあってなお光も熱も乏しい緑の太陽を見上げながらユカリは疑問を抱く。貧弱な陽光は明るさと同様にほとんど温もりをもたらしていない。
大量の洗濯物を洗い、干している内に洗濯歌は五曲を数えた。本来どれも繰り返しうたい続けられる曲だが、飽きたら別の歌をうたい始める。うたっているのはユカリだけなので気にする必要はなかった。
レモニカは無言で、高貴な出自の女性ながら淡々と手慣れた仕事であるかのように――実際のところはユカリによって多少手直しされているが――洗濯ものを紐に通していく。ユカリの歌は聞こえていないようで、羽虫がまとわりついた時のように不機嫌そうだ。
例によって例の如く、その原因はソラマリアにあるらしい。正直に告白するならばユカリはそろそろうんざりしていると伝えたかったが、レモニカとソラマリアの複雑な事情と苦しみを考えるとその思いは秘める他ない。友人とはそういうものだろう、とユカリは考えていた。
どうやらソラマリアはユカリに話していたことをそのままレモニカにも伝えてしまったらしい。つまり、エーミのそばのレモニカがエーミに変身するように、ソラマリアのそばでレモニカがソラマリアに変身しないのは自身の反省が足りないからだ、というソラマリアの思い込みのことを、だ。
だが自己嫌悪と自省は別物であるはずだ。余りにも無神経ではないか、とユカリは思った。レモニカに対しても、エーミに対しても、だ。正直と言えば聞こえはいいが、ソラマリアは他者の思いに無頓着なところがある。あるいは、とユカリは考える。ソラマリアは年齢の割に幼い部分があるように思えた。
エーミもエーミで申し訳なさそうに縮こまっていた。エーミがどの程度事情を把握しているのかユカリには分からないが、自分がきっかけになってしまったことはエーミにも分かったのだろう。もちろんエーミに責任などあるはずもないのだが。今は屋敷のどこかを一人で掃除している。
落ち込んでいるのはユカリも同じだ。呪われたらしいグリュエーを助けられず、ベルニージュの手がかりもなし。ヘルヌスを通じてシシュミス教団、救済機構、ライゼン大王国の情報もある程度入ってくるが赤髪の娘については何も分かっていない。もちろん誰かが情報を隠している可能性もあるが、ユカリにはどうにもならない可能性だ。
まだ誰にも見つかっていないのなら、記憶を失ったベルニージュはクヴラフワを一人彷徨っていることになる。そう思うとユカリの穴の空いた胸がきつく締め付けられた。
「エイカ? どうしたことだい? 自力で戻ってきたのかい?」
特に面倒な立場ではないので街の方へ様々な用立てに出かけていたユカリの義母ジニが帰ってきた。そして闇に呑まれたはずの娘の元気そうな姿に驚いている。ジニがここにやって来てから、まだレモニカの変身したエイカの姿を見せていなかったのだ。
「レモニカだよ。例の、変身の呪い」とユカリが説明すると、ジニが怪訝そうにユカリを見つめる。
「そこまで嫌っていたのかい? まあ、好かれるようなこと何もしちゃいないか。いや、もしかしたら……。まあ、仕方ないね」とさすがのジニも気落ちしている。
そんなことはない、とユカリも言いたかったがレモニカの呪いは厳然と示している。ユカリ自身には実母に対する怒りや憎しみなど抱いているつもりはないが、レモニカの呪いはユカリの魂か記憶か何かを読み取って姿を現している。覚えのない嫌悪。その点ではエーミと同じだ。
レモニカは一歩引いて慎み深く戒める。「お近づきにならないようお気を付けくださいませ、ジニさま」
「レモニカさえ良ければだけど」ジニは親しげに笑みを向ける。「あたしの一番嫌いなものも知っておきたいな。いくつか候補は思い浮かんでいるんだけどさ」
「わたくしは別に構いませんが」レモニカはちらりとユカリの方にも視線を遣る。
「あ、いや、でもちょっと待っとくれ」ジニは一歩退き、屋敷の小さな庭を測るように眺める。「最大でどれくらいの大きさになるんだい?」
レモニカは宙を見つめて過去を思い返し、記憶を探るように呟く。「えっと、たしか、今までに変身した最も大きい生き物ですと、蝙蝠の王が――」
ユカリはレモニカの腕を取って引っ張りながら苦言を呈す。「ちょっと! 義母さん! 何になるかもしれないんですか!?」
「いや、分からないけど、場合によっては辺り一帯が踏み潰されちゃうだろ?」
「知りませんよ。危険なので義母さんはレモニカに接近禁止です」
畏れられる偶像のようなユカリの渋面にジニは満足そうな微笑みで返す。
「仕方ないねえ。それじゃああたしも物干しを手伝おうかね」ジニは声色に気合を込めながら腕まくりした。
「手伝ってくれるのはありがたいですけど、何か画期的な物干し魔法はないですか?」とユカリは腰の痛みに耐えかねて訴える。
「ないね」とジニは断言した。確固たる信念を吐露するように断った。「傘とか物干しはある意味完成しているのさ。永遠に進歩しないに違いない」
「そんな」
ユカリは絶望した。己の腰に同情した。
「ぼやいてないでさっさと終わらせるよ。お茶とお菓子も買ってきたからね」
ジニの手伝いも得て、洗濯ものを手早く干し終えると三人は屋敷に戻り、ささやかなお茶会の準備を始める。
モルド城の厩舎にユビスの様子を見に行っていたソラマリアも帰ってきた。ヘルヌスを伴って。
ユカリ、レモニカ、ソラマリア、エーミ、ジニ、ヘルヌスが机を取り囲む。そしてどこかにカーサ。
目を楽しませる異国情緒と湯気の揺らめく紅茶の芳ばしい香りが漂い、牛酪の風味以外は得体のしれない焼き菓子の甘い香りが蜜を蓄えた蕾の花開くように醸し出され、少しばかり張り詰めていた空気を柔らかく解す。クヴラフワの外に比べれば素朴なものだが、呪われた空のような暗澹たるユカリたちの心情に一時の晴れ間をもたらした。
一方で今なお呪いに苦しめられている人々が多数いる土地で余りある贅沢をすることに罪悪感を覚えもする。
「さあ、あくまで情報交換と現状確認が目的とはいえ、これは言うなれば親睦会ですわね。エーミとユカリさまのお義母さまのジニさま。そしてユカリさまのお母さまの使い魔さまのカーサさま」
ヘルヌスは省かれたが異を唱える者はいなかった。ヘルヌスも含めて。
「誰が使い魔だ」とカーサは異議を申し立てる。
「それは、申し訳ありません。失礼いたしました」レモニカが縮こまる。
「違うんですか? 私も使い魔だと思ってました。エイカが主なのかと」とユカリは感想も述べる。
ジニが珍しく噴き出す。よほど面白かったらしい。
「だけどそれほど間違ってもないよ」ジニは涙を拭いながら説明する。「あの子は犬だの蛇だのをけしかける魔術に関しては妙に――得意というほどではないけど――まあ、多少はましだったからね。カーサを私にけしかけてきたこともあった。逆にカーサにエイカのお守りをしてもらうようになったんだ」
ユカリも何度か義母に聞いた覚えのある話だった。
「そんなに昔から知り合いだったんですか!?」ユカリは驚いてカーサのいそうな方を振り返る。
「エイカがジニに俺をけしかけるよりもずっと以前からな。言っただろう? 親心に近いって」
ユカリの想像だにしていなかった方向からカーサの少し照れ臭そうな声が聞こえた。
なぜか少し楽しそうなレモニカが尋ねる。「そういえばジニさまはエイカさまをお助けする方法をご存じと伺ったのですが」
「ああ、そうだね」ジニは咳払いする。「あたしがここにやって来た目的とも重なるんだけど。かつて神々と敵対していた巨人たちはある魔術を得意としていた。それは幾多の戦争で神々に多大な犠牲を出し、神々が巨人の尽くを滅ぼした後も恐れをなしたほどだという」
神々と巨人の太古の戦についての神話はユカリもよく知っていたが、そのような魔術については聞いたことがなかった。
「どんな魔術なんだ?」と口を挟んだのはヘルヌスだったが、他の皆も知りたがっているのでお咎めなしだ。
「正確なところは分からない。神々によってその魔術は隠されてしまったそうだからね。それこそ体を巨大化させる魔術だとか、魂を操ってしまう魔術だとか、この世界のどこからも姿を消し去ってしまう魔術だとか。神話をもとにした仮説、いや憶測か、色々な話が伝わってる」
最後にあげられた魔術がまさに肉体を消失してしまう謎の闇のことなのだろう。エイカ然り、チェスタの頭然り、ユカリの心臓然り。
「つまりクオルは人造魔導書と共に巨人の魔術も会得したってことなのかな」とユカリはレモニカに意見を求める。
「あるいは例の衣の魔導書の力が巨人の魔術なのかもしれませんわ」とレモニカは新たな意見を述べる。
「いわゆる『神隠し』のような、突如姿を消してしまう現象は古今東西で語り継がれているだろう?」ジニはその場の全員に同意を求める。「それらも偶然巨人の魔術に至ってしまった者たちの末路だなんて説もあるね。実はこの呪われたクヴラフワにもその手の話は多い。とはいっても呪いでしっちゃかめっちゃかになった土地だからね。行方不明なんて誰も気に留めていられなかったんだろうけど。昨今の調査でクヴラフワ各地に巨人の遺跡が新たに見つかったという。それも突然その場に現れたかのように。となれば世の魔法使いたちは無視できない。機構も大王国もそれが目当てだろう?」
一同の視線はヘルヌスに注がれるが、不滅公の忠良なる騎士は沈黙で答え、僅かに眉を上げた。本当に知らないのかもしれない、とも思えた。
「各地で見つかったとは言っても、このクヴラフワの中心であるグレームル領では見つかってないみたいだけどね」とジニは付け加える。
「それなら一緒に、まだ魔導書を見つけてない呪われた土地に行きましょう」とユカリは提案する。「魔導書を手に入れて、呪いも解いて、巨人の遺跡も調べられれば効率良いですし」
「どこも大体当てはまるね。あんたたちが呪いを解いたのはどこだっけ?」
ジニは机の上の菓子の乗った皿やお茶の入った茶碗を並べ替えて、クヴラフワの地図に見立てる。極めつけに光への信仰、すなわち今に通じる太陽と月と星と火への祈りの言葉の祖たる素朴な詩を組み合わせた光の魔術を駆使して細部を補足した。すると机一杯にクヴラフワが広がり、思わず居合わせた者たちに感嘆の溜息を漏らさせる。
「西のラゴーラ領、南西のモーブン領、そして南のケドル領ですね」とユカリが光の地図に指を指すと呼応するように解呪された土地が発光する。
「奇しくも西から左回りなことだし、次は南東の黒歌鳥の庭領にしたらどうだい? 在りし谷という土地でも巨人の遺跡が見つかったらしいからね」
そんな理由で? と思わないでもなかったがユカリには特に他に判断材料もなかったので反対する理由もなかった。それは他の皆も同じようだった。
「それで良いです。あとは誰が行くか、ですね。変身の魔導書は耳飾りと指輪の二つなので私以外に義母とあともう一人ですね」
ユカリは訴えるようにソラマリアだけを見つめる。
「私にレモニカさまを一人にしろと言うのか?」
「それは前にも聞きました。またお願いします」
「というかそんなの無くたって大丈夫だったじゃないか」とジニは平然と言う。「よくよく呪いの性質を見極めれば対処できるものさ。傷には治癒、暗闇には光、蟲には……、何だろうね」
「義母さんはそれで良いですけど。各地の呪いと違って残留呪帯は……あれ? 義母さんは残留呪帯、どうやって突破したんですか?」
「あれだって私の力にかかれば、と言いたいところだけど。機構が設置したらしい通路を勝手に通ったよ。置きっぱなしだったからね。ユカリこそ、回廊も使わずにどうやって突破したのさ」
前に耳にした防呪廊というやつだ。ユカリとソラマリアはずっと安全な道を見落としていたのだと気づく。二人が実行したただ全速力で走り抜ける作戦について説明すると、ジニは怒って呆れて笑った。
「それじゃあ呪い次第ですけど魔導書がなくても義母さんの指示に従えば何とかなる、と」単純さで言えば大して変わらない策のように思えたがユカリは黙っておいた。「それはそれとして持っていた方が安全なので持って行きますけど。じゃあ、レモニカも、ソラマリアさんも……あ! そうするとエーミを置いていくことになっちゃうね。じゃあやっぱり誰か残ってもらって――」
「エーミも!」エーミ自身が声の大きさに驚いて一度引っ込む。「エーミもマローガー領に行きたい。駄目と言われても一人ででも行くけど、でもできれば一緒に行きたい。それにマローガー領の呪いは直接的な危険をもたらすものじゃないから」
「黙ってついて来られるくらいなら、連れて行かざるをえないけど」と不承不承呟いて、ユカリは一応皆を見回す。特に反対する者もいない。「ん? エーミはマローガー領の呪いについて詳しいの?」
エーミはこくりと頷く。「バソル谷はエーミの故郷だから」