テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第2部 デューデリジェンス
第7章 値段
午前六時半。舜太は、起きてすぐに管理画面を開いた。
売上。来訪者数。再購入率。IT系のメガベンチャーにいた頃から、朝いちばんに見るものは変わらない。数字は、感情を挟まない。昨日より上がっていれば良い日で、下がっていれば原因を探す。それだけの世界が、舜太には心地よかった。
再購入率。一度買った人が、もう一度買ってくれる割合のことだ。ジュエリーのような高額な商品では、この数字がブランドの体力を表す。Lueurの再購入率は、業界平均の、およそ二倍だった。
今日の武器はこれだ。
もう一つ、毎朝見る数字がある。現金残高。パリの追加発注を受けてから、材料と在庫を先に買う必要が出て、先月より一割ほど薄くなっていた。ジュエリーは、売れるほど先に金が出ていく商売だ。黒字でも、現金が尽きれば会社は止まる。
だから、この交渉には意味がある。売る気はない。ただ、売るなら降りられない価格と条件を、先に相手に飲ませておく。降りる線を、数字で引いておく。
「おはよう」
出社してきた仁人が、財務の資料を机に置いた。分厚いバインダーで、付箋が色分けされている。
「今日の交渉用。使う数字は、全部ここに入れてある」
「ありがとう。仁ちゃん、ちゃんと寝た?」
「寝た」
嘘だ、と思った。目の下の影が、先週より濃い。けれど舜太は、それ以上聞かなかった。聞いても、仁人は「寝た」と言い張るだろう。それは、この三年で分かっている。
午後二時。会議室で、舜太は勇斗と向き合っていた。
長机の向こうに勇斗と会計士。こちら側には、舜太と仁人。柔太朗の席はない。
「では、早速ですが」
勇斗が、資料を開いた。
「意向表明書でヴェルディエ様がお示しした価格帯について、調査の途中経過を踏まえて、少し整理させてください」
笑顔だった。愛想のいい、人懐こい笑顔。舜太は、同じ種類の笑顔を、自分の顔でよく知っていた。人を笑わせながら、相手の指の動きを見ている顔だ。勇斗の視線は、話しながら、一度も舜太の手から離れなかった。
同類だ、と舜太は思った。やりにくい。
「まず、会社の値段の決め方から、確認させてください」と勇斗は言った。「大きく二つあります。一つは、似た会社が過去にいくらで売れたかという相場。もう一つは、この会社が将来いくら稼げそうかという見込み。この二つを組み合わせて、企業価値を出します」
「相場のほうは、うちの場合、比べる会社が少ないです」舜太は答えた。「創業三年でここまで来た高級ジュエリーは、国内に他にない。相場で測れないほど、新しいブランドです」
「おっしゃる通りです。だから、将来の見込みに比重を置きます」
「なら、これを見てください」
舜太は、仁人のバインダーから、一枚を抜き出した。
「再購入率。一度買ったお客様が、もう一度買う割合です。うちは業界平均の約二倍。新規のお客様を毎回集めなくても、既存のお客様が売上を支えている。将来の見込みの安定度が違います」
「素晴らしい数字です」勇斗は頷いた。「私も、そこは高く評価しています」
一拍。
「ただし」
来た、と舜太は思った。
「売上の約九割が、デザイナーお一人の作品に依存しています。これを、私たちはキーパーソン・ディスカウントと呼んでいます。特定の一人に事業が寄りかかっている分だけ会社の値段から割り引く、という考え方です。その人が抜ければ、価値が消えるからです。意向表明書の下限から、さらに二割ほど」
二割。仁人の手が、机の下で、ほんの僅かに動くのが見えた。
「その二割は、柔太朗が残ると約束できれば消えます」
舜太は、即座に返した。
「柔太朗は、会社の株主で創業者です。辞める理由がありません」
「約束のことは、信じています」勇斗は穏やかに言った。「ただ、買う側は、信じるだけではお金を払えない。約束を仕組みにする必要があります」
「仕組み」
「リテンション、と言います。繋ぎ止めの仕組みです。たとえば、買収代金の一部を、柔太朗さんが数年間在籍することを条件に、後から払う。専属契約と組み合わせることもできます。他社ではデザインしない、という約束です」
舜太の目が、一瞬だけ動いた。
専属契約。長期の、在籍を条件にした契約。柔太朗が、他社ではデザインしない。
ずっと、この会社にいる。紙の上でそう決まる。
「……なるほど」
声は、落ち着いていた。落ち着いていることが、舜太自身にとって、少し意外だった。
「ただ、大切な前提があります」
勇斗が、笑顔のまま、少しだけ声を落とした。
「本人が、納得して結ぶこと。嫌々の契約は、紙の上にしか残りません。才能は、契約書では繋ぎ止められない」
会議室が、静かになった。
「……ごもっともです」
舜太は、笑って頷いた。隣で、仁人が書類の端を揃えている。その紙の音が少し大きく聞こえた。
「では、この二割はリテンションの設計を前提に、いったん保留にしましょう」と、舜太は言った。「次回、条件を詰めます」
「承知しました」
勇斗は、ペンを置いた。
「ありがとうございます。舜太さんとの交渉は、楽しいです」
「こちらこそ」
握手は、来たときより、少しだけ長かった。
会議が終わり、勇斗をエレベーターホールまで見送った。
「舜太さんの、再購入率の話。あれは効きました」
「効きましたか」
「ええ。上司にも、そのまま報告します」
勇斗は笑った。そして、ボタンを押してから、何気ない調子で聞いた。
「柔太朗さん本人は、この話をご存知ですか」
「もちろん」
舜太は、即座に答えた。
「意向表明書の内容は、全部共有しています」
嘘ではなかった。ただ、全部でもなかった。契約の話は、まだ柔太朗に何も言っていない。
「そうですか。なら、安心です」
勇斗は、エレベーターの扉が開くのを待ちながら、言った。
「本人の意思が、この案件の、いちばんの価値ですから」
舜太は笑った。笑ったつもりだった。ただ、口角が上がるのが、ほんの少し遅れた気がした。
扉が閉まる。勇斗の笑顔が、隙間に消えた。
あの男は、人の言葉より、言わなかったことを見る。舜太は、そう思った。そして、その考えを、自分で追い払った。関係のないことだ。
夜十時。フロアには、もう誰もいなかった。
アトリエの奥から、まだ、糸鋸の音が微かに聞こえる。柔太朗だろう。
スマートフォンが震えた。
『今日、どうだった』
柔太朗からだった。舜太は少し笑って、返信を打とうとした。その前に、もう一通届いた。
『僕の値段、ついた?』
指が、止まった。
会議室で聞いた、二割という数字が、頭に戻ってくる。柔太朗の才能が、二割という数字で測られた。測られたことに抗議したい気持ちと、そうやって測ることが仕事である自分が、同時にいた。
『柔に値段はつかん。ついたんは会社や』
そこまで打って、消した。
正しくない、と思った。正しくないし、柔太朗は、そういう慰めを嫌う。
『順調。心配せんでええ』
送った。既読は、すぐについた。
『そっか。ありがとう』
それだけだった。舜太は、スマートフォンを伏せた。
パソコンに向かう。
契約書の雛形のフォルダを開く。「専属契約書」というファイル。数か月前、職人の一人と結んだときのものだ。それを複製して、名前を書き換える。
甲、株式会社Lueur。乙、柔太朗。
契約期間の欄で、カーソルが止まった。
十年と打つ。
少し考えて消した。五年と打つ。
五年は、短い気がした。何が短いのか、自分でも説明できなかった。消して、十年に戻した。
会社の価値を守るためだ、と舜太は思った。買う側に見せる材料にもなる。柔太朗にとっても、安定した環境が約束される。彼のキャリアのためになる。合理的だ。
ファイルを保存する。名前の欄に、「柔_契約案_仮」と入れた。
「仮」の字だけ、少し長く見ていた。
窓の外に、ビルの灯りが並んでいる。アトリエから、糸鋸の音が止んだ。
舜太は、ファイルを閉じなかった。
コメント
1件
うわ、第8話読み終わった……! 今回の交渉シーン、めっちゃリアルでゾクゾクしたわ。 舜太と勇斗、お互い笑顔の裏で探り合ってる感じがたまらん。 特に「本人の意思がこの案件の一番の価値」って勇斗の一言、めちゃ刺さった。 で、その後の夜のアトリエのシーン。柔太朗からの「僕の値段、ついた?」が重すぎて息止まった…。 舜太が打っては消した「柔に値段はつかん」、その気持ちは痛いほど分かるけど言えないもどかしさが切ないわ。専属契約書の「仮」にカーソルが止まるラスト、天才の隣で生きる覚悟の重さを感じた。 続きが気になりすぎる🔥
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368