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第2部 デューデリジェンス
第8章 二杯目
午後十一時。フロアの灯りは、仁人のデスクの上だけだった。
社員は全員帰っている。アトリエの糸鋸の音も、とうに止んだ。舜太も柔太朗も、今夜は早く上がった。この時間の会社が、仁人は嫌いではなかった。静かで、数字だけが残っていて、誰にも何も聞かれない。
メールが一通、届いた。
差出人は勇斗。件名は「追加資料のお願い(第三弾)」。
追加資料。デューデリジェンスの途中で、買い手が、調査に必要な書類を追加で求めることだ。三週間で、もう三回目になる。仁人はいつも通りに開いた。
項目は十二あった。上から順に目で追い、七番目で目が止まった。
『創業一年目における、契約書・覚書の全一覧(締結に至らなかったものを含む)』
「含む」。
その二文字が、画面の中で、少しだけ大きく見えた。
マウスを持つ手が止まった。指先が冷たかった。エアコンの風のせいだ、と思うことにした。
息を吐いて、椅子から立ち上がる。何もなかったような顔で、キャビネットの鍵を開けた。創業一年目の分の、契約書の原本を、三冊取り出す。
原本確認。データルームに上げた写しと、紙の原本が一致しているかを確かめる作業のことだ。買い手は、写しが書き換えられていないかを、必ず確かめる。当然の手順だった。当然の手順だから、断る理由がない。
三冊のバインダーは、思ったより重かった。
会議室の灯りは、まだ点いていた。
ノックをして扉を開ける。勇斗が、長机の端でノートPCに向かっていた。ジャケットは椅子の背にかけられ、シャツの袖は肘まで捲られている。疲れた顔だった。それでも、仁人を見ると笑った。
「まだいたんですね、仁人さん」
「勇斗さんこそ。原本です。ご依頼の分」
バインダーを、机の上に置いた。最上段の一冊を、両手で持ち上げて勇斗に渡す。
指が、触れた。
勇斗の指は、温かかった。長い時間、キーボードを打っていた手だ。仁人は、反射的に手を引いた。
必要以上に、早く。
勇斗が、それを見ていた。
「すみません。手、熱かったですか」
「……いえ」
何がすみませんなのか。仁人は、自分の答えの意味が、分からなかった。
勇斗は、それ以上何も言わず、バインダーを開いた。原本を一枚ずつ捲る。写しと見比べる手つきは、驚くほど丁寧だった。乱暴に扱っていい書類は、一枚もないと知っている手つきだった。
C-014。C-015。
次の一枚で、勇斗の手が止まった。
C-017。
「欠番、ここでしたね」
勇斗は、独り言のように言った。
「取りやめた契約、ということでしたよね」
「はい」
「分かりました」
それだけだった。勇斗は、次のページを捲った。それ以上は、何も聞かなかった。
聞かれなかった、ということが、仁人の胸に残った。聞かれることよりも、ずっと重く。
「コーヒー、淹れてきます」
勇斗が、立ち上がった。
「いえ、私は」
「俺が飲みたいだけです。ついでに」
仁人が断る前に、勇斗は会議室を出ていった。数分後、紙コップを二つ、両手に持って戻ってきた。
「はい。氷、入れときました」
差し出されたのは、ブラックだった。表面に、小さな氷が二つ浮いている。
「熱いの、苦手でしょう」
仁人は、動けなかった。
「……なんで」
「見てたんで」
勇斗は、当たり前のように言った。
「最初の日、差し入れのコーヒー、口つけなかったでしょう。ずっと湯気が上がってて。ああ、熱いのがだめなんだな、って」
数えていたのだ、と仁人は思った。言わなかったことを。あの日の自分が、しなかったことを。
「……猫舌なんですよ」
「でしょうね」
「でしょうね、って。言ってないですし」
「言われる前に気づくのが、マメの条件なんで」
勇斗が、笑った。笑うと、口が大きく開く。歯が、蛍光灯を反射して白かった。仁人は、その顔を見ないようにしているのに、見ていた。
紙コップを受け取る。冷たい氷が、指に触れた。一口飲むと、ぬるくて、苦くて、ちょうどよかった。
「……どうも」
「どういたしまして」
勇斗は、自分の紙コップを、湯気の立つまま、平気な顔で口に運んだ。仁人は、それを、羨ましいような、呆れたような気持ちで、見ていた。
会議室に、二人分の呼吸の音だけがあった。
勇斗は、仁人の隣の椅子に座った。距離が、近かった。手を伸ばせば、袖口が触れる。
「その本、仁人さんのですか」
勇斗が指したのは、仁人が持ち込んだ資料の脇に、置き忘れていた文庫本だった。古い詩集で、背表紙が日に焼けている。
「……ええ。昼休みに、読んでいて」
「詩、ですよね。俺、全然分かんないんですけど。こういうの読んで何が残るんですか」
「残らないんですよ」
仁人は、少し考えてから答えた。
「読んだ前と後で、何かが変わるというほどでもない。ただ、ほんの少しだけ、自分の輪郭が変わる。それが、悪くなくて」
「輪郭」
「ええ。……言葉にすると、安っぽいですね」
「いや。なんか、分かります」
勇斗は、笑わなかった。真剣な顔だった。
「俺は、輪郭とかより、欲しいものが決まると、それしか見えなくなるタイプで」
勇斗が、紙コップを回した。
「仕事でも、そう。この案件も、三か月、ヴェルディエに通いました。何でもするんです、欲しいと思ったら。昔から」
「それは、危ない感じがします。」
「……仁人さんは、何のために、この会社にいるんですか」
勇斗が、聞いた。声が、いつもより低かった。
「会社に関係のあることなら、聞いていいんですよね」
「……ずるいですね」
「はい、ずるいです」
仁人は、手の中の紙コップを見つめた。
これは、嘘をつかなくていい質問だ、と思った。そう思えたことに、ほっとした自分がいた。
「銀行では」
仁人は、ゆっくり言った。
「誰の役に立っているのか、分からなかったんですよ。数字は、毎日動かしていた。けれど、その数字の向こうに誰がいるのか、見えなかった。ここは見える。柔太朗の作ったものが、誰かの指に収まる。それを、俺が支えている」
「俺」と言っていた。「私」と言うべき場所で。
勇斗は、笑っていなかった。
いつも笑っているこの男の、笑顔の消えた顔を、仁人は初めて見た。疲れて、真剣で、少しだけ、痛そうな顔だった。
「……それは、いい仕事ですね」
「ええ」
「本当に、いい仕事だと思います」
その声には、営業の色がなかった。
仁人は、視線を逸らした。何かを言うべきだと思った。けれど、何も出てこなかった。
「なんで、そんな顔をするんですか」
「そんな顔、してました?」
「してました」
「すみません」
勇斗は、小さく笑って、いつもの顔に戻った。戻るのに、少し時間がかかった。
午前零時を、過ぎていた。
「そろそろ、帰りましょうか」
勇斗が、ノートPCを閉じた。
「ええ。私も、帰ります」
仁人は、立ち上がった。帰るはずだった。バインダーを台車に戻して、鍵をかけて、エレベーターに乗る。それだけの、はずだった。
足が、休憩スペースに向かっていた。
コーヒーメーカーの前で、立ち止まる。紙コップを二つ取った。
ブラック。氷は入れない。片方は、また氷を入れて、ぬるくなるのを確かめた。もう片方は、湯気の立つまま、持って戻った。
会議室では、勇斗が荷物を持ったまま、こちらを見ていた。
「一杯、飲んでから、帰りますか」
仁人は、湯気の立つほうを、差し出した。
勇斗は驚いた顔をして、それから、受け取った。
「……熱いの、なんですね」
「勇斗さんは、熱いのが、お好きなようなので。さっきも、そのまま、飲んでいました」
「え、いつの間に」
「見てたんで」
勇斗が、目を見開いた。それから、腹を抱えて笑った。口が、大きく開いた。
仁人は、その顔を、今度は、見ないふりをしなかった。
エレベーターの中で、仁人は自分の指先を見た。
さっきまで冷たかった。今は、温かかった。紙コップの熱が、まだ残っているからだ。
理由は、それだけだ。
考えないことにした。
コメント
1件
(静かに読み終えました……) 深夜の会社の静けさと、紙コップの温度が、すごくリアルで胸に残りました。「見てたんで」と言う勇斗さんと、「見てたんで」と返す仁人さんの最後の掛け合い、すごく好きです。仁人さんが初めて自分の言葉で「ここにいる理由」を話した瞬間、ぐっと来ました。 優しくて、少し寂しくて、でもちゃんと温かい話をありがとうございます🤍