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聖杯
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聖杯
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第十一話 握られなかった手に、桃色の温度を
朝、遠坂衛二は自分の手を見ていた。
右手。
昨日、柳洞寺の御守りを握った手。
黒い秒針に触れず、宮原詩乃を支えた手。
動けなくなったミライの前で、無理に引っ張らず、ただ待つために膝の上へ置いた手。
左手。
令呪の刻まれた手。
アストルフォと契約を結んだ手。
何度も彼に握られ、夢の底から引き戻された手。
どちらの手も、自分のもののはずだった。
それなのに最近、衛二はその手の意味を考えることが増えた。
手を伸ばすこと。
手を取ること。
手を離さないこと。
そして、差し伸べられた手を拒むこと。
返事の庭の次の問いは、それだった。
――差し伸べられた手を拒む願いには、どう答える。
衛二は自室の机に置いた御守りを見つめる。
柳洞寺から預かった、待つ者の御守り。
魔術ではない。
礼装でもない。
けれど確かに、祈りの温度を持っている。
その温度は、衛二の中にある剣の熱とはまったく違っていた。
剣は切る。
守るために切る。
道を開くために切る。
けれど、この御守りは切らない。
ただ、そこにある。
待つ。
祈る。
戻ってくる場所を、消さずに残す。
「エイジ?」
背後から声がした。
振り返ると、アストルフォが扉の前に立っていた。
桃色の髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、いつもの明るい笑顔を浮かべている。
けれど、衛二の表情を見た瞬間、その笑顔が少し心配そうに揺れた。
「また難しい顔してる」
「……してたか?」
「してた」
アストルフォは部屋に入ってくると、衛二の机の横に立った。
そして、彼の手元を見る。
「手、見てたの?」
「ああ」
「沈黙冠の問い?」
「そう」
衛二は隠さなかった。
隠せば、きっとアストルフォは分かる。
分かったうえで、何も言わずに隣にいてくれるだろう。
それは優しい。
でも、衛二はもう少しだけ、アストルフォにちゃんと言葉を渡したかった。
「次の問いが、手のことだったから」
「差し伸べられた手を拒む願い」
「ああ」
アストルフォは少し考えるように、自分の手を見た。
「ボク、エイジの手を握るの好き」
「知ってる」
「すぐ握っちゃう」
「知ってる」
「でも、エイジが嫌だったら?」
衛二は少し驚いた。
アストルフォの声が、いつもより不安そうだったからだ。
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「本当」
「ボク、たまに勢いでぎゅーってするし、手も勝手に握っちゃうから。エイジが疲れてる時、近すぎるかなって思う時もある」
衛二は目を細めた。
アストルフォは明るい。
自由で、まっすぐで、感情を隠さない。
でも、それは相手のことを考えていないという意味ではない。
むしろ彼は、衛二が思うよりずっと繊細に衛二を見ている。
「アストルフォ」
「うん」
「俺が嫌なら、嫌って言う」
「言える?」
「たぶん」
「たぶん?」
「……言えるようにする」
アストルフォは少しだけ頬を膨らませた。
「そこは約束」
「分かった。約束する」
「じゃあ、ボクも約束する」
アストルフォはそっと衛二の前に手を差し出した。
いつものようにすぐ握るのではなく、差し出すだけ。
「エイジが取りたい時に取って。取りたくない時は、そのままでいい」
その手を見て、衛二の胸が静かに揺れた。
差し伸べられた手。
だが、それは掴むことを強制しない手だった。
拒まれても、すぐに引っ込めない手。
けれど、無理やり握りもしない手。
衛二はその手を見つめたあと、ゆっくり自分の手を重ねた。
「今は取りたい」
アストルフォの顔が一気に明るくなる。
「うん!」
彼は嬉しそうに握った。
けれど、いつもより少し優しく。
衛二はその力加減に気づき、小さく笑った。
「気を遣ってる?」
「ちょっと」
「ありがとう」
「どういたしまして」
アストルフォは照れたように笑う。
「エイジの手、今日もあったかい」
「アストルフォの手も」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、今日の契約再確認は手ぎゅーで」
「朝から?」
「朝だから!」
アストルフォは衛二の手を両手で包んだ。
「ボクはエイジの隣にいる。エイジが手を取りたい時は握る。取りたくない時は待つ。でも、離れてほしくない時はちゃんと言う」
「……最後、正直だな」
「うん。離れてほしくないもん」
その言葉が、朝の部屋に落ちる。
衛二は少しだけ照れながら、握った手に力を込めた。
「俺も、離れたくない」
アストルフォが固まる。
数秒後、彼の頬が赤くなった。
「エイジ、朝からずるい……」
「言わせたのはそっちだろ」
「言ってくれて嬉しいけど、ずるい!」
衛二は笑った。
沈黙冠の問いは重い。
けれど、アストルフォの手の温度があるだけで、その重さに潰されずに立てる気がした。
◇
朝食の席では、凛が今日の予定を告げた。
「放課後、柳洞寺へ行くわ」
衛二は味噌汁を置いた。
「返事の庭ですか?」
「ええ。昨日、新しい芽が出た。動けない願いに対する反応ね。今日は、その変化の確認」
「奥へ入るんですか?」
「外縁まで。未答区域へは近づかない。衛二、あなたは今日も無窮剣界禁止」
「分かってる」
「投影は?」
「緊急時以外禁止」
「五大元素は?」
「軽度制御のみ」
「アストルフォ」
「はい!」
「衛二が“緊急時”を都合よく解釈しそうになったら止めなさい」
「任せて!」
「俺への信頼」
衛二が小さく呟くと、凛は涼しい顔で言った。
「信頼しているからこその対策よ」
「最近、そればっかりだ」
士郎が笑った。
「俺も昔、似たようなことを言われた気がする」
「あなたは言われても聞かなかったでしょう」
「凛」
「何?」
「反論できない」
「でしょうね」
食卓に少し笑いが広がる。
ユイはその様子を見ながら、柔らかく微笑んでいた。
ミライは黙っていたが、昨日より少しだけ肩の力が抜けている。
アストルフォは卵焼きを食べながら、ミライの方を見た。
「ミライ、今日は顔色ちょっといいね」
ミライは少し驚いたように瞬きをした。
「そう?」
「うん。昨日より、息がしやすそう」
「……そうかもしれない」
「よかった!」
アストルフォは本当に嬉しそうだった。
ミライはどう反応すればいいのか分からないように視線を落とす。
しかし、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
ユイがそれを見て、小さく息を吐く。
安心したような、泣きそうなような息だった。
「今日の問いは、手ね」
ユイが言った。
「差し伸べられた手を拒む願い。返事の庭にも、そういう願いはあった」
「どんな願いですか?」
衛二が尋ねる。
ユイは少し考えた。
「助けてほしかった。でも、助けられるのが怖かった願い」
「怖い?」
「ええ。手を取ったら、もう一度失うかもしれない。手を取ったら、自分の弱さを認めなければならない。手を取ったら、相手を傷つけるかもしれない」
ミライが静かに続けた。
「あるいは、差し伸べられた手が遅すぎた願い」
リビングが静かになる。
「もっと早く来てほしかった。今さら手を差し出されても、もう遅い。そういう願いもある」
衛二は胸が痛むのを感じた。
黒い花の記憶。
雨の中で待っていた少女。
帰ってこない誰か。
届いた優しい返事。
でも、少女は返事を拒んだ。
違う。
聞いてほしかったんじゃない。
戻してほしかった。
手を差し伸べられても、もう遅い。
そういう痛みがある。
アストルフォが衛二の手にそっと触れる。
食卓の下で。
誰にも見えないように。
衛二はその手を握り返した。
◇
学校では、宮原詩乃の席が空いていた。
だが、その空席は昨日のような不安ではなく、少しだけ温かい意味を持っていた。
弟の手術は成功。
宮原は病院に付き添っている。
担任がそう伝えると、教室に小さな拍手が起きた。
誰かが「よかった」と言った。
誰かが「宮原、戻ってきたらノート貸す」と言った。
衛二はその声を聞きながら、昨日の黒い秒針を思い出した。
待てない願いは、今を一緒に動かすことで少しだけ前へ進んだ。
では、手を拒む願いは。
昼休み、柳洞悠馬が衛二の席へ来た。
「遠坂、少しいいか」
「ああ」
二人は廊下の端へ移動した。
アストルフォは霊体化して衛二の隣にいる。
柳洞は少し言いづらそうに口を開いた。
「昨日の夜、寺で妙なものを見た」
「妙なもの?」
「ああ。鐘楼の下に、手形があった」
衛二の表情が変わる。
「手形?」
「黒い手形だ。石畳に、濡れた墨のような跡がついていた。父が朝には消えるだろうと言っていたが、今朝になっても残っていた」
アストルフォの気配が緊張する。
『エイジ、次の問いだね』
「ああ」
柳洞が眉を寄せる。
「また話してるな」
「……最近、独り言が多くて」
「苦しい言い訳だ」
「分かってる」
柳洞はため息をついた。
「父は、お前に伝えてほしいと言った。今日、柳洞寺へ来るなら、鐘楼の手形を見てほしいと」
「分かった」
衛二は頷いた。
「放課後、母さんたちと行く」
「また家族総出か」
「たぶん」
「遠坂家は大変だな」
「本当に」
柳洞は少し黙った。
それから、ふと真剣な目になる。
「遠坂」
「何だ?」
「俺は、何も知らないままでいいのか」
衛二は言葉に詰まった。
柳洞は続ける。
「寺で何かが起きている。父は知っている。お前たちも知っている。でも俺は、手形を見ても、鐘が鳴っても、何が起きているのか分からない」
「柳洞」
「危険なのは分かる。俺が踏み込める話ではないのかもしれない。それでも、自分の家で起きていることを、何も知らないまま見ているだけなのは……」
柳洞は拳を握った。
「正直、きつい」
衛二は柳洞の手を見た。
握りしめられた手。
何かを掴みたいのに、掴むものがない手。
差し伸べられることを待っているのではない。
自分から手を伸ばしたいのに、伸ばす先を知らされていない手。
衛二は慎重に言葉を選んだ。
「全部は話せない」
「分かってる」
「話すことで柳洞が危険になることもある」
「それも分かってる」
「でも、何も知らなくていいとは思わない」
柳洞の目がわずかに揺れた。
「放課後、母さんたちに相談する。どこまで話せるか。柳洞がどこまで関われるか」
「……いいのか?」
「勝手には決められない。でも、相談はする」
柳洞はしばらく衛二を見つめた。
それから、小さく息を吐く。
「ありがとう」
「まだ何もしてない」
「手を払われなかっただけで、少し楽になった」
その言葉が、衛二の胸に刺さった。
手を払われなかった。
それだけで。
アストルフォが小さく言った。
『エイジ、今の大事だね』
「ああ」
衛二は柳洞を見る。
「柳洞」
「何だ?」
「放課後、一緒に柳洞寺へ行こう」
柳洞は少し驚いた。
「俺も?」
「境内まで。奥へ入るかは、大人たちと相談してから。でも、少なくとも門の前で置いていくことはしない」
柳洞は少しだけ笑った。
「分かった」
◇
放課後の柳洞寺は、薄曇りの下に沈んでいた。
境内に入ると、すぐに違和感があった。
鐘楼の下。
石畳の上に、黒い手形がいくつも残っている。
大人の手。
子どもの手。
右手。
左手。
それらが、まるで地面の内側から這い上がってきたように刻まれていた。
宗真は険しい表情で言った。
「今朝より増えています」
凛がしゃがみ込み、手形を調べる。
「魔力というより、残響ね。願いの痕跡が表面化してる」
ユイも頷く。
「返事の庭の未答区域から漏れている。昨日の新しい芽が生まれたことで、沈黙冠がさらに問いを強めたのかもしれない」
ミライは黒い手形を見つめて、少し震えていた。
「手を拒む願い……」
衛二はアストルフォの隣で、黒い手形を見る。
その一つが、妙に気になった。
小さな手形。
子どものものだ。
指先が少し丸く、掌が小さい。
衛二が近づこうとした瞬間、アストルフォが袖を引いた。
「エイジ」
「分かってる。触らない」
「うん」
「見るだけ」
「凛が言ってた。見るだけは信用しない」
「……じゃあ、近づくだけ」
「それも怪しい」
アストルフォは真剣だった。
衛二は苦笑する。
「じゃあ、一緒に近づいてくれ」
「うん。それならいい」
二人は並んで小さな手形の前にしゃがんだ。
その瞬間。
黒い手形が、ぬるりと動いた。
アストルフォが衛二を引き寄せる。
「エイジ!」
手形は地面から浮かび上がり、影の手になった。
しかし攻撃してくるわけではない。
ただ、空中に差し出される。
小さな手。
誰かに握られるのを待つように。
だが、その手に近づいた瞬間、指先が震え、拒絶するように引っ込む。
差し出す。
引っ込める。
差し出す。
引っ込める。
衛二は息を呑んだ。
「握ってほしいのに、怖いのか」
ユイが近づく。
「そうね。手を伸ばしたい。でも、握られたくない。握られたい。でも、握られたら壊れるかもしれない」
ミライが小さく呟く。
「矛盾した願い」
凛が宝石を構えながら言う。
「下手に触れないで。拒絶反応が出る可能性がある」
アストルフォは小さな影の手を見つめていた。
その表情が、いつもの明るいものから少し変わる。
悲しそうで、優しい顔。
「この手、泣いてるみたい」
衛二は頷いた。
影の手は、声を持たない。
けれど、震えている。
伸ばしたい。
取ってほしい。
でも怖い。
近づかないで。
でも置いていかないで。
そんな矛盾が、手の形をしていた。
その時、柳洞悠馬が一歩前へ出た。
「遠坂」
「柳洞?」
「俺にも見える」
衛二は驚いた。
認識阻害や霊的不可視の領域を越えて、柳洞にも影の手が見えている。
柳洞寺の血筋か。
返事の庭との縁か。
あるいは、彼自身も「手を伸ばしたい側」にいるからか。
影の手が、柳洞の方へ向いた。
柳洞は息を呑む。
その手は、彼に向かって差し出された。
柳洞が思わず手を伸ばす。
「待て!」
衛二が叫ぶ。
だが遅かった。
柳洞の指先が、影の手に触れた。
瞬間。
黒い波紋が広がった。
◇
柳洞悠馬は、雨の中に立っていた。
いや、衛二にはそう見えた。
柳洞本人の記憶ではない。
影の手に宿っていた願いの記憶が、柳洞を通して開かれている。
小さな子どもがいた。
男の子か、女の子か分からない。
年齢は五歳ほど。
場所は、冬木のどこか。
雨ではなく、灰が降っている。
子どもは手を伸ばしていた。
誰かに向かって。
けれど、その手は届かなかった。
大人の手が差し伸べられる。
助けようとする手。
しかし子どもは、その手を払った。
違う。
その人じゃない。
欲しかった手じゃない。
迎えに来てほしかったのは、別の人だった。
でも、その人は来ない。
差し伸べられた手は優しかった。
救おうとしていた。
でも、子どもには遅すぎた。
その手を取ったら、来てほしかった人がもう来ないことを認めるようで。
だから、取れなかった。
拒んだ。
そして拒んだことを、ずっと後悔した。
助けようとしてくれた人を傷つけた。
自分は差し伸べられた手を払った。
だからもう、次の手を取る資格はない。
そうして願いは、手の形になった。
◇
現実へ戻る。
柳洞は膝をついていた。
顔色が悪い。
衛二とアストルフォが同時に駆け寄る。
「柳洞!」
「大丈夫!?」
柳洞は荒い息をしている。
「見えた……」
「何が?」
「手を払った子ども。助けようとしてくれた人の手を、払った。なのに、本当は……本当は、握りたかった」
影の手が震える。
柳洞の足元から、黒い影が伸び始める。
彼自身の感情にも触れたのだ。
何も知らされないまま置いていかれることへの不安。
自分の家で起きていることに関われない苛立ち。
差し伸べられた手を取っていいのか分からない戸惑い。
それらが、影の手と共鳴している。
凛が鋭く言う。
「まずい。柳洞くんからも残響が増幅してる」
士郎が前へ出る。
「引き離すか?」
ユイが首を振る。
「無理に引き剥がすと、柳洞くんの精神に傷が残る」
アストルフォが衛二を見る。
「エイジ」
「分かってる」
衛二は柳洞の前にしゃがんだ。
魔術は使わない。
影の手に触れない。
ただ、柳洞の目を見る。
「柳洞」
柳洞は顔を上げる。
「遠坂……」
「手を払ってもいい」
柳洞の目が揺れた。
「何?」
「差し伸べられた手を、すぐ取れなくてもいい。怖いなら、払ってもいい。迷ってもいい」
影の手が震える。
衛二は続けた。
「でも、払ったら終わりじゃない」
「……」
「もう一回、差し出してもいい。もう一回、取ろうとしてもいい」
柳洞の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
衛二は自分の手を、柳洞へ差し出した。
ただし、握らない。
近づけすぎない。
柳洞が取れる距離に置くだけ。
「取れなくてもいい。俺は置いておく」
アストルフォも隣に座った。
彼も手を差し出す。
「ボクも置いておく」
柳洞はアストルフォの手を見た。
見えている。
はっきりと。
柳洞は戸惑ったように笑った。
「本当に、いるんだな」
「いるよ!」
アストルフォはにこっと笑った。
「エイジの最高のサーヴァントです!」
「自分で言うのか」
「エイジも言ってくれたもん」
こんな状況なのに、柳洞は少しだけ笑った。
その笑いで、影が薄くなる。
衛二は静かに言う。
「柳洞。全部を一度に話せるわけじゃない。でも、置いていくつもりはない」
「……」
「知りたいなら、ちゃんと話し合う。関わるなら、危険も説明する。手を取るかどうかは、その後で決めればいい」
柳洞は差し出された手を見る。
衛二の手。
アストルフォの手。
しばらく、そのままだった。
取らない。
でも、払わない。
影の手が揺れる。
それはまるで、子どもの願いが迷っているようだった。
衛二は焦らない。
アストルフォも焦らない。
凛も、士郎も、ユイも、ミライも、何も言わなかった。
手を差し出したまま、待つ。
拒まれても、怒らない。
取られなくても、引っ込めない。
すると、影の手の指先から、黒い雫が落ちた。
涙のようだった。
柳洞がゆっくり手を伸ばす。
だが、衛二の手を取る直前で止まった。
「……まだ、怖い」
「うん」
衛二は頷いた。
「それでいい」
「でも、逃げたくはない」
「なら、一緒に考えよう」
柳洞は小さく頷いた。
そして、完全に握るのではなく。
衛二の指先に、自分の指先を軽く触れさせた。
それだけだった。
けれど、その瞬間。
影の手が、淡く光った。
黒い手形の一つが、白い線へ変わる。
握られた手ではない。
触れた手。
まだ完全には取れない。
でも、完全に拒んでもいない。
その曖昧な一歩を、返事の庭は確かに受け取った。
ユイが呟く。
「触れることから始める返事……」
ミライは小さく言った。
「握れなくても、触れられた」
アストルフォが嬉しそうに笑った。
「すごいね、柳洞!」
柳洞は少し困ったように眉を下げた。
「俺は、ただ指を触れただけだ」
「それがすごいんだよ」
アストルフォは真剣だった。
「怖いのに、ちょっと触れた。すごい」
柳洞は何も言えず、視線を落とした。
その耳が少し赤かった。
◇
返事の庭の入口へ行くと、新しい変化があった。
白い花畑の奥。
黒い丘の根元。
白い蕾。
時計の芽。
桃色の芽。
その隣に、もう一つ。
小さな手の形をした芽が生まれていた。
掌を開いた形。
誰かを掴むためではない。
ただ、そこに置かれた手。
その指先には、淡い光が宿っている。
ユイは目を細めた。
「また一つ、増えた」
凛は慎重に観測する。
「沈黙冠の影響は弱まっている。でも消えてはいないわね」
士郎が言った。
「問いが解けているというより、問いの形が変わっている」
「そうね」
ユイは頷いた。
「返事の庭は、今までとは違う返答の形を覚え始めている。でも沈黙冠は、それに合わせて問いを深くしている」
ミライが黒い丘を見つめる。
「次の問いが来る」
衛二は頷いた。
「たぶん」
アストルフォが衛二の手を握る。
「でも、また一緒に考えよう」
「ああ」
「今度も、すぐ答えが出なくてもいいよね?」
「いい」
衛二は手の形をした芽を見つめた。
「握れなくても、触れることから始められる」
柳洞はその言葉を聞いて、静かに息を吐いた。
「遠坂」
「何だ?」
「俺は、まだ全部を知る覚悟があるか分からない」
「うん」
「でも、知らないまま置いていかれるのは嫌だ」
「分かった」
「だから、少しずつ教えてくれ」
衛二は頷いた。
「少しずつ話す」
柳洞は短く頷いた。
それだけだった。
でも、その一歩は大きかった。
◇
遠坂邸へ戻った後、リビングで話し合いが行われた。
柳洞悠馬も同席している。
もちろん、すべてを話すわけではない。
聖杯戦争や神杯戦争の細部、サーヴァントの真名、魔術協会に関わる危険な情報は伏せられた。
だが、柳洞寺の地下に特別な霊的空間があること。
そこに願いの残響が眠っていること。
最近、その残響が不安定になっていること。
そして柳洞家が、その場所と無関係ではないこと。
凛は必要最低限を、しかし誤魔化さずに説明した。
柳洞は最後まで黙って聞いていた。
途中、何度か顔色が悪くなったが、逃げなかった。
説明が終わった時、彼は深く息を吐いた。
「想像以上に、色々だった」
「便利な言葉でしょう」
衛二が言うと、柳洞は少しだけ笑った。
「ああ。便利だな」
凛が真剣な顔で言う。
「柳洞くん。あなたを巻き込みたいわけじゃない。むしろ、本音を言えば関わらない方が安全よ」
「分かっています」
「それでも、柳洞寺に関わることは最低限共有する。あなたにも知る権利がある。ただし、勝手に返事の庭へ近づくことは禁止」
「はい」
「衛二と一緒に無茶するのも禁止」
「なぜそこで俺を見るんだ?」
衛二が言うと、凛は即答した。
「可能性があるから」
柳洞も少し考えてから言った。
「否定はできないな」
「柳洞まで」
アストルフォが元気よく手を上げる。
「ボクが二人とも止めます!」
「まず衛二を止めなさい」
「はい!」
リビングに少し笑いが起きた。
柳洞はその笑いを聞いて、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
◇
夜。
衛二の自室。
今日もアストルフォは当然のようにそこにいた。
凛からは、条件付きで許可が出ている。
夜更かしさせない。
魔術の話をしすぎない。
何か異変があればすぐ呼ぶ。
そして、甘やかしすぎない。
最後の条件について、アストルフォは真顔で「どこからが甘やかしすぎですか?」と聞いた。
凛は頭を抱えた。
結局、「衛二が眠れる範囲で」という曖昧な基準になった。
その結果、アストルフォは今、衛二の隣で満足そうに座っている。
「エイジ」
「何?」
「今日も、すごかったね」
「どの辺が?」
「手を置いておけたところ」
アストルフォは自分の手を見た。
「無理に握らなかった。取れなくても怒らなかった。指先だけでも、ちゃんと受け取った」
「……アストルフォが朝、教えてくれたからだ」
「ボク?」
「ああ。手を差し出して、取りたい時に取ってって言ってくれただろ」
アストルフォの頬が赤くなる。
「あれ、役に立った?」
「かなり」
「嬉しい」
アストルフォは照れくさそうに笑った。
「ボク、エイジの役に立つの好き」
「いつも役に立ってる」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、もっと言って」
「役に立ってる」
「もう一回」
「役に立ってる」
「もっと違う言い方」
衛二は少し考えた。
そして、アストルフォの手を取る。
「アストルフォがいてくれるから、俺は剣を抜かない選択ができる」
アストルフォの目が丸くなる。
「アストルフォが手を握ってくれるから、沈黙冠の問いに飲まれずにいられる」
「エイジ……」
「アストルフォが隣にいるから、俺はちゃんと人間でいられる」
言った瞬間、自分でも少し照れた。
だが取り消す気はなかった。
アストルフォはしばらく固まっていた。
やがて、ゆっくり顔を赤くして、衛二の胸に飛び込んだ。
「ずるい……!」
「今日も出た」
「だって、今のは、ずるい!」
「聞きたいって言ったのはそっちだろ」
「言ったけど!」
アストルフォは衛二の服をきゅっと掴んだ。
「そんなこと言われたら、もっと好きになる」
「……俺も、もっと好きになってる」
アストルフォが完全に沈黙した。
衛二は少し笑う。
「珍しいな。アストルフォが黙るなんて」
「今、胸がいっぱいで喋れない」
「そうか」
「でも、嬉しい」
アストルフォは顔を上げた。
瞳が潤んでいる。
泣きそうなのに、笑っている。
「エイジ」
「何?」
「手、握ってていい?」
「いいよ」
「今日は、ボクから聞いた」
「ああ」
「エイジ、嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「本当」
衛二は握った手に力を込めた。
「むしろ、握っててほしい」
アストルフォはまた赤くなった。
「エイジ、今日ほんとにずるい……」
「アストルフォが聞くから」
「聞いてよかった」
二人は笑った。
そしてしばらく、手を握ったまま何も言わなかった。
それは沈黙だった。
けれど、沈黙冠の冷たい沈黙ではない。
手を取るかどうかを急がない沈黙。
ただ、今握っている温度を確かめる沈黙。
やがてアストルフォが、そっと衛二の額に唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さく囁く。
「ボクはエイジの隣にいる。エイジが手を取りたい時は握る。まだ取れない時は待つ。怖い時は、手を置いておく」
衛二は目を閉じる。
「俺も、アストルフォの隣にいる」
「うん」
「アストルフォが差し出してくれた手を、俺はちゃんと見る」
「うん」
「取れる時は取る。怖い時は、怖いって言う。でも、逃げない」
アストルフォの手が震えた。
「うん」
「名前がつく日まで」
「うん」
「その後も」
アストルフォは衛二の肩に額を寄せた。
「待ってる」
衛二はその言葉を、今度は怖いとは思わなかった。
「ありがとう」
そう言って、彼の桃色の髪を撫でる。
アストルフォは幸せそうに目を閉じた。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
黒い丘の根元には、いくつもの芽が並んでいた。
沈黙の蕾。
時計の芽。
桃色の停止芽。
そして、手の形をした芽。
その手の芽は、完全には開いていない。
けれど指先に、淡い光が灯っていた。
握られたわけではない。
ただ、触れた。
それだけで生まれた光。
沈黙冠は黒い丘の上で揺れていた。
差し伸べられた手を拒む願いに、強制ではなく、置かれた手を返された。
握れないことを許された。
払っても終わりではないと示された。
指先だけの接触を、一歩として認められた。
冠の輪郭が、また歪む。
問いは終わらない。
次の問いが、未答区域の奥で形を成す。
――ならば、握った手を失うことを恐れる願いには、どう答える。
黒い丘の奥で、二つの影が現れた。
ひとつは、差し出された手。
もうひとつは、その手を強く握りしめる手。
だが次の瞬間、片方の手が砂のように崩れて消えた。
残された手は、空を掴んだまま震えている。
失うことを恐れる願い。
それは、遠坂衛二の胸の奥にも、すでに根を伸ばしていた。
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第十一話、読み終わりました……「手」というモチーフが本当に美しくて、特にアストルフォが「取る?取らない?どっちでもいいよ」って手を差し出したまま待つシーン、胸がいっぱいになりました。無理に握らせない、拒否も許す、でもそこにいる。その居方が、もう完全に“答え”になってると思いました。柳洞くんが触れるだけでも一歩になったのも沁みます……次の“失う怖さ”への問い、どう応えるのかすごく気になります。