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第十二話 失うことを恐れる手は、桃色の自由を握れない
その朝、遠坂衛二は左手の冷たさで目を覚ました。
痛みではない。
痺れでもない。
ただ、冷たい。
布団の中にあるはずの左手だけが、冬の水に沈められたように冷え切っていた。
衛二はゆっくりと指を開く。
令呪はある。
赤い刻印は消えていない。
アストルフォとの契約線も、感覚の奥で確かに繋がっている。
それなのに、胸の奥に妙な空白があった。
何かを掴んでいたはずなのに、目を覚ましたら何もなかったような。
手の中から、大切なものが砂になってこぼれ落ちたような。
「……夢か」
呟いた声は、自分でも思ったよりかすれていた。
夢の内容は覚えていない。
ただ、感覚だけが残っている。
握った手が消える感覚。
離したくないと思った瞬間、相手が遠くなる感覚。
衛二は左手を握った。
その時、扉が軽く叩かれた。
「エイジ、起きてる?」
アストルフォの声だった。
いつも通り明るい。
けれど、扉越しでも分かるくらい、少し心配が混じっていた。
「ああ。起きてる」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開く。
アストルフォが顔を出した。
桃色の髪が朝の光を受け、ふわりと柔らかく揺れる。
その姿を見た瞬間、衛二は胸が詰まった。
いる。
ちゃんといる。
昨日と同じように。
あの地下霊脈で、返事の庭で、柳洞寺で、何度も手を握ってくれたアストルフォが、今もここにいる。
たったそれだけのことに、衛二はひどく安心してしまった。
「エイジ?」
アストルフォが近づいてくる。
「顔色、悪い」
「少し変な夢を見た」
「沈黙冠?」
「分からない。内容は覚えてない。でも……」
衛二は左手を見る。
「手が冷たい」
アストルフォはすぐに衛二の左手を取った。
いつものように勢いよく握るのではなく、そっと包むように。
「ほんとだ。冷たい」
「だろ」
「契約線は?」
「繋がってる」
「うん。ボクにも分かる。ちゃんと繋がってる」
アストルフォは衛二の手を両手で包み、少しだけ息を吹きかけた。
「こうしたら、あったかくなる?」
「子ども扱いみたいだな」
「寒そうな手は、あっためるものです」
「理屈が強い」
「ボクの理屈だからね!」
アストルフォはにこっと笑った。
その笑顔で、衛二の胸に残っていた冷たい空白が少しだけ薄れる。
でも、消えたわけではない。
衛二は無意識に、アストルフォの手を強く握り返していた。
「っ」
アストルフォが小さく息を呑む。
衛二はすぐに気づいて手を緩めた。
「悪い。強かった」
「大丈夫」
「痛かっただろ」
「ちょっとだけ。でも大丈夫」
アストルフォは笑った。
しかし、その笑顔はいつもの全開の明るさではなかった。
衛二の手を見て、彼は静かに言う。
「怖かった?」
衛二は答えられなかった。
でも、沈黙は肯定だった。
アストルフォは衛二の手を離さないまま、ベッドの端に座った。
「エイジ」
「うん」
「強く握りたくなるくらい、怖かったんだね」
「……ああ」
「ボクがいなくなる夢?」
「たぶん。覚えてないけど、そんな感じだった」
「そっか」
アストルフォは俯いた。
その横顔が少し寂しそうで、衛二は胸が痛んだ。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも、今の俺、アストルフォを縛りそうだった」
言葉にした瞬間、自分でぞっとした。
守りたい。
失いたくない。
離したくない。
それは確かに愛情に近いものだ。
でも、そこに恐怖が混ざると、簡単に相手を縛るものへ変わる。
アストルフォはサーヴァントだ。
衛二はマスターだ。
令呪がある。
命令できる力がある。
その事実が、今朝ほど怖く思えたことはなかった。
アストルフォは少し黙った。
そして、衛二の左手にある令呪へ視線を落とす。
「エイジは、ボクを令呪で縛りたい?」
「絶対に嫌だ」
即答だった。
アストルフォが目を瞬かせる。
衛二は自分でも驚くくらい強い声で続けた。
「それは嫌だ。アストルフォが俺の隣にいるのは、命令だからじゃない。契約だからでもあるけど、それだけじゃない」
「うん」
「アストルフォが自分でいてくれてるから、俺は嬉しいんだ」
アストルフォの頬が、ほんの少し赤くなる。
「エイジ」
「でも、怖い」
衛二は正直に言った。
「怖いと、間違えそうになる。守りたいのと、離したくないのと、縛りたいの境目が分からなくなりそうになる」
アストルフォは衛二の手を握ったまま、静かに頷いた。
「じゃあ、間違えそうになったら、ボクが言う」
「何を?」
「それは違うよって」
アストルフォの声は優しかった。
「エイジがボクを守りたいって思ってくれるのは嬉しい。でも、ボクは閉じ込められるために隣にいるんじゃない」
「……ああ」
「ボクは、自分でエイジの隣にいたい」
その言葉は、朝の部屋にまっすぐ響いた。
衛二は左手の冷たさが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「だから、エイジ」
「うん」
「ボクの手は、握っていいよ。でも、ぎゅーってしすぎて痛かったら、痛いって言う」
「ああ」
「エイジも、怖い時は怖いって言う」
「ああ」
「それで、二人で力加減を覚えよう」
衛二は思わず笑ってしまった。
「力加減」
「大事でしょ?」
「かなり大事だな」
「好きにも力加減があるんだよ、きっと」
アストルフォは少し照れながら言った。
「強すぎると痛くなる。でも弱すぎると届かない。だから、ちょうどいい強さを一緒に探すの」
衛二はその言葉を胸にしまった。
好きにも力加減がある。
それは、今の衛二に必要な言葉だった。
◇
朝食の席で、衛二は今朝の夢について話した。
正確には、夢の内容ではなく、残った感覚について。
握った手が失われる感覚。
左手だけが冷えていたこと。
令呪に異常はないが、契約線が一瞬薄く感じたこと。
凛は食後すぐに衛二の魔術回路と契約線を検査した。
士郎は静かに横で見守り、ユイとミライも真剣な表情で結果を待った。
アストルフォは衛二の隣で、当然のように手を握っている。
今回は凛も止めなかった。
「契約線そのものに損傷はないわ」
凛は検査礼装を閉じながら言った。
「ただし、外部から触れられた痕跡がある」
「沈黙冠ですか?」
「おそらくね。直接干渉というより、夢を通じた問いの投射。前回よりもかなり狙いが明確になっている」
ユイが表情を曇らせる。
「失うことを恐れる願い。これはかなり危険ね」
「どうしてですか?」
衛二が尋ねる。
ユイは少し間を置いた。
「失うことを恐れる願いは、守る願いと似ているから」
その言葉に、衛二は息を呑んだ。
ユイは続ける。
「守りたい。離したくない。失いたくない。それ自体は自然な感情よ。けれど、恐怖が強すぎると、相手の意思を見失う」
ミライが静かに言った。
「守るために閉じ込める。失わないために縛る。離れないように命令する」
アストルフォの手が、ほんの少し震えた。
衛二はそれに気づき、握る力を緩める。
アストルフォは衛二を見る。
衛二は小さく頷いた。
大丈夫。
強く握りすぎない。
アストルフォも小さく頷き返した。
凛が衛二を見据える。
「衛二。今日は柳洞寺へ行くけれど、あなたは絶対に令呪を使わないこと」
「分かってる」
「戦闘のためでも、アストルフォを守るためでも、禁止」
「はい」
「アストルフォ」
「はい」
「衛二が危なくなった時、自分から無茶をしすぎないこと。あなたが傷つくと、衛二は揺らぐ」
アストルフォは少しだけ目を丸くした。
そして、真剣に頷く。
「分かった」
「本当に?」
「うん。ボクが無茶すると、エイジが怖くなるから」
その言葉に、衛二は胸が痛くなった。
アストルフォは明るく続ける。
「でも、守る時は守るよ」
「それは分かってるわ」
凛はため息をついた。
「だからこそ、互いに力加減を覚えなさい」
衛二とアストルフォは顔を見合わせた。
朝に話した言葉と同じだった。
好きにも力加減がある。
守ることにも、きっと力加減がある。
◇
学校では、何も起きなかった。
少なくとも午前中は。
宮原詩乃は今日も欠席。
弟の術後経過は安定しているらしい。
柳洞悠馬は朝、衛二に短く言った。
「今日、俺も柳洞寺へ行く」
「凛さんたちには?」
「父から伝えてある。奥には入らない。境内までだ」
「分かった」
「昨日、少しだけ聞いて、少しだけ関わった。だから、今日も少しだけ知りたい」
少しだけ。
その言葉が柳洞らしかった。
いきなり全部を握らない。
でも、完全に手を引くわけでもない。
指先で触れるところから始める。
昨日の手の芽と同じだ。
昼休み。
衛二は屋上でアストルフォと弁当を食べていた。
空は曇っている。
風は冷たい。
けれどアストルフォは相変わらず、士郎の弁当を見て幸せそうにしている。
「エイジ、今日の唐揚げおいしい!」
「父さんの唐揚げは安定してる」
「シロウすごい。戦えて料理もできる」
「本人に言ったら喜ぶと思う」
「帰ったら言う!」
アストルフォは唐揚げを一つ衛二の弁当箱に移す。
「はい」
「また増えた」
「今日は怖い夢見たから、回復追加」
「唐揚げで?」
「唐揚げで!」
衛二は笑って、その唐揚げを食べた。
美味い。
温かいわけではないのに、なぜか体の奥が少し緩む。
アストルフォがじっと見ている。
「何?」
「エイジ、今朝より手あったかい?」
衛二は左手を開く。
「たぶん」
「触っていい?」
「ああ」
アストルフォは衛二の左手にそっと触れた。
今朝のように包むのではなく、確認するように指先を重ねる。
「うん。あったかい」
「ならよかった」
「怖いの、減った?」
「少し」
「まだある?」
「ある」
「うん」
アストルフォは衛二の手を見つめる。
「怖いままでもいいよ」
「アストルフォは、そればっかりだな」
「だって本当にそう思うから」
アストルフォは顔を上げた。
「怖くないふりをして守られるより、怖いって言ってくれる方が嬉しい」
「情けなくないか?」
「全然」
即答だった。
「エイジが怖いって言ってくれたら、ボクも一緒に考えられる。力加減も分かる」
「……力加減」
「うん」
アストルフォは少し照れながら、衛二の指に自分の指を絡めた。
強く握らない。
離れもしない。
その中間の温度。
「これくらい?」
「ちょうどいい」
衛二は答えた。
アストルフォの顔が明るくなる。
「じゃあ、覚える」
「俺も」
二人はしばらく、そのまま屋上の曇り空を見ていた。
恋人ではない。
まだ、その名前はついていない。
けれど、名前のない想いは、確かに少しずつ形を得ていた。
◇
放課後。
柳洞寺の境内には、昨日とは違う空気が漂っていた。
鐘楼の下の手形は薄れている。
完全に消えたわけではないが、黒い墨のようだった跡は、今は灰色に近い。
その代わり、鐘楼の影が奇妙に伸びていた。
夕暮れの光とは逆方向へ。
まるで、地下から何かが影を引っ張っているように。
凛が宝石を指に挟む。
「昨日より沈黙冠の干渉が深いわね」
ユイが頷く。
「返事の庭の奥に、新しい影が出ているはず」
ミライは静かに息を吸った。
昨日のように動けなくなる様子はない。
ただ、緊張はしている。
ユイがそっと彼女の隣に立つ。
無理に手は取らない。
でも、必要なら取れる距離にいる。
ミライはそれに気づき、小さく頷いた。
柳洞悠馬は宗真の隣に立っている。
境内まで。
そう決めていたはずだった。
しかし、石扉が開いた瞬間、彼の表情が変わった。
「……呼ばれてる」
衛二が振り返る。
「柳洞?」
「分からない。でも、奥から声がする」
宗真が険しい顔になる。
「悠馬」
「父さん、分かってる。勝手には行かない」
柳洞は拳を握った。
「でも、聞こえるんだ。手を離すなって」
衛二の左手が冷たくなる。
今朝の夢と同じ感覚。
握った手を失う恐怖。
凛が即座に判断する。
「柳洞くんはここで待機。宗真さん、結界内に」
「はい」
「衛二、アストルフォ。二人は絶対に離れないこと。ただし、強く握りすぎない」
凛の指示に、衛二とアストルフォは顔を見合わせた。
「母さん、聞いてた?」
「何を?」
「いや、何でもない」
アストルフォは少し笑って、衛二の手を取った。
強すぎず、弱すぎず。
昼休みに覚えた力加減で。
「行こう、エイジ」
「ああ」
一行は石段を下り、返事の庭の入口へ向かった。
◇
返事の庭は、昨日より静かだった。
白い花々は咲いている。
沈黙の蕾。
時計の芽。
桃色の停止芽。
手の芽。
それらも、黒い丘の根元に並んでいる。
だが、その奥に新しい影があった。
二つの手。
ひとつは誰かの手を強く握っている。
もうひとつは、その中で薄く透けている。
握られている手が、少しずつ砂のように崩れていた。
崩れる手を、もう片方の手がさらに強く握る。
強く。
もっと強く。
すると、崩れる速度が早くなる。
衛二の呼吸が止まりかけた。
まるで自分の恐怖を見せられているようだった。
失いたくない。
だから強く握る。
でも、強く握れば握るほど、相手が壊れていく。
沈黙冠の問いが響く。
――握った手を失うことを恐れる願いには、どう答える。
アストルフォの手が、衛二の手の中で少し震えた。
衛二はすぐに握る力を緩める。
アストルフォが彼を見る。
「エイジ」
「大丈夫」
「ほんと?」
「怖い。でも、大丈夫」
「うん」
アストルフォは頷く。
「言えた」
その瞬間、黒い丘から影が伸びた。
速い。
影は剣でも蔓でもない。
手だった。
巨大な手。
それがアストルフォへ向かって伸びる。
狙いは衛二ではない。
アストルフォだ。
「アストルフォ!」
衛二の声が響く。
アストルフォは反応して飛び退こうとした。
だが影の手は、彼の足元ではなく、契約線へ触れた。
桃色と蒼の光で結ばれた、マスターとサーヴァントの線。
そこに黒い指が絡む。
瞬間、アストルフォの身体が薄く揺らいだ。
「っ……!」
「アストルフォ!」
衛二の左手の令呪が熱を持つ。
凛が叫ぶ。
「衛二、令呪は使うな!」
分かっている。
分かっているのに、左手が勝手に動きそうになる。
令呪を使えば、命令できる。
戻れ。
離れるな。
俺のそばにいろ。
そう命じれば、アストルフォを繋ぎ止められるかもしれない。
いや、違う。
それは繋ぎ止めるのではない。
縛ることだ。
衛二は歯を食いしばる。
影の手は、契約線を揺らしながら囁く。
言葉ではない。
感覚として流れ込む。
失うぞ。
守れないぞ。
離した瞬間、消えるぞ。
ならば命じろ。
縛れ。
永遠に隣に置け。
衛二の視界が揺れる。
アストルフォが遠くなる。
桃色の姿が、砂のように崩れる幻が見えた。
左手が震える。
令呪が熱い。
「令呪をもって――」
言いかけた瞬間。
アストルフォの声が飛んだ。
「エイジ!」
その声は、痛みを含んでいた。
でも、はっきりしていた。
「命令で、ボクを隣に置かないで!」
衛二の息が止まった。
アストルフォは影の手に契約線を揺さぶられながら、それでも衛二を見ていた。
「ボクは、エイジに命令されて隣にいるんじゃない!」
桃色の瞳が、まっすぐ衛二を貫く。
「ボクは、自分でエイジの隣にいる!」
左手の熱が、一瞬で痛みに変わった。
衛二は自分が何をしようとしていたのか、はっきり理解した。
失いたくないから。
怖いから。
アストルフォを守りたいから。
その理由で、アストルフォの自由を奪いかけた。
衛二は左手を強く握った。
令呪を使わないために。
「……ごめん」
声が震えた。
「ごめん、アストルフォ」
「謝るのは後!」
アストルフォは叫ぶ。
「今は、ボクを信じて!」
信じる。
それは、縛ることの反対だ。
相手が自分で戻ってくると信じること。
自分の隣を選んでくれると信じること。
衛二は深く息を吸った。
そして、左手を下ろした。
令呪を使わない。
無窮剣界も開かない。
代わりに、アストルフォへ手を伸ばした。
ただし、命令ではなく。
お願いとして。
「アストルフォ」
衛二は言った。
「今、俺の手を取ってくれるか」
影の手が震えた。
問いが止まる。
アストルフォの瞳が大きく揺れた。
命令ではない。
強制でもない。
マスターからサーヴァントへの絶対命令ではなく、衛二からアストルフォへの願い。
取ってほしい。
選んでほしい。
隣にいてほしい。
でも、それを決めるのはアストルフォだ。
アストルフォは笑った。
怖がっている。
痛みもある。
それでも笑った。
「もちろん!」
彼は影の手を振り切り、衛二へ飛び込むように手を伸ばした。
衛二も手を伸ばす。
二人の手が触れる。
今度は強く握りすぎない。
でも、弱くもない。
ちょうどいい力で。
アストルフォが自分で握る。
衛二がそれを受け止める。
契約線が桃色に輝いた。
影の手が悲鳴のように震える。
凛が宝石を放つ。
「今!」
士郎が影の手の根元を斬る。
ユイが返事の庭の花々から光を集める。
ミライが未答区域への逆流を抑える。
だが決定打は、衛二とアストルフォの手だった。
命令ではなく、選択。
束縛ではなく、信頼。
失う恐怖を抱えたまま、それでも相手の自由を奪わない手。
影の手が砕ける。
黒い丘の奥で、崩れていた手の幻が止まった。
握る手が、力を緩める。
崩れかけた手は完全には戻らない。
でも、砂になることも止まった。
そして黒い丘の根元に、新しい芽が生まれた。
二つの手が向かい合う形の芽。
握りしめるのではない。
縛るのでもない。
互いに選んで触れ合う手。
その芽は、桃色と蒼の光を宿していた。
◇
戦闘が終わった後、衛二はその場に膝をついた。
魔力を使ったわけではない。
剣も抜いていない。
無窮剣界も開いていない。
それでも、心が限界に近かった。
左手が震えている。
令呪を使いかけた感覚が、まだ残っている。
アストルフォがすぐに隣へ座った。
「エイジ」
「……ごめん」
衛二は俯いた。
「俺、今、本当に命令しようとした」
「うん」
「アストルフォを縛ろうとした」
「うん」
「ごめん」
アストルフォは少し黙った。
それから、衛二の左手を取る。
令呪の上に、そっと指を重ねた。
「怖かったね」
責める言葉ではなかった。
衛二は唇を噛む。
「怖かった」
「ボクが消えるみたいに見えた?」
「ああ」
「そっか」
「怖くて、間違えそうになった」
「でも、止まった」
「アストルフォが止めてくれたから」
「エイジも、止まった」
アストルフォははっきり言った。
「ボクの声を聞いて、令呪を使わなかった。命令じゃなくて、お願いしてくれた」
衛二は顔を上げる。
アストルフォは微笑んでいた。
少しだけ涙目で。
「だから、怖かったけど、嬉しかった」
「嬉しかった?」
「うん」
アストルフォは衛二の手を握った。
「エイジが、ボクに選ばせてくれたから」
その言葉に、衛二の胸が締めつけられる。
「ボクはね、エイジの隣にいたい。命令じゃなくて、自分でそうしたい」
「……うん」
「だから、次に怖くなったら、命令じゃなくて呼んで」
「呼ぶ?」
「うん。アストルフォって呼んで。手を取ってくれるかって聞いて」
アストルフォは少し照れながら笑った。
「そしたらボク、何回でも選ぶよ」
衛二は目を閉じた。
胸の奥にあった冷たい空白が、ゆっくり温かいものへ変わっていく。
「ありがとう」
「うん」
「アストルフォ」
「なあに?」
「手を取ってくれて、ありがとう」
アストルフォの頬が赤くなる。
「どういたしまして」
「俺、まだ怖い」
「うん」
「でも、怖いからって縛らない」
「うん」
「アストルフォが隣にいることを、信じる」
アストルフォは嬉しそうに目を細めた。
「うん!」
凛が近づいてくる。
表情は厳しい。
当然だ。
「衛二」
「はい」
「説教案件よ」
「分かってる」
「でも」
凛は少しだけ息を吐いた。
「令呪を使わなかったことは、よく踏み止まったわ」
衛二は目を伏せる。
「……うん」
士郎も隣に来た。
「失うのが怖いのは、悪いことじゃない」
「父さん」
「怖くないふりをすると、もっと危ない。今日のお前は、怖かった。でも最後に、命令じゃなくて相手に選ばせた」
士郎は穏やかに言った。
「それでいい」
ユイも頷く。
「返事の庭に、新しい芽が生まれたわ。これは大きな変化よ」
ミライが黒い丘の根元を見つめながら言う。
「失うことを恐れる願いに、束縛ではなく信頼を返した」
衛二はアストルフォの手を見る。
まだ繋がっている。
強く握りすぎていない。
でも、確かに繋がっている。
「信頼……」
アストルフォが笑う。
「エイジ、力加減、ちょうどいいよ」
衛二は少しだけ笑った。
「それはよかった」
◇
柳洞寺の境内へ戻ると、空はすでに暗くなっていた。
柳洞悠馬が鐘楼の前で待っていた。
彼は衛二たちを見るなり、すぐに表情を引き締める。
「大丈夫か?」
「ああ」
衛二は答えた。
「今日は少し、危なかったけど」
「そうか」
柳洞はそれ以上、無理に聞かなかった。
ただ、衛二の左手とアストルフォの手が繋がれているのを見て、少しだけ目を細めた。
「手、離さなかったんだな」
「……ああ」
「ならよかった」
短い言葉だった。
でも、今の衛二にはよく分かった。
柳洞もまた、手を取ることの怖さを知ったばかりだ。
だから、その言葉は軽くない。
アストルフォが明るく言う。
「柳洞も、今日は待てたね!」
「俺は境内にいただけだ」
「それも大事!」
柳洞は少し困ったように笑った。
「君は、何でも褒めるんだな」
「必要なら褒めます!」
「それはいいことだ」
宗真が静かに微笑んだ。
「この寺には、少し明るい声が必要でしたから」
アストルフォは照れたように笑った。
◇
遠坂邸へ帰った後、衛二は凛にしっかり説教された。
令呪を使いかけたこと。
沈黙冠の問いに精神を揺さぶられたこと。
アストルフォが狙われた時に、冷静さを欠きかけたこと。
凛の言葉は厳しかった。
だが、最後はやはり母だった。
「失うのが怖いなら、怖いって言いなさい」
凛はそう言った。
「強がって全部一人で抱えたら、本当に間違えるわよ」
「……分かった」
「アストルフォも」
「はい」
「衛二を守るのはいい。でも、自分が傷つけば衛二が揺れることも忘れないで」
「うん」
「二人とも、互いを大事にするなら、互いに相談すること」
衛二とアストルフォは同時に頷いた。
凛は深くため息をついた。
「まったく。まだ恋人でもないのに、やってることが重いのよ」
空気が止まった。
士郎が咳き込む。
ユイが目を瞬く。
ミライが少しだけ視線を逸らす。
アストルフォは真っ赤になった。
衛二も固まった。
「母さん」
「何?」
「今、それ言う?」
「事実でしょう」
凛は涼しい顔をしている。
「名前をつけるかどうかは二人で決めなさい。でも、名前がないから責任が軽いなんてことはないわよ」
衛二は何も言えなかった。
アストルフォも俯いている。
だが、その手は離れていない。
むしろ、少しだけ強くなった。
でも痛くない。
ちょうどいい力だった。
◇
夜。
衛二の自室。
今日の凛の回路チェックは長かった。
沈黙冠の干渉痕が残っていたからだ。
ただし契約線は安定している。
令呪も正常。
無窮剣界への逆流もなし。
結果として、今日は厳重注意で済んだ。
アストルフォは衛二の隣に座っている。
いつもならすぐに抱きついてくる彼が、今日は少し距離を取っていた。
衛二はそれに気づく。
「アストルフォ」
「なあに?」
「遠い」
アストルフォが目を丸くした。
「え?」
「いつもより、少し遠い」
「……今日は、近すぎない方がいいかなって」
「どうして?」
「エイジ、今日怖かったでしょ。ボクが近いと、また失いたくないって苦しくなるかなって」
衛二は胸が痛くなった。
アストルフォなりの気遣いだ。
でも、それは違うと思った。
「アストルフォ」
「うん」
「近くにいてほしい」
アストルフォの瞳が揺れた。
「ほんと?」
「ほんと。ただ、強く握りすぎたら言ってくれ」
「うん」
「俺も、怖くなったら言う」
「うん」
「だから、こっち来て」
アストルフォは少しだけ固まった。
それから、ゆっくり衛二の隣へ移動した。
肩が触れる距離。
衛二はそっと手を差し出す。
アストルフォはそれを見て、微笑んだ。
「取っていい?」
「ああ」
アストルフォが手を取る。
衛二は握り返す。
ちょうどいい力で。
「……ちょうどいい?」
衛二が聞く。
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「ちょうどいい」
「よかった」
「エイジ」
「何?」
「今日、命令じゃなくてお願いしてくれてありがとう」
「……ああ」
「怖かったけど、嬉しかった」
「俺も、アストルフォが選んでくれて嬉しかった」
アストルフォの頬が赤くなる。
「ボク、何回でも選ぶよ」
「何回でも?」
「うん。エイジがちゃんと聞いてくれるなら、何回でも」
衛二はその言葉を胸に刻む。
「じゃあ俺も、何回でも聞く」
「うん」
「アストルフォ、俺の隣にいてくれるか」
アストルフォは少し驚き、それから笑った。
「もちろん」
「命令じゃなくて?」
「ボクが選んで」
「ありがとう」
アストルフォは嬉しそうに、衛二の肩に頭を寄せた。
「エイジ」
「うん」
「今日の契約再確認、していい?」
「ああ」
アストルフォは衛二の額に、そっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
柔らかな声。
「ボクはエイジの隣にいる。命令だからじゃなくて、ボクが選んだから。エイジが怖い時は手を握る。でも痛かったら痛いって言う。エイジが縛りそうになったら、それは違うよって言う」
衛二は目を閉じた。
「俺も、アストルフォの隣にいる」
「うん」
「アストルフォを守りたい。でも、守るために縛らない」
「うん」
「怖くても、命令じゃなくて名前を呼ぶ」
「うん」
「手を取ってほしい時は、聞く」
アストルフォの手が少し震えた。
「うん」
「そして、アストルフォが選んでくれたら、ちゃんと信じる」
アストルフォは衛二の胸に顔を寄せた。
「エイジ、好き」
その言葉は、今まで何度も聞いた。
でも今日は、少し違って聞こえた。
甘いだけではない。
明るいだけでもない。
選ぶという覚悟が入った「好き」だった。
衛二はアストルフォの髪を撫でる。
「俺も好きだよ」
アストルフォが小さく息を呑む。
「……名前はまだ?」
「まだ」
「うん」
「でも、逃げてない」
アストルフォは笑った。
「知ってる」
「第十五話までには」
言いかけて、衛二は少し首を傾げた。
なぜそんな言い方をしたのか、自分でも分からなかった。
アストルフォも不思議そうにしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、そこまで待つ」
「変な言い方だったな」
「でも、なんか約束みたいで好き」
衛二は少し笑った。
「じゃあ、約束だ」
「うん。約束」
二人は手を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
沈黙は怖くなかった。
手の力加減もちょうどよかった。
失うことへの恐怖は、消えたわけではない。
でも、その恐怖で相手を縛らないことはできる。
今夜、衛二はそれを学んだ。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
黒い丘の根元には、新しい芽が生まれていた。
二つの手が向かい合い、互いに触れている芽。
その周囲には、淡い桃色と蒼の光が巡っている。
失うことを恐れる願いに返されたもの。
束縛ではなく、信頼。
命令ではなく、選択。
沈黙冠は黒い丘の上で揺れていた。
問いはまた深まる。
――ならば、好きに名前をつけることを恐れる願いには、どう答える。
白い花畑の奥で、まだ咲かない蕾が震えた。
それは誰の願いか。
衛二のものか。
アストルフォのものか。
それとも、返事の庭に眠る無数の誰かのものか。
答えはまだ出ない。
けれど、桃色と蒼の光は、確かにその蕾へ届き始めていた。
コメント
1件
美月ゆめかだよ〜!!🎀✨ 第十二話、読み終えたよ…!もうね、冒頭から心臓ぎゅってなった〜😭💕 「失うことを恐れる手は、桃色の自由を握れない」ってタイトルがもうエモすぎる! アストルフォが「命令じゃなくて選ばせて」って言ったところ、めっちゃ刺さった…。 衛二くんが令呪使いそうになって、でもちゃんと止まって「手を取ってくれるか」ってお願いするシーン、最高だったよ! 「好きにも力加減がある」って言葉、ずっと覚えておきたい。 二人のちょうどいい力加減、これからも見守りたいな…!応援してるよ〜!!🌸💕
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