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ほね~
39
――千年前。
まだ人と鬼が、
同じ月を見上げて生きていたころのこと。
山は深く、
夜は今よりもっと暗かった。
人は火を恐れ、
闇を恐れ、
そして闇に棲むものを恐れた。
その中でも、
ひときわ恐れられたものがいた。
赤い眼。
黒い角。
人の形をしながら、
人ではないもの。
鬼。
その中でも、
王の血を引く大鬼は、
人の村ひとつを一晩で消すと囁かれていた。
その名を――
朱明
といった。
けれど。
千年生きた鬼は、
誰よりも知っていた。
恐れられることと、
独りであることは、
よく似ているのだと。
✿
山奥の屋敷に、
朝の薄い光が差し込んでいた。
障子は破れ、
廊下は軋み、
庭には名も知らぬ草が好き勝手に伸びている。
人が見れば、
古びた化け屋敷にしか見えないだろう。
けれど朱明にとっては、
それでよかった。
人が寄りつかない。
それだけで、
ここは心地よかった。
「……また朝か」
朱明は縁側に腰を下ろしたまま、
ぼんやりと空を見た。
長い黒髪が肩を滑り、
赤金の瞳だけが、
妙に生きているように見える。
着流しは黒。
素足。
裸足の爪だけが、
人より少し鋭い。
誰もいない山で、
誰にも会わず、
誰にも必要とされず。
そんな日々を、
もう何百年も繰り返していた。
「腹が減ったな……」
そう呟いたものの、
食べるものは何もない。
いや、
食べようと思えば山の獣くらいはいる。
だが今日は、
何となく面倒だった。
千年も生きていると、
腹が減ることすら、
時々煩わしくなる。
「……俺も、ずいぶん老けたものだ」
自嘲して、
鼻で笑う。
昔なら、
人間など見つけた瞬間に喰っていた。
泣こうが、
許しを乞おうが、
気にも留めなかった。
それなのに今は、
山に迷い込んだ旅人を見つけても、
ただ麓へ帰してやるだけだ。
鬼のくせに。
優しくなったのではない。
ただ、
誰かの恐怖の顔を見ることに、
飽きてしまっただけだ。
「つまらんな」
そう呟いた時だった。
ちゅん。
小さな鳴き声がした。
「……雀?」
視線を向ける。
庭先の石畳に、
小さな着物姿の子どもが座っていた。
「ちゅん、ちゅん」
小さな手のひらに米粒を乗せ、
何羽もの雀に囲まれている。
白茶色のふわふわした髪。
まるい頬。
小さな唇。
赤い古い着物を着た、
五つか六つほどの女の子。
雀たちは、
まるでその子が春そのものみたいに、
怖がることなく肩や膝にとまっていた。
「……は?」
朱明は、
珍しく間の抜けた声を出した。
なぜ子どもがいる。
こんな山奥に。
しかも、
いつの間に庭に入った。
結界は張っていたはずだ。
人避けの術も。
なのにその子は、
まるで最初からここにいたみたいな顔で、
雀に笑いかけている。
「おい」
低い声で呼ぶと、
少女がぱっと顔を上げた。
琥珀色の丸い瞳が、
まっすぐ朱明を見る。
普通なら。
その目を見た瞬間に、
泣く。
怯える。
逃げる。
それが人間だ。
けれど。
少女は次の瞬間、
「ぁ」
と、
小さく口を開けたあと――
「おにいしゃん!」
雀を散らしながら、
一目散にこちらへ走ってきた。
「なっ」
朱明が避ける間もなく、
小さな身体が膝に飛びつく。
「いた!」
「……は?」
「やっといた」
「何がだ」
「さがしてたの」
ことりはにこっと笑った。
まるで、
昨日も会っていたみたいな顔で。
朱明は眉をひそめる。
「お前……俺が怖くないのか」
「こわい?」
ことりはきょとんと首を傾げた。
「……おにいしゃん、きれい」
「……は?」
「おめめ、ぴかぴか」
とん、
と小さな指が、
朱明の目元に触れる。
冷たいはずの鬼の肌に、
その指先だけが妙に温かかった。
「……お前、頭がおかしいのか」
「おかしい?」
「……もういい」
朱明は小さくため息をついた。
子どもは苦手だ。
予測できない。
うるさい。
面倒だ。
なのに。
膝にくっついて離れないその小さな温度を、
どうしても振り払えなかった。
「名前は」
「ことり」
「ことり?」
「うんっ」
「どこの子だ」
「わかんない」
「親は」
「いない」
あっさり言う。
その言い方に、
妙な重さはない。
ただ事実を言っただけの顔だった。
朱明は少しだけ黙る。
「……帰る場所は」
「ない」
「…………」
「おなかすいた」
唐突だった。
朱明は思わず眉間を押さえた。
「話が飛ぶな」
「ぺこぺこ」
ことりは自分のお腹をぽんぽん叩く。
確かに、
ぐう、と小さな音がした。
「……食うものなどない」
「あるよ?」
「ない」
「あるもん」
ことりはそう言うと、
庭の石をひとつ拾った。
丸い、
ただの灰色の石。
「何をしてる」
「みてて」
ことりは石を両手で包む。
そして、
小さな声で言った。
「おいしい、おまんじゅう」
その瞬間。
ほわり、
と湯気が立った。
「…………は?」
朱明の目の前で、
灰色の石が、
ふっくら丸い饅頭に変わっていた。
白い皮。
甘い香り。
湯気まで立っている。
ことりは得意げに、
それを差し出した。
「どーぞ」
朱明は、
しばらく動けなかった。
千年生きた。
人の呪術師も、
妖も、
神も見てきた。
だが。
石を饅頭に変える子どもなど、
見たことがない。
「……お前」
「?」
「何者だ」
ことりは首を傾げる。
それから、
にこっと笑って言った。
「ことり!」
「それはもう聞いた」
「えへへ」
「褒めてない」
ことりは饅頭をぐいっと押しつける。
「たべて」
「毒だったらどうする」
「どく?」
「……いや、いい」
朱明は受け取った。
まだ温かい。
恐る恐るひとくち齧る。
「……」
甘い。
優しい甘さだった。
懐かしいような、
どこか泣きたくなる味。
「……うまい」
思わず漏れたその一言に、
ことりの顔がぱあっと明るくなる。
「ほんと?」
「……ああ」
「よかったぁ」
その顔が、
あまりにも嬉しそうで。
朱明は胸の奥が、
ほんの少しだけ、
変なふうに痛くなるのを感じた。
春の風が吹いた。
古い屋敷の縁側で。
千年独りだった鬼が、
見知らぬ幼子の作った饅頭を食べている。
そんな光景を、
もし昔の自分が見たら、
きっと笑っただろう。
――何をしている、と。
けれど今は。
悪くない、と
思ってしまった。
「ねえ」
ことりが袖を引く。
「なんだ」
「おにいしゃん」
「朱明だ」
「しゅめい」
たどたどしく、
名前を呼ぶ。
それだけで、
なぜか胸がざわつく。
「……なんだ」
ことりは、
にこっと笑って言った。
「ここ、いていい?」
朱明は、
答えられなかった。
そのひと言が。
千年の静けさを、
あまりにも簡単に壊してしまったから。
✿
その日。
鬼の屋敷に、
春がひとつ迷い込んだ。
それが、
朱明の長い孤独を終わらせることになると、
この時の彼はまだ知らなかった。
コメント
1件
桃井さくらさん、読ませていただきました…!🥀 千年前の世界観、朱明の孤独、そこにふわっと現れたことり。石を饅頭に変えるシーン、すごく不思議で優しくて、思わず「えっ」って声が出ました。鬼と幼い子の距離感が少しずつ縮まっていく感じ、心が温かくなりました。朱明の「悪くない」が染みます。次が気になります…!🌙