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結婚十五年目の今、私は三十五歳になった。慎司は四十五歳。舅は八十歳。私たち夫婦と同じで義父母も十歳差の年の差夫婦。だから姑もちょうど七十歳。
慎司は昨年四月、新世界運輸の管理課長に昇進した。舅は新世界運輸の親会社を部長職で定年退職後嘱託で働いていたが、現在は新世界運輸の役員に名を連ねている。親会社定年退職時の退職金も相当あったようだ。
だから麻生家の財政はかなり豊かになったはずなのに、私に渡す月々の生活費は以前より五万円増額しただけの二十万円。もちろん私に楽をさせるために増額してくれたわけではなくて、自分たちがもっとおいしいものを食べたいから増額してくれただけだ。
娘の凛は現在中二、中高一貫の私立お嬢様学校に通う。息子の竜也はまだ小六、勉強嫌いだからお受験には興味ない。公立中学に進学しサッカー部に入部し、部活動を頑張りたいそうだ。
もっとも、私を馬鹿にしきっている竜也がそんな真面目な話を私にするわけない。慎司に聞かれてそう答えていたのを、たまたまそばにいて聞いただけだ。
去年辺りから食卓での話題は景気のいい話が多くなった。
どうやら私が退職して数年後に新世界運輸では派閥争いが勃発したらしい。社長派と専務派に分かれ、両者は何年にも渡っていがみ合い、人事を巡って衝突した。決着が着いたのは去年。専務派が敗れ、専務派の社員は退職か降格かを選ぶよう通告され、多くの者が退職を選び社外へ去った。
それ以降、社長は専務の席を空席にし、代わりに非常勤取締役として親会社で長年部長であった舅に白羽の矢を立てた。舅は非常勤取締役就任の依頼を快諾し、月に一度程度、会社から要請された日しか出勤していないのにけっこうな役員報酬を受け取れる身分になった。
会社の取締役は全員で五人いる。まず社長、そして追放された専務の代わりに社長が送り込んだ舅、残り三人は親会社役員兼務の社外取締役。彼らは子会社の経営に原則口出ししないので、事実上会社の経営は社長の一存に委ねられることになった。
慎司が課長に昇進できたのも彼が社長派だったから。社長派の特攻隊長を自称して専務派の切り崩しに尽力し、その功績が認められての情実人事だった。課長昇進当時の慎司は家の中でもいつもドヤ顔をしていた。おれに怖いものはないと連呼していた。権力の中枢に近づいたことで役得という名の甘い汁も吸えるようになった。
慎司が浮気を始めたのもその頃だった。妻子ある男と不倫した私が夫に不倫されている。これこそ究極の因果応報。夫を責める資格が自分にあるかどうかもよく分からない。
浮気相手に満たしてもらっているからだろう。性欲のかたまりみたいだった夫が、毎日同じ部屋で寝泊まりしてるのに、一年以上私の肌に触れてこなかった。このまま長期のセックスレスに突入するのだろうかと思ったら、三日前突然私のベッドに入ってきて、荒々しく私を抱いてそして果てた。何より不思議だったのが私との行為で、そのとき初めて避妊具を用いたこと。
おかしいと思って慎司の就寝中、彼のスマホをチェックしてみた。十五年前、結婚したとき携帯電話を解約させられた。それから今までのあいだに世間ではガラケーからスマホに切り替わっていたけど、それは麻生家でも同じ。私は一度も自分のスマホを持ったことがないけど、同居する家族がみんな持っていて、彼らが操作するのをずっと見せられてきたから、使い方はだいたい分かる。
彼は私を馬鹿にしきっているから、ロックなどかけていない。私が自分のスマホを見るとは思ってないし、見られたところでお金も身寄りも度胸もない私にはどうせ何もできないと決めつけているのだ。
案の定、スマホは浮気の証拠の山だった。私との行為を動画で撮影しまくった慎司なら、きっと浮気相手にも同じことをするはずだという私の見立ては正しかった。ずいぶん若そうな女とさまざまな体位でつながるたくさんの動画がすぐに見つかった。
予想通りだったからそのことにはそれほど衝撃を受けなかった。でも浮気相手とのメッセージのやり取りを見た途端、スマホなんて見なければよかったと激しく後悔した。
しんじ 「今日のデート、ずっと楽しみにしてたのに(泣き顔のスタンプ)」
さき♪ 「ごめんね、急に彼と両家の親とで会食することになってね」
しんじ 「我慢できないから一年ぶりに嫁を抱くわ」
さき♪ 「えっ。奥さんとセックスしたらダメじゃん。沙紀だって課長に操を立てて、婚約者の童貞君に何度誘われても、結婚するまで清い関係でいましょって断ってるのに」
しんじ 「おれだってあんな色気のない、つまらない女もう抱きたくねえよ。でも自分でするよりはマシだからな」
さき♪ 「分かった。その代わり、奥さんとセックスしたら動画送って。一年ぶりに課長に抱かれて喜ぶ奥さんの間抜けな顔を見てみたい」
しんじ 「OK! それにしても沙紀は悪趣味だな。まあ、おれも人のことは言えないが」
以上が私との行為直前のやり取り。
行為直後のやり取りが次。
さき♪ 「奥さん、かわいいじゃん。体型も崩れてないし、三十五歳で子どもを二人も産んでるようには見えないよ」
しんじ 「二十五歳の沙紀と比べたら月とスッポンさ」
さき♪ 「〈慎司さん、愛してる!〉って奥さん何度も叫んでたね。奥さんが課長にレスられてたこの一年、課長は沙紀とやりまくりだったのに。さすがに罪悪感でちょっと胸が痛んだかな」
しんじ 「おれも罪悪感で胸が痛んだぜ。おれが愛してるのは沙紀だけだってのにな!(爆笑のスタンプ)」
さき♪ 「(爆笑のスタンプ)」
さき♪ 「でも奥さん必死だったよね。なんでもしますから捨てないで下さいって裸で土下座してたし。言っとくけど、沙紀はそんなこと絶対やらないからね!」
しんじ 「分かってるって。おれだって愛してる女にそんなみっともない真似させねえよ」
さき♪ 「奥さん、みじめすぎ! でもかわいそうだから季節に一回は抱いてあげて。ただ必ず避妊すること。課長がこれから避妊なしの子作りセックスしていい相手は沙紀だけなんだからね」
しんじ 「OK」
さき♪ 「ところで、沙紀の結婚祝いとしてほしいものがあるんだけど」
しんじ 「なんでも買ってやる。で、ほしいものって?」
さき♪ 「毛皮のコート。これから冬で寒くなるから」
しんじ 「ちなみにいくらくらいするの?」
さき♪ 「五十万くらい」
しんじ 「なんだ、その程度か。よし、じゃあそのコートに合ったバッグも買ってやる」
さき♪ 「うれしい! 課長、愛してる! 童貞君と結婚したあとも沙紀の一番はもちろん課長だからね。約束通り課長の子どもだって産んであげる!」
しんじ 「産むのはいいが、沙紀に子育てできるのか?」
さき♪ 「大丈夫。童貞君ママに全部任せちゃうから」
しんじ 「(爆笑のスタンプ)」
さき♪ 「(爆笑のスタンプ)」
慎司と結婚して十五年。私はいったい何を手に入れたのだろう? 家族みんなに馬鹿にされ、夫には不倫されて、愛してないからみっともないこともさせることができるなんて言われて、夫の不倫相手には夫との行為動画を見られて、かわいそうだから季節に一度は奥さんも抱いてあげてと同情されて……
私にはもったいぶって毎月二十万の生活費をくれるだけで、個人的には結婚指輪も含めて何も買ってもらった覚えなどないのに、愛人にはぽんと五十万の毛皮のコートか。その夜、いびきをかいてぐっすりと熟睡する夫の隣で私は声を押し殺してずっと泣いていた。
自分を籠の中の鳥にたとえたこともあったけど、比べれば籠の中の鳥の方がよほど幸せだろう。だって籠の中の鳥は籠を出れば自由に生きていける。
実の両親に絶縁され友達もいない、お金もスマホもない、もう十五年外で働いたこともない。そんな私が一人で生きていけるほど、外の世界は甘くない。
離婚して結婚相談所に登録して再婚相手を見つけようと考えたこともあったが、慎司は予告した通り私の交際相手の身元を調べ私の行為動画を送りつけるだろう。実際、光留は慎司に動画を見せられたショックで失踪して私の前から消えた。
籠の中の鳥は大空を思う存分に飛び回る夢を見ているかもしれないが、籠の中でしか生きていけない鳥はどうすればいいのだろう? 慎司に捨てられたくなくて、土下座しろと言われたら普通に土下座していた。慎司の浮気相手に呆れられるまで、それがどれだけ屈辱的な行為かということさえ忘れていた。馬鹿にされて這いつくばってへらへら笑い続ける人生の先に、いったいどんな希望があるのか?
怖い。籠の中にいるのも怖い。籠から出るのも怖い。死に逃げるしかないのか? それも怖い。
十一月。テレビからクリスマスソングが流れ出す頃、一人街を歩けばどこまで行っても私は一人ぼっち。気がつけばもう十五年帰っていない実家に吸い寄せられるように歩を進めていた。
バスや電車を使えば歩くより早く着くが、十五年の結婚生活で自分のためにお金を使ってはいけないという考え方が染みついていた。
今さらどの顔して両親と会えばいいのだろう? そもそも彼らは私を許してくれるのか?
実家に近づくにつれて、胸の鼓動も早くなる。会いたい! でも会ってくれるかな?
だけど期待も心配もすべて無駄だった。実家の借家が建っていた場所は更地になっていた。私に知らせずどこかへ引っ越していったらしい。私はその場で泣き崩れた。まだ流す涙が残っていたんだな、とそんなことをぼんやりと思った。
助けて! 誰か助けて!
実家のあった場所まで行ってしまった勢いで、電話ボックスに飛び込んで電話をかけた。独身時代に使っていたスマホは解約されてしまったが、電話帳のデータはノートに控えてあった。電話をかけた相手は姉の舞。私は不倫したことで姉に毛嫌いされていたけど、両親と違って姉には絶縁されていない。
姉の婚約者は後藤という男だった。そのまま結婚していれば、姉の名は後藤舞になっているはず。結婚したことを知らせてこないのだから、姉はまだ私を許す気になれないのだろうか?
繰り返す呼び出し音を聞きながら、たとえ罵倒されることになっても姉と会話したいと願った。でも姉のもしもしという声を聞いた瞬間、罵倒されずに和解したいと心から願った。
「誰ですか?」
公衆電話からかけているから、通話の相手が誰か分からないらしい。
「私です。七海です」
「七海? 生きてたんだ!」
最初の一言から全然歓迎されてないことが分かる。
「死んでた方がよかった?」
「そこまでは言わないけどさ……。で、十五年ぶりに電話してきた理由は?」
「話を聞いてほしくて」
「とりあえず言ってみな」
「実は私、結婚してからずっと同居してる義父母からいびられていて、しかも最近夫が浮気してることも分かって、居場所のないこのうちから逃げ出せるなら逃げ出したくて、こんなこと頼める立場じゃないのは分かってるけど、お父さんお母さんお姉ちゃんに力になってほしくて電話しました」
「ふうん、嫁いびりに浮気ね。でも七海、子どもがいるんじゃないの?」
「二人います」
「だよね」
しばしの沈黙ののち、姉は励ますような優しい口調で言った。
「不倫したあなたが不倫されるのは因果応報だなんて思わない。長く生活してると夫婦にはそういうときもあるんじゃないかしら? いじめられるのも浮気されるのもつらいよね。でもあなたは女である前に妻であり母親なの。かわいい子どもたちのためにも広い心で夫や義両親を許して、家族関係を再構築するのが一番いいって人生の先輩としてあたしは思うよ」
かつて私の不倫を知って汚らしいとか地獄に落ちろとか罵倒した姉だから、夫の浮気を一緒になって非難してくれるんじゃないかと期待していた。私の過去を責められたり罵倒されたりしなかったのはよかったけど、まさか夫や義父母のやったことを許せと忠告されるとは思わず、私の心はひどく混乱した。
「お姉ちゃん、アドバイスありがとう。もう一度しっかり考えてみる」
「うん。あなたも過去にいろいろあったけど、たった一人の妹だからね、あたしは姉としてあなたの幸せをずっと祈ってた。また電話して。お父さんとお母さんにも七海から電話があったことは伝えとくよ」
「さっき実家に行ったら更地になっててびっくりした。よかった。お姉ちゃん、お父さんたちの居場所知ってるんだね」
「知ってるも何も、あたしたち夫婦と同居してるんだよ。七海を許してあげてってあたしからも頼んであげる。だからあなたも旦那さんたちを許してあげなさいね」
「ありがとう……」
それから二つ三つやり取りして電話を切った。姉は家族なのだから夫たちを許してあげなさいと言うだけで、逃げてきなさいとは結局言ってくれなかった。でも姉はそれが私のためだと思ってそう言ってくれたわけだ。第三者から見ればきっとそれが正しい答えなのだろう。
私一人我慢すれば丸く収まるのなら――
肩を落として家路についたけど、途中で足がすくんでまた違う方向に歩を進めた。ただしそこには一度しか行ったことがない。しかも十五年も前にたった一度だけ。彼女の助けを期待することは絶縁された両親の助けを期待することよりありえないことなのは分かっている。でもそのときの私はどんなわらでもつかまずにいられないほど追いつめられていた。
前に来たときは新築直後で、とてもきれいだという印象を持ったのを覚えている。それから十五年経っているから、さすがにアパートはそれなりに古びて見える。ただこまめに修繕されているらしく、外壁などは十五年前よりつやつやと光っている。
あれから十五年。慎司と同い年の香菜さんは四十五歳、春ちゃんは十八歳になっているはずだ。
アパートの二階の一番奥の部屋の表札は〈菊池〉。香菜さんが慎司と離婚して戻った旧姓と同じ。ありふれた名字ではあるが、香菜さん春ちゃん母子が転居したあと赤の他人の菊池さんが入居したなんてことはまさかあるまい。
と思っていたから、うちの竜也くらいの男の子が私のあとから階段を上がってきて、その部屋に向かってきたのを見て、絶望的な気分になった。
「うちに何か用ですか?」
「ごめんなさい。人に会いに来たのだけど、その人もうここに住んでないみたいだから引き上げます」
「もしかして麻生七海さんですか?」
突然知らない子に名前を呼ばれ息をのんだ。
「そうだけど、あなたは香菜さんと春ちゃんのお知り合い?」
「香菜は僕の母で、春は僕の姉です。いつかきっとあなたがうちに来るだろうから、そのときは引き止めて失礼ないようにもてなしなさいと母から言われてました」
どういうことだろう? と不思議に思ったが、よく考えたら不思議でもなんでもなかった。不倫略奪婚したせいで実家から絶縁され友達もみんな離れていった私が次に頼る相手は自分くらいのものだろう、と香菜さんはこうなることを冷静に予期していたのだ。
それにしても、背格好は竜也と同じくらいだけど、なんてしっかりした子だろうと思わずため息が漏れた。竜也を実際に育てているのは私でなく姑。学校で三者面談があっても、保護者として出席するは私でなく姑。ふだん私の前で偉そうにしていても、香菜さんの子育てのうまさに足元にも及ばないじゃないか、と少し胸がすっとする思いがした。
春ちゃんの弟の名は陸。香菜さんと春ちゃんが帰ってくるまで、お言葉に甘えて部屋の中で待たせてもらうことにした。
香菜さん手作りのジュースが冷蔵庫に冷やしてあって、十五年ぶりに飲んだらなんだか涙が出てきた。十五年前と同じ味。一方、そのあいだに私はずいぶん劣化してしまった。そういえば十五年前も泣きながらそれを飲んだ覚えがある。不倫略奪婚した私を責めるどころか、自家製の生ジュースまで出てきて、香菜さんの優しさが私の涙腺を崩壊させたのだ。
陸君の父親が慎司とは別の男性だということだけはまず確認させてもらった。香菜さんはその恋人とずっと交際を続けてはいるけど、結婚までする気はないそうだ。
香菜さんは仕事だけど、私が訪ねてきたことを陸君がSNSで伝えたら、早めに帰ると返事があったそうだ。それは現在高校三年生の春ちゃんも同じ。いつもなら放課後は何時間か部活動をしてから帰ってくるそうだけど、今日は今すぐ帰ると返事が来たそうだ。
今まで全然時間を気にしていなかった。部屋の掛け時計を見ると、もうすぐ午後四時といったところ。以前買い物が長引いて、少し帰りが遅くなっただけで、姑に罵倒されたことがあったのを思い出した。
「こんな時間までどこをふらふらほっつき歩いてた? まさか男じゃないだろうね。この淫乱!」
浮気してるのはあなたの息子の方ですよ。などとは無論言えない。言ったところで信じてもらえないし、そうかといって否定できない証拠を示したところで、私が嫁として至らないから浮気されるんだと逆に責められるだけだろう。
「私は浮気なんてしてません」
「妻子ある男をたぶらかして結婚まで持ち込んだ、女狐みたいなあんたなんて信用できるかい!」
私が女狐ならこれだけ好き放題に嫁いびりされることもなかったのに。女狐になった自分を空想して、心の中でふふっと笑いがこぼれた。そんなことお構いなしに姑はいつまでも私を罵倒し続けた――
「七海さん、どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
陸君に顔をのぞき込まれてるのに気づいて、ハッとわれに返った。
「ごめんなさい。遅くなると怒られるから」
「気にするな、気にするな。どうせあの性悪ばばあに嫁いびりされてるんでしょ? 今までやられた分を百倍返ししてやろうよ」
そう言いながら香菜さんがリビングに入ってきた。春ちゃんとおぼしきブレザー姿の女子高生といっしょに。一気に部屋の中が華やいだ。リビングの片隅には大きなクリスマスツリー。わが家と違って菊池家は仲良く暮らしているようだ。いや、麻生家も仲の良さなら負けてないか。私以外という条件付きだけど――
もともと活発そうな人だったけど、香菜さんは何も変わっていないようだ。一方、春ちゃんはお母さん似の美人。父親を奪った女だということで私を恨んでないだろうか?
「七海さん、久しぶり。いつかきっと七海さんが私を頼ってくると思って、引っ越さずにずっとこのアパートで待っていたんだよ」
「香菜さん、お久しぶりです。あなたを頼れる立場じゃないのは分かってますが、ほかに頼れる人もいなくて図々しく突然伺ってしまいました」
私は立ち上がり母子に深々と頭を下げた。
「そういうのはいらないから。さっきも言ったけど、私はあなたがうちに来るのをずっと待ってた。二、三年で来ると思ってたら十五年も耐えたの? 七海さん、めっちゃ我慢強いね」
「どうして私が来るのをずっと待っててくれたんですか?」
「決まってる」
七海さんは得意満面の笑顔。
「あいつらに復讐するためだよ。不倫された慰謝料はもらったけど、地獄を見せられた五年間の結婚生活の償いはもちろんそれとは別。あいつら全員私が味わった以上の生き地獄に絶対突き落としてやるんだ」
「私ごと復讐すればよかったんじゃないですか」
「そうはいかないよ。かつてはあなたを恨んだこともあったけど、今は麻生家被害者の会の同志としか思ってない。被害者の会の会員はもう一人いてね、その人は陸の父親でもあるんだけどさ、その人も七海さんがこっち側に来るまで復讐は待とうって言うからずっと待ってたんだ」
「私は復讐とかよく分かりません。ただもう限界なんです。あの家から逃げたいんです。私に夫を奪われた香菜さんにこんなこと頼める立場じゃないのは分かってますが、お願いします。私をここに匿って下さい」
「それはできない。あなたは逃げちゃいけないの!」
いきなり拒絶されて頭の中が真っ白になった。今までの話の流れなら断られることはないと思ってた。きっと私が甘かったんだ。姉の言うように私は女である前に妻であり母親。家族を捨てて家を出るなんて軽々しく言ってはいけなかったんだ――
と胸が苦しくなったけど、香菜さんは私の肩にぽんと手を置いて優しく言った。
「逃げたら復讐されて苦しむあいつらの姿を見られないんだよ。七海さんにはあいつらのそばにいて必死に土下座するあいつらの頭を笑いながら踏んづけてほしいんだ」
「復讐できたら爽快だろうなって私も思います。でもあの人たちにはお金も力もありますよ。今じゃ会社の中で慎司や舅に逆らう者はいないそうです。復讐するって簡単に言いますけど、そんなに簡単に成功するとは信じられません」
「それなら大丈夫。復讐するのはこれからだけど、準備はこれまでの十五年でほぼ終わってるから。たとえばこれ」
香菜さんがリビングのテーブルの上にばらまいたたくさんの写真。それは慎司が若い女と浮気してる証拠写真の数々。ホテルのインアウトのツーショットはもちろん、車内で行為している姿まで撮影されていた。
「女は稲村沙紀、二十五歳。慎司の部下。というかフリーターでパパ活してた沙紀を慎司が金の力で口説き落として、会社にコネ入社させて自分の部下にした。確かにあの男、やりたい放題やってるみたいね。今まで調子に乗ってた分、これからの地獄はなおさらつらく感じるだろうけど、まあ自業自得よね」
そこで香菜さんがあっと叫んだ。
「やっちゃった! いきなりあいつが浮気してるって知らされてショックだったよね。なるべく七海さんがショックを受けないように慎重に教えてあげようって思ってたのに、私としたことが七海さんと再会できて気持ちが舞い上がってたみたい。本当にごめんなさい」
「慎司が浮気してることなら知ってました。私が色気のないつまらない女だって浮気相手と馬鹿にし合ってたSNSのトーク画面も見てますから」
「ほかにどんな会話してた?」
「彼女はもうすぐ別の男性と結婚するみたいで、慎司と子作りしてできた子どもを結婚相手の母親に育てさせるって言ってました」
「ねえ。その画面スマホで撮影できない?」
「私、スマホを持たせてもらえないんです」
「これあげる。スマホ持ってることあいつらにバレないように、ふだんサイレントにしてるといいよ」
間髪入れずに自分が使ってる小さなスマホを手渡してきた。
「でもこれ香菜さんのですよね。ないと困るんじゃ……」
「新しいの買うからいいよ。それに見られて困るデータも入ってないしね」
「それに自由にできるお金がないので、スマホ代も通信料も払えません」
「お金なんていらないよ」
「でも……」
ふうっと長いため息をつかれた。なんか変なこと言っただろうか? 同居家族以外と話すことがめったにないから、よく分からない。
「七海さん、鬼畜一家に長年虐げられてきて、プライドとか自己肯定感というものが壊されちゃったみたいね。今どきお金やスマホを与えられないのは経済DVだよ。どうしても私にお金を渡したいなら、あいつら一家に慰謝料を払わせてからの後払いでいい。お金より七海さんに必要なのは心のリハビリかもね。私とかうちの子どもたちでよければ、七海さんのリハビリにいくらでもつきあってあげるよ」
「そんなの申し訳ないです」
「何が申し訳ないの?」
「だって、みなさんきっと忙しいのに、私なんかのために時間と労力を使わせるわけには……」
香菜さんの言うように私の心は壊れてるのだろうか? デモデモダッテ。さっきから口から出る言葉は何もしない、何もできないことの言い訳ばかりだ。
「あの、さっき慰謝料って言ってましたよね? 私、確かにもうあの家には帰りたくないですけど、離婚までは考えてなくて……。それに子どもたちを捨てるなんて母親として間違っていませんか?」
「私、知ってるよ。その子たちはふだんあなたのことなんて呼んでるの?」
「くそばばあって……。死ねともしょっちゅう言われてます」
「しかもその子たちが姑と一緒になってあなたを馬鹿にして無視してることも知ってる。向こうがあなたを母親として尊重しようとしないのに、七海さんが向こうを子どもだからと一方的に尊重する必要があるの?」
「でも……」
またデモデモダッテが出てしまった。そう。なるべく考えないようにしてたけど、私はあの子たちが嫌いだ。それでも母親だから仕方ないと自分に言い聞かせて耐えてきたのだ。
「朱に交われば赤くなるって言うよね。あの子たちは見た目はかわいく見えるかもしれないけど、中身は慎司や義父母と同類の怪物なの。もしかしたら今まで言うことを聞いてた慎司や義父母が私たちに復讐されてみっともなくのたうち回るのを見て、やっと目を覚ますかもね」
そのとき突如、十五年前に慎司に昏睡レイプされて以来の苦難と屈辱のシーンが次々にフラッシュバックして、涙が出てきて止まらなくなった。どうして被害者の私ばかりが涙を流し続けてきたのだろう? 私が流した涙の十分の一でもあの人たちに流してもらわなければ、私も前に進めない。復讐するためにはあの人たちと戦って勝たなければならない。今まで負けてばかりだった私にそれができるだろうか?
キャパオーバーで何も考えられなくなってしまった。話を聞けば聞くほど香菜さんの言い分の方が正しいと思える。ただ私には一歩踏み出す勇気がなかった。その勇気を与えたのは香菜さんの子どもたちだった。
「七海さんはもう十分頑張ったよ。これ以上あんな人たちに縛られて、幸せになるのを遅らせたらダメだよ」
と春ちゃん。
「七海さんはもう一人じゃない。一緒に戦おうよ。僕たちは絶対あなたを見捨てないから」
と陸君。
自分の子どもたちによって奪われた勇気を、香菜さんの子どもたちから分けてもらった。私は決めた。妻であることも母であることも捨てて、私は私の人生を取り戻す。そのためにまず私の人生の前に立ちはだかる障害物でしかない麻生家の人々に復讐し排除する。香菜さん親子と一緒に!
「もう迷わない。私も一緒に戦います」
「その言葉を待ってたよ」
香菜さんの顔が紅潮している。きっと私の顔も負けずに紅潮していることだろう。春ちゃんは拍手して、陸君が雄叫びをあげる。
「じゃあ七海さん、素知らぬ顔で帰るといいよ。これから麻生家にいろんな災いが一気に襲ってくると思うけど、一緒になって困りきった振りして心の中であかんべえしてやりな」
「そうします」
「それから、十五年前に渡したお守りは持ってる?」
「今もここに」
スカートのポケットからそれを出して見せると、
「合格」
と香菜さんは指でマルを作って見せた。