帰宅すると午後七時を過ぎていた。また家族全員から罵倒されるんだろうなと覚悟していたが、姑は電話機にかじりつきで帰ってきた私を見ても一瞥もしない。もう何時間も前から同じ相手と話をしてる、というか口論してるらしい。
「子どものケンカに親が出るなんて、相手さん頭がおかしいんじゃないですか?」
「いじめ? そんなものどこに行ったって多かれ少なかれあるもんでしょ。その程度のことでいちいち電話しないでもらえますか?」
「被害者の証言? そんなもの当てになるもんですか!」
姑の暴論はいつもどおりだけど、いじめがどこに行ってもあるというのだけは事実だ。現に私はこの家で苛酷ないじめに遭っている。あなたたちによって。
通話の相手は竜也の小学校の担任らしい。また竜也がクラスメートに暴力を振るって、相手の親を巻き込んでもめているらしい。被害者の子には申し訳ないが、おかげで遅い帰宅を姑にとがめられずに済んだ。
当の竜也はすべて姑に任せて他人事のような顔をして、夕食を作れと凛と一緒に催促してきた。私の帰りが遅いときくらい自分たちでなんとかすればいいのに。
香菜さんと春ちゃんが帰る前に陸君に聞いたが、菊池家は食事作りを輪番制でやっているそうだ。竜也と陸君を比べると、年は同じなのに生活力という点では雲泥の差。年が違う凛と春ちゃんなら、なおさら比較にもならない。
猫のミケはリビングのエサ皿の前でおとなしく待っている。凛と竜也は猫にも劣る。
慎司は残業なのか沙紀と会ってるのかどちらか知らないが、まだ帰宅していない。会っていても悲しくはない。もう夫に抱かれたいと思わないから、そっちで性欲を解消してくれるなら私にとっても都合がいい。
舅は姑の長電話と私の帰りが遅いのに嫌気が差して、一人でどこかに行ってしまったそうだ。
冷静に眺めれば、麻生家はすでに一家バラバラだった。そして彼らへの復讐は私の知らないうちに翌日にはもう始まっていた。最初に標的にされたのは、今日も問題を起こした乱暴者の竜也だった。
翌日、学校から帰ってきた竜也は見るからに憔悴していた。その翌日、竜也はさらに憔悴しきった顔で帰ってきて、凛や姑に心配されていた。さらにその翌日、竜也はとうとう姑に泣きついた。
「実はおれ、いじめられてるんだ」
乱暴者で今まで同級生を何人も泣かせてきた竜也が逆にいじめに遭ってる? 耳を疑ったが、泣きじゃくっているから嘘ではないようだ。
怒り狂った姑は学校に電話して担任に怒鳴りつけた。
「うちの竜也をいじめてるクソガキの親を今すぐうちに謝罪に来させなさい!」
子どものケンカに親が出るなんて頭おかしいとか言ってませんでしたか?
「いじめは社会的な大問題ですよ!」
いじめなんてどこにでもあるんだからその程度のことでいちいち電話してくるなって言ってませんでしたか?
「向こうの言い分なんて知るもんですか。被害者がいじめだと言えばいじめなの!」
被害者の証言なんて当てにならないって言ってませんでしたか?
結局三時間以上わめきちらした挙げ句、姑は受話器を電話機に叩きつけた。おもしろいから家事をしてる振りしてずっと見ていた。姑は怒ったままで、竜也はまだ泣きじゃくっていたから何も解決しなかったのだろう。
その夜、香菜さんから借りたスマホに陸君からメッセージが届いた。私は〈菊池さんち〉というLINEグループに入れてもらっている。ちなみに、麻生家も家族でLINEグループを作っているが、スマホを持たしてもらえなかった私には関係ない話だった。
《七海さん、こんばんは。クラスは違うけど同じ学年に麻生竜也がいるから現在絶賛攻撃中です》
〈いじめっ子の竜也が逆にいじめられてるみたいね。信じられない。どうやったの?〉
《思ったより簡単でしたよ。竜也のクラスに僕の友達が何人かいるから、みんなでシカトするように頼んだら、あいつふだんの行いが悪くて嫌われてるから、みんな喜んでやってくれました。休み時間になると教室にあいつ一人残してクラス全員でいなくなるんです。休み時間ごとにあいつだけ教室にぽつんと残される。授業で二人ペアを作るときも三人以上でグループを作るときも、必ずあいつだけ余る。今日の給食であいつみそ汁をよそう係だったんだけど、みんな今日はみそ汁を飲みたい気分じゃないと言い出して、先生以外誰もあいつの前に並ばない》
そこで陸君は二枚の画像を投稿した。一枚は休み時間中だろう。竜也が広い教室で一人ぽつんと自分の席に座っている写真。もう一枚は給食中。みそ汁の鍋の前でおたまを手に持ったまま、泣き笑いの表情で一人ぼっちで立ち尽くしている。なんか記憶にあるシーンだなと思ったら、麻生家での私の姿とダブって見えたのだった。竜也、あなたは一人ぼっちになってこの三日間つらかったかもしれないけど、お母さんはその気持ちをもう十五年も味わってきたんだよ。
《ああいう乱暴なだけで脳みそ足りないタイプは一番扱いやすいですね。竜也への攻撃を続けてもいいですか?》
母親の私が、実の息子が激しいいじめに遭って喜んでいる。私の心は壊れてしまったのだろう。いや、この際、私の心だけでなくすべてを壊すことにしよう。私は間髪入れずに返事した。
〈続けて、徹底的に!〉
了解しましたという返事がかわいいスタンプで届いた。竜也が学校に行けなくなったのはそれからちょうど一週間後のことだった。
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