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薄暗い医療区画に、機械音だけが静かに響いていた。
簡易ながらも整えられたベッドの横で、レイラは一人、陽菜を見つめていた。
包帯に覆われた身体。
点滴の管。
規則正しく上下する胸だけが、彼女がまだこの世界に留まっている証だった。
レイラは無言で椅子に腰掛け、背筋を伸ばしたまま動かない。
戦場では感情を切り捨てるように生きてきた彼女だが、今はそれが出来なかった。
(……生きている)
それだけで十分だったはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
史奈と交代する時間まで、まだ少しある。
レイラは陽菜の顔に視線を落とした。
長い髪は丁寧に洗われ、結ばれている。
史奈が看病した痕跡が、そこかしこに残っていた。
その時だった。
かすかに、指先が動いた。
レイラは一瞬、呼吸を忘れる。
次の瞬間、陽菜の喉が小さく鳴り、薄く閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いた。
「……?」
焦点の合わない目が、天井をさまよい、やがてレイラの顔で止まる。
陽菜の喉が、もう一度鳴った。
「……だ、れ……?」
弱々しい声。
それでも確かに、生きた声だった。
レイラはすぐに立ち上がり、ベッドの横に近づく。
驚かせないよう、声のトーンを落とした。
「大丈夫。敵じゃない」
陽菜の目が、わずかに見開かれる。
知らない顔。知らない声。
身体は動かず、記憶も曖昧だ。
「……ここは……?」
「安全な場所。もう、撃たれない」
レイラはそう言って、そっと陽菜の手を握った。
包帯越しでも、体温が伝わってくる。
陽菜の指が、反射的にわずかに握り返した。
「……ごめん……」
「謝らなくていい」
短く、しかしはっきりと答える。
陽菜は、レイラの顔をじっと見つめた。
視線が揺れる。
「マリア……?」
その名前が零れ落ちた瞬間、レイラの胸が強く締め付けられる。
陽菜は混乱していた。
だが、その目に映っているのは“過去”だ。
レイラは否定しなかった。
ただ、少しだけ首を振る。
「違う。でも……似てるって、よく言われる」
陽菜は、安心したように、ほんの少し微笑んだ。
「うん…似てる……」
その笑みは、あまりにも弱く、儚い。
それでも、レイラは離さなかった。
「大丈夫。ここにいる」
レイラはそう言いながら、陽菜の手を包み込むように握る。
まるで、嵐の中で誰かを繋ぎ止めるように。
陽菜の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「…史奈は…?」
「すぐ来る。今は休め」
陽菜は、ゆっくりと瞬きをした。
「ありがとう……」
その言葉を最後に、再び意識が深い眠りへと沈んでいく。
レイラは、しばらくそのまま動かなかった。
(マリア……)
心の中で、その名を呼ぶ。
そして、今ここにいる命を、静かに見守る。
扉の向こうで足音がする。
史奈が戻ってきたのだろう。
レイラは立ち上がり、最後にもう一度、陽菜の顔を見る。
「…生きてる」
それは報告であり、祈りだった。
そして、戦場を生き抜いてきた二人の女は、
今度は“守るための時間”を、交代で受け継いでいく。
静かな部屋に、確かな命の鼓動だけが、続いていた。
三日後――。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、病室の空気を柔らかく照らしていた。
消毒薬の匂いはまだ残っているが、死の気配はもうない。
ベッドの上で、陽菜がゆっくりと上体を起こす。
「…っ」
わずかな動きだけで、全身が悲鳴を上げた。
それでも、確かに“起き上がった”。
「陽菜…!」
史奈が思わず駆け寄る。
レイラも一歩遅れて近付き、無言で頷いた。
「起きられるまで回復したんだ…」
史奈の声は震えていた。
喜びと、まだ消えない恐怖が入り混じっている。
陽菜は浅く呼吸をしながら、二人を見上げた。
その目は、以前よりもどこか遠くを見ている。
「…ありがとう」
その声に、史奈は一瞬、違和感を覚えた。
低い。
だが―
「…あたし、まだ生きてる?」
史奈の表情が固まる。
「…え?」
レイラも、わずかに目を見開いた。
陽菜は自分の喉に手を当て、確かめるように呟く。
「俺…じゃない。
あたし…だ」
史奈は言葉を失った。
「陽菜。」
「ああ。
もう、戻れない気がする」
その声は淡々としていたが、内側に深い傷を抱えているのが分かる。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、陽菜は天井を見つめたまま、ゆっくりと語り始めた。
「……マリアが、最後に言ったんだ」
史奈の胸が締め付けられる。
レイラは無言のまま、ベッドの脇に立ち続けた。
「“陽菜、生きて”って。
それだけ言って…あたしを庇ったの…」
陽菜の指が、シーツを強く握る。
「撃たれて、倒れて…痛かっただろうに…
それでも、笑ってた」
声が震え始める。
「血だらけで…拷問されて…それでも…」
突然、陽菜の呼吸が乱れた。
「っ……は……はっ……」
胸を押さえ、浅く、速い呼吸。
目が見開かれ、焦点が定まらない。
「陽菜!」
史奈が慌てて肩を支える。
「大丈夫、見て、ここ……」
史奈は自分の呼吸を意識的にゆっくりし、陽菜に合わせる。
「吸って……吐いて…」
だが、過呼吸は止まらない。
レイラが静かに前に出て、陽菜の手を取った。
冷たくも、確かな温もり。
「…ここにいる」
低く、落ち着いた声。
「あなたは、一人じゃない」
陽菜の視線が、レイラに向く。
その輪郭、その佇まい。
――似ている。
一瞬、マリアの影が重なった。
「マリア……?」
レイラは首を振らず、ただ強く手を握った。
「違う。
でも…守る」
その短い言葉が、陽菜の混乱を少しずつ鎮めていく。
呼吸が、徐々に落ち着く。
「…ごめん」
陽菜は、かすれた声で言った。
史奈は首を振る。
「謝るな。
生きててくれた、それだけでいい」
陽菜の目から、静かに涙が流れた。
「……あたし、強いと思ってた。
一人で、何でも出来るって」
少し間を置いて、続ける。
「でも……違った。
マリアがいて…
史奈がいて…
今は…レイラちゃんもいて」
レイラは何も言わない。
だが、その手は離さない。
「…怖かった」
その一言に、史奈の胸が詰まる。
「もう…誰も失いたくない」
史奈は陽菜の額に頬、そっと手を置いた。
「大丈夫。
今度は、あたしたちが守る」
陽菜は目を閉じ、深く息を吸った。
ベッドの上で、三人の影が重なっている。
失われたものは戻らない。
だが――生きている者は、前に進める。
その朝、病室には
静かで、確かな“再生”の気配が満ちていた。
静かな病室には、機械の規則正しい音と、外から差し込む柔らかな光だけがあった。
砂漠の戦場とは別世界のような、張りつめながらも穏やかな空間。
陽菜はベッドに横たわり、薄く目を閉じたまま、浅く呼吸をしている。
身体はまだ自由に動かせない
。
指先―正確には、爪のあった場所には新しい包帯が巻かれ、じわりと血が滲んでいる。
全身の傷は縫合され、火傷も処置されているが、痛みは常に鈍く、そして確かに存在していた。
「…ん。」
かすかな声に、すぐ反応したのは史奈だった。
ベッド脇の椅子から立ち上がり、陽菜の顔を覗き込む。
「陽菜、大丈夫? 無理しなくていい、ゆっくりで」
陽菜はゆっくりと目を開ける。焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「あたし…まだ、生きてるんだ…」
一人称が自然に「あたし」になっていることに、史奈は一瞬だけ驚いたが、何も言わなかった。
ただ、そっと微笑んだ。
「うん。生きてる。ちゃんと、ここにいる」
その言葉に、陽菜の目尻から一筋、涙がこぼれた。
看病は三交替だった。
史奈、レイラ、皇輝―
誰か一人が必ずそばにいるようにしていた。
レイラは多くを語らない。
ただ、陽菜の包帯を確認し、水を飲ませ、夜には静かに手を握る。
その存在感は、不思議と安心感があった。
「…レイラちゃん」
陽菜がそう呼ぶと、レイラは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「うん。ここにいる」
その声は低く、優しかった。
陽菜は、無意識のうちにマリアの面影を重ねていた。
強く、静かで、命を守る人の背中。
そして、皇輝の番になると、陽菜はどこか居心地悪そうに視線を逸らした。
「…皇輝君」
「はい。起きてて平気ですか?」
皇輝は丁寧に椅子を寄せ、必要以上に近づかない距離を保った。
水を差し出し、タオルを湿らせ、陽菜の額や頬をそっと拭く。
その動作は真剣で、誠実だった。
しばらく沈黙が続いたあと、陽菜が小さく口を開いた。
「…ごめんね」
皇輝は手を止めた。
「え?」
「おばさんで…こんな身体で…見たくもないもの、いっぱい見せちゃった」
声が震える。自己嫌悪と、恥と、申し訳なさが混ざった声。
皇輝は一瞬、言葉を失った。
だがすぐに、はっきりとした口調で言った。
「そんなふうに思わないでください」
陽菜が顔を上げる。
「陽菜さんは…生き延びた人です。それだけで、十分すぎるほど、尊敬しますよ。」
まっすぐな視線。
取り繕いのない言葉。
皇輝の頬はわずかに赤くなっていた。
「それに…見たくないなんて、一度も思いませんでしたよ」
陽菜は目を見開き、次の瞬間、泣き笑いのような表情になった。
「…優しいのね、皇輝君」
皇輝は何も言わず、ただ微笑んだ。
その夜、史奈が交代に戻ってきたとき、皇輝は廊下で立ち止まったまま、病室の扉を振り返っていた。
(この人を……守りたい)
戦場で人を救うという感覚とは違う、胸の奥が静かに熱くなる想い。
それが「惚れる」という感情だと気づくのに、時間はかからなかった。
病室では、陽菜が浅い眠りにつき、史奈とレイラが左右に座っている。
「…少しずつ、戻ってきてるね」
史奈の言葉に、レイラは小さく頷いた。
「身体も、心も。時間はかかる。でも…一人じゃない」
その言葉通りだった。
血が滲み、痛みが消えない夜も、
悪夢にうなされる瞬間も、
陽菜のそばには、必ず誰かがいた。
戦場で壊されたものは多い。
けれど――
それでも、人はもう一度、立ち上がることができる。
陽菜は、静かな呼吸の中で、確かに生きていた。
病室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
外の砂嵐の名残を含んだ風が、換気口を通って微かに鳴る。
だが、ここはもう戦場ではない。
陽菜は簡易ベッドの上で、上半身を起こし、白い包帯だらけの指先をじっと見つめていた。
爪はまだ戻らない。
滲む血と鈍い痛みが、現実を否応なく思い出させる。
「はぁ……」
小さく息を吐いた瞬間、扉がノックされる。
「陽菜さん、失礼します」
皇輝だった。
手には小さなナイフと、真っ赤なリンゴ。
「座っても大丈夫?」
「あ、うん…皇輝君」
陽菜は少しだけ微笑んだ。
その笑顔は、以前の鋭さを失い、どこか儚い。
皇輝は椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰を下ろす。
リンゴを膝に置き、ゆっくりと皮を剥き始めた。
シャリ……
シャリ……
一定のリズムで、赤い皮が途切れずに落ちていく。
「…上手だね」
「え? あ、基地だと、よく剥かされるんです。先輩に」
照れたように皇輝は笑った。
陽菜はその横顔を見て、少しだけ胸が締め付けられる。
この青年は、戦場に染まりきっていない。
それなのに、自分は—
「…ごめんね」
唐突な言葉に、皇輝の手が止まる。
「何が、ですか?」
「あたし、おばさんでしょ。
それなのに、ひどい姿、いっぱい見せちゃって…。」
陽菜の声は、かすかに震えていた。
皇輝は一瞬言葉を失い、それから静かに首を振る。
「そんなこと、思ったことありません」
「……」
「生きててくれて、それだけで十分です。
それに…。」
皇輝は剥き終えたリンゴを一口大に切り、フォークに刺して差し出す。
「陽菜さん、すごく強い人だと思います」
陽菜は少し驚いたように目を見開き、
それから、ゆっくりと口を開けた。
「…あーん」
リンゴの甘さが、口いっぱいに広がる。
「うん…美味しい」
久しぶりに、心からの笑顔が浮かんだ。
その瞬間、皇輝の胸が強く脈打つ。
(うう…やばい)
顔が熱くなるのを自覚し、慌てて視線を逸らす。
「ど、どうですか? 酸っぱくないですか?」
「ううん。ちょうどいい」
陽菜は柔らかく笑い、フォークを受け取ろうとして、包帯だらけの手を止めた。
「あ…ごめん、まだ力入らなくて」
「大丈夫です。俺がやります」
皇輝はそう言って、もう一切れ差し出した。
その様子を、病室の外から静かに見ている二つの影があった。
史奈とレイラだ。
「…皇輝、完全に落ちてるわね」
史奈が小声で言う。
レイラは無言のまま、ほんのわずかに微笑んだ。
「陽菜、いい顔してる」
「うん…」
史奈は胸の奥に、安堵と、少しの切なさを感じていた。
傷はまだ深い。
身体も、心も。
それでも——
こうして誰かがリンゴを剥き、
笑顔が戻る時間がある。
それは確かに、戦場の先にある“生”だった。
病室の中で、陽菜はもう一度リンゴを噛みしめながら思う。
(あたし、まだ生きてる)
その事実が、今はただ、温かかった。
静かな昼下がりだった。
簡易基地の一室、薄いカーテン越しに差し込む光が、ベッドに横たわる陽菜の顔を淡く照らしている。
市場へ買い出しに出た皇輝の足音が消えてから、室内には史奈と陽菜、二人きりの静寂が流れていた。
史奈は椅子を引き寄せ、陽菜の傍に腰を下ろす。
包帯に覆われた身体はまだ痛々しく、指先―爪を失ったその手は、わずかに震えている。
「…無理しないで。今日は調子どう?」
史奈の声は、戦場でのそれとはまるで違った。銃声も怒号もない、柔らかく抑えた声。
陽菜はゆっくりと目を開き、史奈を見る。
「あたし…まだ、全身がズキズキする。でも…生きてるって実感は、ちゃんとある」
史奈は小さく頷いた。
その言葉を聞けただけで、胸の奥に溜まっていた重たいものが少しだけ軽くなる。
史奈は立ち上がり、壁際に立て掛けてあった布に包まれた一本を手に取る。
丁寧に包みを解くと、現れたのは、使い込まれたM45A1。
グリップの擦れ、スライドに刻まれた細かな傷――それはマリアが最後まで手放さなかった銃だった。
史奈はそれを両手で持ち、陽菜の視線の高さにそっと差し出す。
「…マリアが遺したもの。レイラが遺骨と一緒に持ち帰ってくれた」
陽菜の瞳が、わずかに揺れる。息を呑み、しばらくその銃を見つめたまま、言葉を失っていた。
「あたし…受け取れない」
かすれた声だったが、はっきりとした拒絶だった。
史奈は驚いたように目を見開く。
「陽菜……?」
陽菜はゆっくり首を横に振る。
「これは…戦う人の銃だよ。マリアの覚悟そのもの。あたし…もう、そこに戻るつもりはない」
史奈は黙って耳を傾ける。
陽菜は天井を見上げるように視線を逸らし、言葉を選ぶように続けた。
「あたしね…もう普通の女の子に戻ろうって決めた。いや、おばさんかもしれないけどさ」
自嘲気味に、ほんの一瞬だけ笑う。
「でも…一人はもう、耐えられなくなった。誰かと話して、誰かの隣で眠って、恋もして…それで生きていきたい」
史奈の胸に、静かな衝撃が走った。
戦場で、幾度となく死線を越えてきた陽菜。
その彼女が、銃を置く決断をした。
その重さが、史奈には痛いほど分かる。
「…それでもいい。いや、それがいい」
史奈はゆっくりと銃を下ろし、再び布で包んだ。
「マリアも、きっとそれを望む」
陽菜の目に、うっすらと涙が滲む。
「ありがとう、史奈…」
史奈は立ち上がり、陽菜の額に手を当てる。
熱はなく、呼吸も落ち着いている。
「今は、回復することだけ考えて。戦場のことは…もう、背負わなくていい」
その時、外から足音が聞こえた。市場から戻ってきた皇輝の気配だ。
陽菜は小さく息を吸い、史奈を見て微笑んだ。
「…皇輝君が戻る前に言えてよかった」
史奈は頷き、静かに部屋の扉へ向かう。
戦場で交わされた絆は、銃や血だけではない。
生きることを選ぶ、その決意もまた、確かな強さなのだと、史奈は噛みしめていた。
扉の向こうで、皇輝の声がする。
「ただいま……!」
史奈は振り返らず、そっと微笑んだ。
この部屋にはもう、死の匂いだけではない、確かな“未来”が宿り始めていた。
夕暮れの光が、簡易基地の壁を赤く染めていた。
病室の外に設けられた簡易調理スペースで、皇輝は鍋を火にかけていた。
砂漠の冷え始めた空気の中、湯気と一緒に立ち上る甘辛い匂い――醤油と砂糖、肉とじゃがいもが混ざった、どこか懐かしい香り。
その匂いは、壁一枚隔てた病室まで確かに届いていた。
「…肉じゃがだ」
ベッドに横たわる陽菜が、ぽつりと呟く。
史奈はその声に気づき、陽菜の顔を見る。
痛みで青白かった頬に、ほんのわずかながら血の気が戻り、唇が柔らかくほころんでいた。
「分かるんだ」
「分かるよ。あたしの母さんが、よく作ってくれたから」
陽菜は天井を見つめたまま、遠い記憶をたどるように続ける。
「任務で帰れなかった日も、怪我して帰った日もさ。
『今日は肉じゃがだよ』って言われると、それだけで…嬉しかった。」
史奈は何も言わず、そっと陽菜の手に触れた。
包帯越しに伝わる体温はまだ不安定で、かすかに震えている。
「皇輝君…ちゃんと作れてるかな」
「大丈夫。あの人、意外と手際いいから」
そう言って史奈は立ち上がり、静かに病室を出た。
鍋の前で真剣な顔をしている皇輝を見て、史奈は一瞬だけ微笑むと、何も言わずにその場を離れる。
今は、二人の時間だ。
やがて、木製のトレーに乗せられた小さな皿が病室に運ばれてきた。
皇輝は少し緊張した面持ちで、陽菜のベッド脇に腰を下ろす。
「…熱いかもしれないので、少しずつ」
フォークで小さく切り分け、そっと陽菜の口元へ運ぶ。
陽菜は一瞬だけ目を閉じ、それから口を開いた。
「…おいしい」
その一言に、皇輝の肩がわずかに緩む。
「本当ですか」
「うん。肉じゃが好きなの…。」
陽菜は噛みしめるように、ゆっくりと味わう。
戦場の味でも、配給の味でもない。
“生きている人の料理”の味だった。
「ありがとう、皇輝君」
そう言って、陽菜はそっと皇輝の手に触れた。
包帯だらけの指先が、かすかに、けれど確かに。
皇輝の顔が一気に赤くなる。
「い、いえ…その…まだあるんで、良かったら…。」
言葉を失ったまま固まる皇輝を見て、陽菜は小さく笑った。
痛みも、恐怖も、まだ消えてはいない。
それでも今、この瞬間だけは――
「ねぇ」
陽菜が静かに言う。
「こうして誰かにご飯を食べさせてもらうの、久しぶりなんだ」
皇輝は黙って、もう一口、丁寧に差し出した。
夕暮れの光はやがて夜に溶け、病室には小さなランプの灯りだけが残る。
戦いの続く世界の中で、ほんのわずかな、温かな時間が、確かに流れていた。
夕暮れ前、基地の一角にある簡素な部屋。
砂漠の風が壁の隙間から低く唸る音を立てていた。
史奈は、机の上に置かれた布包みをじっと見つめていた。
中にあるのは、マリアの遺品――あの **M45A1**。
何度も手に取り、何度も戻した末に、史奈は決意する。
マリアの銃の行き先
史奈は、陽菜の病室を訪れた。
陽菜はまだベッドの上だが、上半身を起こし、包帯だらけの指でマグカップを包んでいる。
「…陽菜」
「ん?」
陽菜は小さく首を傾げ、史奈を見る。
史奈は静かに切り出した。
「マリアのM45A1…レイラに託そうと思ってる」
一瞬、陽菜の表情が揺れた。
だが、すぐに柔らかく微笑む。
「…うん。それでいいと思う」
史奈は少し驚く。
「いいの?」
「マリアね…強かったけど、それだけじゃなかった」
陽菜は天井を見つめる。
「あの人、誰かを守るために戦う人だった。レイラちゃん、似てるよ」
陽菜はゆっくりと史奈を見る。
「マリアの銃、また“生きた手”に渡るなら、きっと喜ぶ」
史奈は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、静かに頷いた。
夜。
焚き火の前に、レイラは無言で座っていた。
火に照らされる横顔は相変わらず無表情だが、どこか影がある。
史奈はレイラの前に立ち、布包みを差し出す。
「レイラ…これを、受け取ってほしい」
レイラは一目で中身を察し、眉をわずかに寄せる。
「…私には、必要ない」
「必要とかじゃない」
史奈は珍しく、声を強めた。
「マリアの銃だ。あの人の戦いを、止めないでほしい」
レイラは視線を逸らす。
「私は…マリアじゃない」
「分かってる」
史奈は一歩近づく。
「でも、あの人と同じくらい、誰かを守れる」
沈黙。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
しばらくして、レイラは小さく息を吐いた。
「…重すぎる」
「それでも」
史奈は真っ直ぐに言った。
「あなたに託したい」
レイラはゆっくりと布包みを受け取る。
中から現れたM45A1は、使い込まれた痕を残しながらも、丁寧に手入れされていた。
レイラはしばらく銃を見つめ――
そして、静かに頷いた。
「わかった…。」
レイラは動作を確かめるようにM45A1を手に取り、
自分の身体にショルダーホルスターを装着する。
マリアの銃は、胸元に自然に収まった。
次に、彼女は自分の **M1911** を取り上げ、
レッグホルスターに差し込む。
二丁の銃。
二人の女性の戦いの記憶。
史奈は、その光景を黙って見つめていた。
「ありがとう」
レイラは短く言う。
「ううん」
史奈は首を振る。
「守ってくれてるのは、いつもあなたよ。」
焚き火の向こうで、夜が深まっていく。
失われたものは戻らない。
だが、想いは確かに受け継がれた。
マリアのM45A1は、再び戦場に立つ。
今度は、レイラの手で――
誰かを守るために。
夜明け前の薄い光が、瓦礫に覆われた前線地区を照らしていた。
レイラは一人、通信機の短い振動で目を覚ます。
―緊急任務。
詳細は最低限。
敵勢力が要衝を占拠、撤退も増援も見込めない。
いつものことだ、と自分に言い聞かせながら、レイラは無言で装備を整えた。
MK14を肩にかけ、脚には愛用のM1911。
そして胸元、ショルダーホルスターには―マリアのM45A1。
レイラは一瞬だけ、その重みを確かめるように触れた。
「…行くよ、マリア」
誰に聞かせるでもない呟き。
そして、戦場へ踏み出した。
敵との接触は早かった。
市街地の狭い通路、崩れた壁の影から銃声が弾ける。
パァン、パァン――!
レイラは即座に伏せ、MK14で応射する。
サプレッサー越しの低い反動。
一発、二発、正確に敵を削る。
だが、敵の数が多い。
四方からの銃撃に、位置を変えながら前進するしかない。
瓦礫を蹴り、壁を背にし、走る。
息は乱れないが、集中力が削られていく。
――残弾、少ない。
マガジンを確認した瞬間、敵が距離を詰めてきた。
「…っ!」
銃声が途切れ、次の瞬間には肉弾戦。
敵兵の体当たりを受け、レイラは地面を転がる。
MK14はもう使えない距離。
レイラは即座にM1911を抜き、撃つ。
至近距離での発砲。
一人、二人、倒すが――
カチ。
乾いた音。
弾詰まり。
「…っ!」
一瞬の隙。
敵の一撃がレイラの腕を弾き、M1911は瓦礫の向こうへ飛ばされた。
次の瞬間、ナイフがきらりと光る。
敵兵が馬乗りになり、刃を逆手に構え、ゆっくりと振り上げる。
狙いは―目。
レイラの視界に、迫る刃先。
時間が、引き延ばされたように感じた。
その瞬間、胸元に感じる重み。
―ショルダーホルスター。
マリアのM45A1。
「…マリア」
名を呼ぶより早く、身体が動いた。
レイラは片手でホルスターを引き裂くように抜き、迷いなく引き金を引く。
ドン。
ドン。
ドン。
低く重い反動。
3発すべて、防弾アーマーの中心を正確に叩き込む。
衝撃に敵兵の身体が跳ね、ナイフが手から落ちる。
そのまま、力なく崩れ落ちた。
静寂。
レイラは荒い息のまま、しばらく動けなかった。
耳鳴りの中で、自分がまだ生きていることを確かめる。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を警戒。
他に敵影はない。
レイラはM45A1を見下ろし、そっと撫でる。
「…ありがとう」
それは銃に向けた言葉であり、
銃に宿る記憶――マリアへ向けた言葉だった。
「あなたが、守ってくれた」
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
だが、レイラはそれを表に出さない。
無言のまま、M45A1を再びショルダーホルスターへ収める。
立ち上がる背中は、以前と変わらず孤独だった。
だがその孤独の中には、確かに―受け継がれた意志があった。
レイラは再びMK14を担ぎ、夜明けの戦場を歩き出す。
マリアと共に。
夕暮れの市場は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
土埃を含んだ風が、露店の布を揺らし、遠くで子どもたちの笑い声が微かに聞こえる。
皇輝は、あの少女をいつもの雑貨屋の前で待っていた。
約束をしたわけではない。けれど、今日ここに来るべきだと、心のどこかで分かっていた。
やがて、布の隙間から少女が姿を現す。
16歳のイラン人の少女。小柄で、まだ幼さの残る顔立ちだが、瞳だけは妙に大人びていた。
「……皇輝」
その声は、いつもより少し震えている。
皇輝は深く息を吸い、ゆっくりと向き合った。
「今日は……大事な話がある」
そう切り出すと、少女は一瞬、期待と不安が入り混じった表情を浮かべた。
彼女は、ずっと信じていたのだ。
**2年後、18歳になったら結婚できるかもしれない**と。
皇輝は目を逸らさず、はっきりと言った。
「2年後の結婚の約束は……できない」
言葉が空気に落ちる。
少女の瞳が見開かれ、次の瞬間、みるみるうちに潤んでいく。
唇を噛みしめ、必死に泣くのを堪えようとするが、涙は止まらなかった。
「……そっか」
震える声でそう呟くと、少女は顔を伏せる。
「やっぱり……そうだよね。あたし、分かってた」
涙が頬を伝い、砂に落ちる。
しばらく沈黙が流れた後、少女は小さく笑った。
「皇輝に……好きな人、出来たんでしょ?」
皇輝は驚いたように目を見開き、それから、静かに頷いた。
「……ああ」
その一言で、全てを察したかのように、少女は深く息を吐いた。
「そっかぁ……」
泣きながらも、どこか納得したような笑顔だった。
「それなら、仕方ないよね。皇輝が好きになった人…どんな人なんだろ…。」
少女は袖で涙を拭い、顔を上げる。
「…最初は悔しいし、悲しいけど」
そう言って、少し間を置き、
「でもね、皇輝が幸せになるなら、それでいい」
その言葉は、16歳とは思えないほど大人びていた。
少女は一歩近づき、真っ直ぐ皇輝を見上げる。
「お願いがあるの」
「なんだ?」
「これからも…友達でいてほしい」
そして、少し照れくさそうに微笑む。
「それと…お兄さんでもいてほしい」
皇輝の胸が、きゅっと締め付けられる。
彼女がどれほどの勇気で、この言葉を口にしたのか、痛いほど分かった。
皇輝は、迷いなく頷いた。
「もちろんだ」
優しく、はっきりと。
「それは、これからも変わらない」
少女の表情が、ふっと和らぐ。
「うん…ありがとう。」
夕日が沈み、空が赤から紫へと変わっていく。
少女は一歩引き、いつもの無邪気な笑顔を浮かべた。
「じゃあ、またね。皇輝お兄ちゃん」
少しだけ強がったその呼び方に、皇輝は苦笑しながら手を振った。
「またな」
少女は振り返りもせず、市場の奥へと消えていく。
皇輝はその背中を見送りながら、胸の奥で静かに思った。
——これは、別れじゃない。
——形を変えた、大切な絆だ。
そして同時に、別の誰かの笑顔が脳裏に浮かぶ。
これから進む道は、決して簡単ではない。
けれど、**誰かを大切に想う覚悟**だけは、確かに胸にあった。
夕闇の中、皇輝は静かに歩き出す。
それぞれが、それぞれ。
市場の喧騒は、夕暮れに近づくにつれて少しずつ落ち着きを見せていた。
皇輝はその中を一人歩きながら、胸の奥にまだ残る小さな痛みと、別の温かさを同時に感じていた。
──あの子は、強かった。
二年後の約束はできないと、正直に伝えた。
泣きはしたが、最後には笑って「友達でいて」「お兄さんでいて」と言ってくれた少女の顔が、何度も脳裏をよぎる。
その言葉に救われた自分がいることも、皇輝は否定できなかった。
市場の一角、花屋の前で足が止まる。
色とりどりの花の中で、控えめだが凛とした白い花束が目に入った。
「あの…これ、ください」
花を受け取った瞬間、次に思い浮かんだのは、病室のベッドで少しずつ笑顔を取り戻している陽菜の姿だった。
続けて食材店に立ち寄り、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、肉、スパイス。
カレーの材料を揃える。
無意識だったが、それは“一緒に生きる日常”を思い描く行為そのものだった。
基地に戻ると、病室の前には静かな空気が流れていた。
皇輝は花束を胸に抱え、そっと扉をノックする。
「…入ってもいい?」
陽菜はゆっくりと顔を向けた。
まだ包帯は多く、爪の痛みも残っている。
それでも、その目は確かに生きていた。
皇輝は花を差し出す。
「市場で…見つけた」
陽菜は一瞬きょとんとし、それからふっと表情を緩めた。
「…綺麗」
かすれた声だったが、確かな喜びがこもっていた。
その一言で、皇輝の耳まで赤くなる。
「よ、よかった…」
花を抱える陽菜の姿を見て、皇輝は思う。
この人は、戦場で壊れきってしまったわけじゃない。
まだ、こうして“綺麗”と言える心が残っている。
皇輝は病室を一度出ると、簡易キッチンでカレーを作り始めた。
鍋に油を引き、玉ねぎを炒める音が静かな廊下に響く。
その匂いに、病室の中で陽菜が小さく笑う。
「…カレーだね」
史奈がそばにいて、頷く。
「うん。皇輝、得意みたい」
陽菜は天井を見つめながら、静かに言った。
「匂いで、すぐ分かる」
史奈は何も言わず、そっと席を立った。
この時間は、自分のものではないと理解していた。
皇輝は出来上がったカレーを皿に盛り、慎重に病室へ戻る。
「熱いから…少しずつね」
スプーンですくい、陽菜の口元へ運ぶ。
陽菜はゆっくりと口を開け、味わうように噛んだ。
「うん…おいしい」
その瞬間、皇輝の胸がぎゅっと締めつけられる。
ただの料理のはずなのに、この一言が、戦場で浴びたどんな称賛よりも重かった。
「ほんと?」
「うん。あたし、こういうの…久しぶり」
皇輝は照れくさそうに視線を逸らすが、口元は緩んでいた。
陽菜は、そっと皇輝の手に触れる。
震えるほど弱いが、確かな温度があった。
皇輝の顔が一気に真っ赤になる。
「…っ」
それ以上、言葉は出なかった。
病室の入口では、史奈が静かにその光景を見守っていた。
胸の奥に、少しだけ痛みと、確かな安堵が混じる。
「…よかったね」
隣に立つレイラが、珍しく視線を逸らさずに二人を見ていた。
「…羨ましい」
低く、素直な一言。
史奈は思わずレイラを見る。
「レイラがそんなこと言うなんて」
「戦場には、ああいう時間はない」
レイラは淡々と言うが、その目はどこか柔らかい。
「…だから」
史奈は小さく笑った。
「いつか、あるよ。きっと」
レイラは答えなかったが、否定もしなかった。
病室の中では、カレーの湯気と、小さな笑顔が揺れている。
戦争の只中で生きてきた者たちが、ほんの一瞬だけ手にした、静かな幸福の時間だった。
夜明け前。
空はまだ群青色で、砂漠の冷気が肺の奥まで入り込んでくる。
史奈は簡易テントの中で静かに装備を整えていた。
レイラも、皇輝も、陽菜もいない。
今回の任務は完全な単独行動――クライアント名不明、支援なし、回収ポイント未定。
「…単独、か」
独り言は誰にも届かない。
AKMのボルトを引き、確実に初弾を送り込む。
M9はホルスターへ。
弾数は最小限、補給は期待できない。
今回の目標は、市街地外縁部にある武装勢力の中継拠点。
敵の数は不明、だが「少数ではない」という情報だけが添えられていた。
瓦礫だらけの旧市街。
崩れた建物、風に揺れる破れた旗、銃弾で抉れた壁。
史奈は影から影へと移動する。
呼吸を抑え、足音を消す。
――ガチャッ。
不意に、遠くで金属音。
次の瞬間、銃声。
「見つかった…!」
遮蔽物に飛び込むと同時に、壁が弾丸で砕け散る。
敵兵は複数。自動小銃の連射音が響く。
史奈は冷静にAKMを構え、狙いを定める。
**バン、バン!**
短い制圧射撃。
敵の一人が倒れるが、すぐに別方向から弾幕が張られる。
包囲されつつある。
史奈は煙幕代わりに瓦礫を蹴飛ばし、横移動。
息が荒くなる。以前の傷がまだ完全ではない。
「長引かせるわけにはいかない」
階段を駆け上がり、二階から俯瞰射撃。
AKMの反動が肩に響く。
敵兵が次々に姿を現す。
遮蔽物を使いながら、連携して動いている―素人ではない。
弾倉交換。
残弾、減少。
その瞬間、背後から足音。
反射的に振り向き、M9を抜く。
**パン!**
至近距離での一発。
相手は倒れるが、同時に床に転がり込む史奈。
壁越しに銃弾が貫通する。
コンクリート片が頬を掠め、血が滲む。
銃声が止む一瞬―
その隙に、敵兵が突っ込んでくる。
距離は一瞬で詰まった。
史奈は銃床で相手の顎を打ち、体勢を崩す。
相手はナイフを抜こうとするが、それより早く史奈が膝を叩き込む。
倒れ込む敵兵。
しかし、別の敵が背後から襲いかかる。
史奈は転がり、ギリギリで回避。
呼吸が苦しい。
視界が揺れる。
それでも、引き金を引く指は止まらない。
弾は残り僅か。
撤退か、突破か。
史奈は一瞬だけ目を閉じ、判断する。
「…行く」
残弾をまとめて制圧射撃。
敵の注意を引き付け、そのまま建物を飛び出す。
路地を全力で駆ける。
背後から追撃の銃声。
足がもつれる。
それでも止まらない。
最後の曲がり角で、史奈は地面に伏せ、反転射撃。
**バン、バン!**
敵の動きが止まる。
静寂。
しばらく動けず、瓦礫の陰で息を整える。
耳鳴りと心拍音だけが響く。
目標拠点は沈黙した。
通信装置に短いコードを送信。
――任務完了。
誰からも返事はない。
史奈は空を見上げる。
朝日が瓦礫の街を赤く染めていた。
「…まだ、生きてる」
それだけで、今は十分だった。
AKMを肩に掛け、史奈は再び歩き出す。
次の任務が、いつ来てもいいように。
病室は、午後の柔らかな光に包まれていた。
白いカーテンがわずかに揺れ、消毒薬と、少し前に食べたカレーの残り香が混ざっている。
皇輝は椅子に腰掛け、包帯だらけの陽菜の顔を見つめていた。
陽菜はベッドに背中を預け、まだ完全には戻らない体力を誤魔化すように、少し強がった表情を浮かべている。
「ねえ、陽菜さん」
皇輝の声は、いつもより慎重だった。
「陽菜さんのこと、もっと知りたい。無理なら言わなくていい。でも…どうして、傭兵になったのか」
一瞬、陽菜の視線が宙を泳ぐ。
小さくため息をつき、困ったように笑った。
「おばさんの昔話なんて、聞いてどうするのよ」
「あたしの過去なんて、血と埃と後悔ばっかりだよ?」
皇輝は首を横に振る。
「それでもです。陽菜さんが生きてきた時間を、ちゃんと知りたい」
その言葉に、陽菜の表情が少しだけ緩んだ。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女は天井を見上げる。
「あたしね…最初は、普通の子だったのよ」
声は低く、静かだった。
「母はね、体が弱くてさ。病院通いばっかりだった。
でも、すごく優しい人で…あたしに、いつも『生きてるだけでいい』って言ってくれた」
指先が、無意識にシーツを掴む。
「でも、母は病気に勝てなかった。あたしが二十歳になる前だったかな」
皇輝は何も言わず、ただ耳を傾ける。
「父はね…その頃にはもう、いない人だと思ってた」
陽菜の口元が、かすかに歪む。
「小さい頃に家を出て、それっきり。行方不明。死んだんだろうって、みんな言ってた」
一度、息を整える。
「母が亡くなって、あたしは必死だった。運が良いのか悪いのか…銃を扱う仕事に誘われた」
皇輝の眉が、わずかに動く。
「最初は護衛。次は掃除役。そのうち、撃つ側に回ってた」
陽菜は自嘲気味に笑った。
「才能があるって言われたよ。褒め言葉なのに、全然嬉しくなかった」
沈黙。
「…そんな時に、父と再会した」
皇輝は思わず身を乗り出す。
「生きてたの。しかもね…ただの傭兵じゃなかった」
陽菜の目に、遠い記憶の色が浮かぶ。
「“伝説の狙撃手”砂漠の死神って呼ばれてた。名前を聞けば、皆が黙るくらい」
「父はあたしを見て、何も言わなかった。ただ…あたしの構えを一目見て、全部理解したみたいだった」
唇を噛む。
「最後に会った時、父は言ったの。『ここから先は、お前の人生だ』って」
「それで…弟子と一緒に旅に出た」
皇輝が尋ねる。
「弟子…?」
「うん。“ジャッカル”って呼ばれてた男。情報屋。」
陽菜は小さく息を吐いた。
「それきり、父には会ってない。生きてるのか、もう死んでるのか…分からない」
病室に、深い静けさが落ちる。
「…あたしが傭兵を続けたのはね」
陽菜は皇輝を見る。
「逃げ場所がなかったから。戦場にいる方が、考えなくて済んだから」
「でも今は…」
言葉が途切れ、少し照れたように視線を逸らす。
「今は、普通の女の子に戻りたいって、思ってる」
皇輝の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……話してくれて、ありがとうございます」
陽菜は肩をすくめる。
「重たい話でしょ?」
「いいえ」
皇輝は、真っ直ぐに言った。
「陽菜さんが、どうやってここまで生きてきたのか、分かってよかった」
陽菜は一瞬驚いた顔をしてから、ふっと微笑んだ。
「…変な子」
その微笑みは、戦場では一度も見せなかった、柔らかくて、少しだけ脆いものだった。
病室の外では、史奈がそっと立ち止まり、扉越しにその空気を感じ取っていた。
そして遠くで、レイラが静かに腕を組みながら、何も言わずに空を見上げていた。
それぞれが、それぞれの過去と向き合いながら。
少しずつ、戦場ではない未来へと、歩き出そうとしていた。
前線基地の午後は、いつもよりざわついていた。
砂袋とコンテナで組まれた簡易ゲートの方から、低く荒れた声が聞こえてくる。
警備に立っていた傭兵たちが、明らかに苛立ちを隠していない。
「だから通せって言ってるだろ」
低く、乾いた声。
皇輝は手止め、その方向へ向かった。
ゲート前に立っていた男は、ひと目で“場違いではないが異質”だと分かる存在だった。
色褪せたアフガンストールを首元に巻き、腰には年季の入った**銀色のデザートイーグル**。
ホルスターの革は擦り切れ、何度も抜き差しされた跡がある。
反対側の腰には、無造作に差し込まれた投げナイフが数本。
そして何より、男の目。
鋭いが、敵意よりも**探るような冷静さ**が宿っていた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
警備の傭兵が銃を下げたまま言う。
「俺は関係者だ」
男は一歩も引かずに答えた。
「“陽菜”に会いに来た」
その名前が出た瞬間、皇輝の足が止まる。
(…陽菜さんに?)
警備兵が眉をひそめる。
「その名前をどこで―」
「ちょっと待ってください」
皇輝は一歩前に出た。
男と警備兵の間に立つ形になる。
「どういう用件ですか」
冷静を装いながらも、皇輝は男を鋭く観察していた。
デザートイーグル。
投げナイフ。
そして、その立ち方――無駄がない。
歴戦の人間だ。
男は皇輝を見て、わずかに口角を上げた。
「話が早そうだな」
そう言って、名乗る。
「俺は**ジャッカル**。商売は情報屋だ」
その名を聞いた瞬間、皇輝の胸に、陽菜の言葉がよみがえる。
――父は、弟子と“ジャッカル”という情報屋と旅に出たきり。
(…やっぱり)
「皇輝です」
皇輝は名乗った。
「あなたが陽菜さんの知り合いだという証拠は?」
男――ジャッカルは、ため息をついた。
「疑うのは正しい」
彼はそう言ってから、低い声で続ける。
「陽菜は、1人を好む、単独行動を。幼い頃、母を無くし、父は行方不明。」
皇輝の表情が、わずかに変わる。
「それから」
ジャッカルはさらに言葉を重ねる。
「彼女は眠る前、必ず銃の安全確認をする癖がある。どんなに衰弱していてもな」
沈黙が落ちる。
皇輝は警備兵たちに視線を向け、静かにうなずいた。
「…武器は預からせてもらいます」
「構わん」
ジャッカルは素直にデザートイーグルを抜き、差し出した。
その動作に、一切のためらいも焦りもない。
「俺は争いに来たわけじゃない」
彼は皇輝をまっすぐ見て言う。
「**陽菜が生きていると聞いた**。それだけで、ここまで来た」
皇輝は一瞬、言葉を失った。
「…陽菜さんは、今も治療中です」
「分かっている」
ジャッカルは短く答えた。
「だからこそ、今会わなきゃならない」
皇輝は少し考え、そして決意する。
「分かりました」
彼は言った。
「ただし、俺が付き添います。陽菜さんに無理はさせません」
ジャッカルは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「…感謝するよ、**Mr.皇輝**」
その呼び方に、皇輝は少しだけ違和感を覚えながらも、うなずいた。
二人は、病室へと続く通路を歩き出す。
遠くで、陽菜のいる部屋の前に立つ史奈の姿が見えた。
そして、その背後には、無言で壁にもたれるレイラの姿。
すべてが、静かに、しかし確実に――
**次の物語へと繋がろうとしていた。**
病室のカーテン越しに射し込む夕方の光は、柔らかく、砂埃に慣れた前線基地には不釣り合いなほど静かだった。
ベッドに上体を起こした陽菜は、包帯だらけの手を胸の上で重ね、目の前に立つ男を見上げていた。
アフガンストールを首に巻き、鋭い眼光の男ジャッカル。
十四年ぶりの再会だった。
「…生きててくれて、何よりだ。Mrs 陽菜」
低く掠れた声に、安堵と痛みが混じる。
陽菜は小さく笑った。
「相変わらず、その呼び方なんだね。ジャッカルさん」
その一言で、場の空気が少しだけ緩んだ。
だが、ジャッカルの視線はすぐに陽菜の身体へと向かう。
包帯、ギプス、点滴、そして隠しきれない無数の傷痕。
「…ひどい目に遭ったな」
「うん。正直、死ぬと思ったよ」
淡々とした口調だったが、声は少し震えていた。
ジャッカルは拳を強く握り、視線を床に落とす。
「俺が、もっと早く動いていれば…」
「違うよ」
陽菜は首を横に振った。
「これは、あたしが選んだ道の結果。誰のせいでもない」
その言葉に、ジャッカルははっとして顔を上げる。
「あたし…?」
思わず漏れた声。
「その…一人称、変えたのか?」
陽菜は少し照れたように笑った。
「うん。色々あってね。もう“俺”じゃなくていいかなって」
十四年前、荒野で銃を握っていた頃の陽菜を知るジャッカルにとって、それは衝撃だった。
「時間は、人を変えるもんだな…」
そう呟いた後、彼の表情は一気に重くなる。
「陽菜。マリアのことは…知っているな…」
病室の空気が、凍りついた。
陽菜は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「うん。」
ジャッカルは頷き、低く語り出す。
「旅に出た後、俺は一度マリアと再会した」
陽菜の指先が、僅かに震える。
「お前の父親―いや、
先生と一緒に悪い輩と戦っていたよ。
娘の話になると先生は、不器用でな」
陽菜は懐かしそうに、ほんの少しだけ微笑んだ。
「…お父さんらしい」
「のちに、マリアと会ってね。わたしの
妻になったんだ…。」
陽菜は驚いたように目を見開く。
「…え?」
ジャッカルは静かに続けた。
「俺とマリアは、正式に結婚した。
娘もいる。
今は二人で暮らしてる」
その言葉が、陽菜の胸に静かに落ちていく。
「…マリア、そんなこと一言も言ってなかった」
「言わなかったんだろうな」
ジャッカルは苦く笑う。
「一度先生と別れてね、一年ほどマリアとさすらって…。
再びマリアと別れてから、ま先生と一緒に旅をした。
今は、先生一人でさすらっている。」
陽菜は天井を見上げた。
「マリア… あの人らしいや」
強くて、優しくて、どこか孤独で、変人で。
自分の弱さを、決して見せない人。
「驚いたけど…でも、良かった」
陽菜の声は、思った以上に穏やかだった。
「マリアが、誰かとちゃんと幸せになってたなら…。」
ジャッカルは、深く頭を下げる。
「俺は…マリアの遺骨を取りに来た。」
陽菜はゆっくりと視線を戻し、真っ直ぐに彼を見る。
「うん。行ってあげて。マリアも…きっと喜ぶ」
一瞬、ジャッカルの目が潤む。
「ありがとう、Mrs 陽菜」
そのやり取りを、病室の外から皇輝が静かに聞いていた。
陽菜さん、と呼ぶべき人の背負ってきた時間と重さ。
そして、彼女が今もなお前を向こうとしている強さ。
「…本当に、強い人だな」
皇輝は小さく呟いた。
病室の中では、十四年分の時間が、ようやく静かに繋がろうとしていた。
病室の扉が、静かに閉じられた。
ジャッカルは廊下に立ち、胸に抱いた小さな骨壺を、まるで壊れ物以上に慎重に抱え直した。
灰色の廊下に、足音が一つ響く。
重く、しかし迷いのない歩みだった。
その先に、レイラが立っていた。
無言で壁にもたれ、腕を組んだままこちらを見ている。
砂漠と戦場に鍛えられた体。
焼けた肌。無数の古傷と新しい傷。
その佇まいは、戦士そのものだった。
ジャッカルは、一瞬で足を止めた。
視線が、無意識にレイラの顔へと吸い寄せられる。
鋭い眼差し。
整った輪郭。その奥に潜む、冷えた静けさ。
――似ている。
それを隠すことすら出来なかった。
レイラは、その視線にすぐ気付いた。
長い沈黙のあと、低く、しかしはっきりと口を開く。
「…マリアに、似ているんでしょ?」
ジャッカルは一瞬だけ目を伏せ、短く息を吐いた。
「…すまない」
それ以上、言葉は続かなかった。言い訳も、否定も、できなかった。
ただ事実だったからだ。
レイラは何も言わず、ゆっくりと自分のショルダーホルスターに手を伸ばした。
留め具が外され、革の擦れる音が廊下に小さく響く。
次の瞬間、レイラの手にあったのは――
**M45A1**。
古びているが、丁寧に手入れされた拳銃。
グリップには、長年の使用で刻まれた癖と記憶が残っている。
レイラはそれを両手で持ち、静かにジャッカルへ差し出した。
「…持って帰って。マリアのもの」
ジャッカルは、即座に首を横に振った。
「受け取れない」
レイラが眉をひそめる。
ジャッカルは、骨壺を抱いた腕に少し力を込め、低い声で言った。
「マリアは…戦士だった。
銃を置くことで安らぐ女じゃない。
生きていれば、今もきっと、前線に立ちたがる」
レイラの手にあるM45A1を、じっと見つめる。
「その銃は、墓標じゃない。
戦い続ける意思だ」
ゆっくりと視線を上げ、レイラを真正面から見た。
「だから、その銃は…君が持つべきだ。
マリアは、君に託すことを選ぶ」
レイラの指が、わずかに震えた。
拒絶されるとは思っていなかった。
だが同時に、その言葉の重みが胸に落ちてくる。
しばらくの沈黙の後、レイラは銃を引き寄せ、再びホルスターへ戻した。
「…分かった」
短く、それだけ。
ジャッカルは最後に、病室の方へ一度だけ視線を向けた。
「…Mrs 陽菜は、もう銃を持てない。
いや、持たなくなるだろう」
その言葉には、断定ではなく、祈りに近い静けさがあった。
「それでいい。
彼女は、十分すぎるほど戦った」
そう言い残し、ジャッカルは踵を返す。
長いコートが翻り、足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
レイラは、その背中が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。
胸元のショルダーホルスターに、手を当てる。
そこにある重みは、ただの武器ではない。
失われた命と、受け継がれた意志。
レイラは目を閉じ、心の中で静かに呟いた。
――マリア。
――あなたの銃、私が預かる。
そして、再び戦場へ戻る覚悟を、深く胸に刻んだ。