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プロローグ 喫茶セリーヌ
wki side
深夜一時。
ガラス戸の外は、街灯に照らされる細い路地がひっそりと伸びている。人影はほとんどなく、たまにタクシーがゆっくりと通り過ぎるだけだ。
「セリーヌ」の古い看板は、祖父の代からずっと同じ位置で揺れている。半分剥げかけた金色の文字が、柔らかい白熱灯に照らされているのを、俺はカウンターの中からぼんやりと眺めた。
カウンターの上では、湯気を立てるナポリタンが皿の中で色鮮やかに鎮座している。ケチャップとバターが混ざり合った香りが鼻腔をくすぐる。炒めた玉ねぎの甘さとピーマンの青い香りが、深夜の空気にゆっくりと溶けていく。
メガネレンズ越しに見える向かいの席では、いつもの彼_大森元貴が、フォークをくるくる回して麺を口に運んでいた。
「……今日も、同じので」
オーダーの時にそう言ったきり、彼はあまり多くを話さない。
俺も無理に話題を探すことはしない。料理を出すときに「お待たせ」と言い、コーヒーを注ぐときに「熱いから気をつけて」と添える程度だ。
それでも、こうして彼がここにいるのが、もうすっかり日常になってしまった。
深夜にやってくる客は少ない。たいていは一見か、たまたま近くで飲んでいて帰りに寄った人くらいだ。そんな中で、週に三度も顔を見せる人間は珍しい。
初めて見たときは、スーツの襟が少しくたびれて、ネクタイが緩んでいた。疲れ切った顔をしていたのを覚えている。
「やっててよかった……」と、小さく息を漏らしながら席についたその横顔は、何かから逃げるようでもあり、安堵しているようでもあった。
今では、そんな疲労の色も少しだけ薄れてきた気がする。もちろん、まだ残業帰りの顔には変わりないけれど、ナポリタンを口に運ぶときの表情は、初めの頃よりずっと柔らかい。
……料理の力か、それとも、この店の空気か。俺にはわからない。ただ、ここで彼が少しでも休めているなら、それでいいと思っている。
食後のコーヒーを淹れるため、ネルドリップのフィルターに湯をゆっくりと落とす。豆は深煎りのマンデリン。苦味の奥に甘みがあって、深夜に飲むにはちょうどいい。
お湯がぽたぽたと落ちていく音と、コーヒーの香りが店内に広がる。この瞬間が好きだ。祖父が淹れていた頃から、何も変わらない。
「どうぞ」
カップを置くと、彼は軽く会釈をして、口元に運ぶ。
カップの向こうで、彼の睫毛が少し揺れた。深く息をつくようにコーヒーを味わっている。
その姿を見ていると、こちらまで肩の力が抜ける。
時計はすでに一時半を回っていた。そろそろ閉店の時間が近づいている。
彼は飲み終わったカップを置き、会計のときにいつもと同じように「ごちそうさまでした」とだけ言い、少しだけ口元を緩める。
「また、来ますね」
その言葉が、深夜の静けさの中に溶けて消えていった。
戸を閉め、背中を見送った後、俺はカウンター越しに置かれたカップを手に取った。まだほんのりと温かい。
洗い場に運びながら、ふと考える。
_きっと、明日も来る。
そう思えることが、なぜか少し嬉しい。
外は相変わらず静まり返っている。
看板の灯りを消す前に、俺はもう一度ガラス戸越しに夜道を見やった。
遠くで、タクシーの赤いランプがゆっくりと動いていく。
今日も、セリーヌの夜は穏やかに終わる。
若井滉斗(28)👓
深夜営業の喫茶セリーヌのマスター
元サラリーマン
祖父母がやっていた喫茶店を引き継ぐ
大森元貴 (22)👔
新卒の社会人
ブラック企業の会社に勤める
喫茶セリーヌの常連客
セリーヌの語源はラテン語で
「神聖な」「天のような」
という意味がありますが、フランス語では
固有名詞として女性の名で使われます(多分)
ここでは詩的、創作的な解釈で「恋の香り」
という意味でセリーヌを使っています
ちなみに…
若井さんがかけているメガネはフランスのアランミクリというブランドで、「見るための、そして見られるためのメガネ」というコンセプトがあります
Celine After Hours《閉店後のセリーヌ》
コメント
2件
え、やば、すきです。 これからどんどん仲良くなっていくんですよね。きっと!!!!!!!! おしゃれ!!!意味も全部おしゃれ!!!!!!!