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#1 深夜の灯りに誘われて
wki side
あの夜は、雨上がりだった。
昼間の熱気をそのまま閉じ込めたような湿った空気が、夜になっても路地に漂っていた。 カウンターの中で手を拭きながら、俺は雨粒に濡れた路地をぼんやりと眺めていた。
閉店まであと一時間。 今日は誰も来ないかもしれない、そう思った矢先だった。
ガラス戸の向こうに、スーツ姿の青年が立ち止まった。ネクタイは緩く、髪は前髪の端が少し濡れて張り付いている。
看板の灯りを見上げたあと、小さく息を吐いてドアを開けた。
「……やってるんですね」
掠れた声が、湿った夜気と一緒に流れ込む。
「ええ。いらっしゃいませ」
そう言うと、青年_後に大森元貴と知る男は、少し戸惑ったように店内を見回し、カウンターの端の席に腰を下ろした。
注文を聞くとき、彼は少し迷ってから言った。
「……ナポリタンと、コーヒーを」
その声には、空腹と疲労が混ざっていた。
フライパンを温め、バターを落とす。じゅっと音がして、すぐに甘い香りが広がる。玉ねぎとピーマンを炒め、下茹でした麺を投入する。ケチャップを加えると、赤い色と酸味のある香りが立ち上り、深夜の静けさに温もりを足していく。
祖父から教わったやり方を、俺は何も変えずに守っている。 皿に盛りつけ、湯気を立てたままカウンターに置いた。
「お待たせしました」
彼は短く「ありがとうございます」と言い、フォークを手に取る。 一口食べた瞬間、彼の肩がわずかに落ちた。その緊張のほどけ方が、妙に印象に残った。
食事の間、俺は何も話しかけなかった。
無理に会話を挟むより、この店では黙っている方がいい客もいる。
祖父もそうだった。静かな時間を求めて来る人間には、静けさごと差し出す_それがセリーヌのやり方だった。
ナポリタンを食べ終える頃、ネルドリップでコーヒーを淹れる。
熱湯を落とすと、ふくよかな香りが立ち、カウンターを挟んだ空間を満たす。
「熱いので気をつけてください」
カップを置くと、彼は両手で包み込み、ゆっくりと口をつけた。目を閉じ、短く息を吐く。その仕草から、言葉以上に疲れが伝わってくる。
時計はもう午前一時近く。
彼は飲み終わると、会計のために財布を取り出した。
「ごちそうさまでした」
たったそれだけの言葉だったが、声は少しだけ柔らかくなっていた。
「遅くまでお疲れさまです」
俺がそう返すと、彼は驚いたように瞬きをして、軽く会釈をして帰っていった。
ガラス戸の向こうで、夜道の闇にその背中が溶けていく。
その姿が見えなくなるまで、俺はカウンターの奥から立ち尽くしていた。
それからだ。
彼は週に三度、時には四度、この店に現れるようになった。
決まってナポリタンとコーヒーを頼み、食事の間はほとんど無言。けれど、少しずつ「こんばんは」「お疲れさまです」といった挨拶を交わすようになった。
仕事の帰りらしいが、詳しいことは聞かなかった。訊かなくても、顔色や仕草でわかることは多い。
ある夜、ナポリタンを出すとき、彼が小さく笑った。
「やっぱり、これですね」
わずかな言葉でも、常連になってくれた証のようで、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
店の中は相変わらず静かだ。
だが、カウンターの端の席に彼が座っているだけで、その静けさは心地よいものに変わっていく。
大森さん初来店エピソードです
コメント
2件
ううううははははは 😌😌 えぐすき。 若井さんが作ったナポリタン私も食べたい‼️横取りしようかな。