「別れてほしい」
それは、結婚適齢期の女性の4年間を無駄にした男にしては、ものすごくシンプルな言葉だった。
「好きな子が出来たんだ」
そしてそれは、29歳の愛に対して、八つ裂きと形容するに相応しいダメージを与えた。
好きな子ができたってことは、私は、あんたの“好きな子”ではなかったの?
その単純で当たり前の疑問が頭をループしている間に、男は居酒屋の黄ばんだ畳から立ち上がっていた。
男の口が何かを呟いた。
でもその声は聞こえなかった。その言葉はわからなかった。
愛はただ俯いたまま、手に握られたままのビールジョッキの中で、炭酸の泡が弱く小さくなっていくのを眺めていた。
ビールって、なんか。
色といい、質感といい、おしっこみたい。
バラバラになったシナプスが、どうでもいい回路を形成して繋がる。
他の思考を全てシャットアウトして、ビールの泡を見つめる。
騒々しい居酒屋。店主が流している沖縄の民謡。合わさるグラス。悲鳴のような笑い声。
「あれー?」
スーツ姿の男がこちらを覗き込む。
「長澤医療機器販売の藤倉さん、だよね?」
男は笑顔を向けると、テーブルをはさんだ向かい側に腰かけた。
「偶然~。誰かと飲みに来たんですか?」
彼氏……いや、元彼氏が残していった空のジョッキや枝豆の殻なんかを見ながら男は微笑む。
TOYODA自動車の寒河江。
やっと回路が繋がった。
あの爽やかなディーラーだ。
「こんばんは。友達と二人で来てたんですけど、急用ができたとかで、帰ってしまったんです」
愛は感情のこもらない言葉を、脳みそがオートで形成してくれた通りに唇を動かす。
「へえ。こっちは店飲みです。ほら―――」
寒河江が振り返ると、スーツ姿の男の中に、趣味の悪い朱い制服を着た若い女が数名、楽しそうに飲んでいた。
(ダサいセーフク)
心の中で毒ずく。
「楽しそうですね」
「ええ、まあ」
寒河江は笑顔のままこちらを振り返ったが、愛と目が合った瞬間、真顔になった。
「寒河江さん?どうか、しましたか?」
大きな手が愛の頬に触れる。
「こっちの台詞ですよ。どうか、しましたか?」
彼の指の感触に、初めて自分の眼から液体が出ていることに気が付いた。
「————愛ちゃん」
先ほどの元彼氏の声は聞こえなかったのに、騒々しい居酒屋の中で、その囁き声は、はっきりと愛の耳に響いてきた
「飲み直そうか。二人で」
「プロポーズにしては、色気のない場所に呼ばれたな、って内心笑ってたんですよ」
タクシーに乗り込んだ途端、愛の口は緩み、ポロポロと言葉が零れだしてきた。
「“大事な話があるから”それで呼び出すのが大衆居酒屋かよって。夜景の見えるホテルにしとけよって。まあ、あいつらしいな、ってスマホ見ながら笑ったのが、つい3時間前で」
寒河江は運転手になにやら告げると、シートにもたれ掛かる愛の隣に座った。
「お母さんから電話来たんですよ」
脈絡のない話をしているのは自分でもわかっている。
しかし寒河江は柔らかく微笑みながら、頷いた。
「彼氏君とはどうなってるのって。お互い忙しくて~なんて答えたけど、忙しいのはあいつばっかり。
私はただの総務助手ですから?奈緒子さんみたいに全てを任されてるわけでもなければ、鈴木さんみたいにバリバリ営業してるわけでもないので?
他がどんなに忙しそうにしてても、疲れた顔してても、定時でグッバイ的な。
毎日9時からのドラマ見て、ひとりで泣いたあとはテイクアバスして即グンナイみたいな」
話している内容は酔っ払いのそれだったが、今日はまだビールジョッキ半分しか身体に入れてない。
血液に混ざって愛の脳を麻痺させているのは、アルコールではない。
元彼が仕込んだ毒だ。
元彼が仕込んだ、無慈悲という名前の《《毒》》が、全身に《《ドクドク》》流れて孤《《独》》を助長させ、《《独》》身の愛にトドメを差す。
「今手元に、誰かの名前を書いたら死ぬノートがあったら……」
言いながら、横で微笑んでいるどうして連れ出してくれたのかわからない、ほぼ他人を見上げる。
「元カレの名前を書く?」
寒河江が微笑む。“それでいいんだよ”というように。
「ーーー自分の名前を書く」
「自分の?」
「『藤倉愛。お姫様みたいな豪華できれいな部屋で、ふかふかのベッドの上にすわり、今まで飲んだことのないような高いシャンパンを飲みながら、幸福に酔いしれなんとなく微睡み、眠るように死亡』ってーー」
涙が目に溜まってきた。
「そう、書くよ………」
表面張力に耐えきれなくなった波が一気に流れ出す。
ホント恥ずかしい。
穴があったら飛び込むレベルの羞恥。
馬鹿じゃないの。29にもなって。
アホじゃないの。30目前で。
自分に失望した愛の手首を寒河江が優しく引いた。
「ご期待に沿えるかわかりませんが」
タクシーのドアが開く。
「こちらへどうぞ、お姫様」
目の前には県内で一番大きな高級ホテルが聳え立っていた。
「待っててね」
見たこともない大きなエントランスのソファに座らせると、寒河江は初めてではない様子でカウンターに寄っていった。
愛は沈むソファに上がってしまう太ももに捲り上がるスカートを直しもせず、そのまま高い天井を見上げた。
「すご……」
吹き抜けの天井。ガラス張りの円状の廊下がぐるりと囲んでいる。
元彼と付き合ってた時は、誕生日だって、記念日だって、クリスマスだって、こんなところに泊まったことはなかった。
「お待たせ」
寒河江が、水色のガラスでできたキーを回す。
カードキーじゃないところがまたお洒落だ。
「行く?」
「うん」
立ち上がろうと反動をつける。
(ーーーちょっと。何考えてんの)
冷静な自分が、立ち上がろうとした愛をソファに引き戻し、またお尻が沈みこむ。
(その男、鍵持ってるよ。宝箱の鍵じゃないよ、部屋の鍵だよ。それがどういうことか、あんた、わかってんの?)
もう一人の自分は、怒りながらこちらを睨んでいる。
ーーーわかってるよ。
(こんな夜中に。密室で。男と二人きりで。ベッドのある部屋に入って。何もないわけないでしょう)
ーーーそりゃあね?
(男の左手の薬指、見て見なさいよ)
その声に促されて、鍵を握る手を見る。
ーーーなんだ。
愛は振り返りながら、自分を引き留める自分の顔に向かって笑った。
ーーー指輪。外してくれてるわ。
(ーーーー)
「立ち上がれない?」
寒河江が笑いながら近づいてくる。
「はい、どうぞ。お姫様?」
指輪が外された手を差し出す。
その手に、愛の手をふわっと乗せる。まるで、カボチャの馬車から降りるシンデレラのように。
「はは。ぽいね」
寒河江が微笑む。
愛がソファから立ち上がると、寒河江は数歩先のエレベーターのボタンを押した。
それに続いて歩き出す。
ふと後ろを振り返ると、ソファにはすでに、もう一人の愛はいなかった。
「わあ」
思わずその部屋の広さに口を開けた。
「何、ここ」
そこは60㎡を超える広さの中に、キングサイズのベッド。バーカウンター。
三人掛け+2脚の一人掛けソファと、ダイニングテーブルが並んでいる。
「スイート空いてなかった。ジュニアスイートだけど、勘弁してね」
寒河江が微笑みながら部屋の照明を調整する。
と、間接照明に照らし出されていた部屋は、たちまち薄暗くなった。
大型の窓から、煌めく夜景が見える。
思わず、一歩、また一歩とその光の渦に吸い込まれていく。
下を見下ろす。
豆粒ほどの車が右往左往している。色とりどりのビルの灯りと、遠くに見える鉄橋のオレンジ路のライトが瞬いて見える。
「綺麗…」
呟くと、頬に冷たい何かが押し付けられた。
驚いて一歩引くと、手にシャンパングラスを持っている寒河江が笑った。
あまりの夜景の美しさに、すっかり忘れていた。
自分が今夜、この男に抱かれるであろうことに。
彼は「気に入った?」と言いながら、2つあるシャンパングラスの1つを愛に渡した。
「はい、乾杯」
言いながら自分の方を傾けて、カチンとグラスを合わせる。
その気泡が上にあがり弾けていく様を、愛は見つめた。
「シャンパン嫌い?」
いつまでも口をつけようとしない愛を寒河江が覗き込む。
「いえ」
言いながら視線を合わせる。
「ビールと全然違うなって思って―――」
言うと、こちらの言わんとしている意図が分かったのか、寒河江は目を細めて微笑んだ。
「一緒にしないでよ」
その手が優しく愛の手からグラスを奪う。
代わりに一口、口に含むと、そのまま首元に手を回した。
よく冷えたシャンパンで冷たくなった唇が、愛の唇に触れる。
少し開くと、そこからさらに冷たい液体が流れ込んできた。
そのまま口を離すと、寒河江は軽く息を吐きながら、愛を見下ろした。
「ごめんね、キスしちゃった」
―――ごめんねって。今更?
愛は笑った。
「それで?お味はいかがでしたか?お嬢様?」
「ちゃんと冷たかったし、ちゃんと美味しかったよ」
言うと、寒河江は愛の腰を引きよせながら笑った。
「なんだよ、《《ちゃんと》》って」
そのまま、先ほどとは違う、熱を帯びた唇が愛のそれを喰らう。
元彼がしていたような、どこか幼さの残る、それでいて、野良犬のように荒々しいキスではない。
妖艶で大人で、駆け引きのできる血統書付きの猫のような、したたかなキス。
入り込んできたと思えば、さっと引き、こちらが求めると、それ以上の深さと荒々しさで侵略してくる。
吐息に、戸惑いと後悔が混ざる。
息が漏れるたび、その声が自分の鼓膜を揺らすたび、冷静な自分も。
先ほどまで、付き合っていたはずの元彼も。
「不倫する女とか信じられない」と事務所で笑っていた自分も。
可もなければ不可もない、刺激もないが、懺悔もない、つまらなくて平和な日々も。
――――泡と弾けて消えていった。
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