先代ニゲラから紡織師の名を継いで早一年。
これまで幾つかの仕事をこなしてきたけれど、初めてのお客様を前にする時は、いつも緊張してしまう。
「初めまして。紡織師アネモネです。本日は貴方にお届けしたい記憶を預かってきました」
アネモネは、小刻みに震える手をぎゅっと握りしめて切り出すと、目の前にいる青年貴族に向け深く腰を折った。
ここは、貴族の大邸宅。華美を抑えながらも品のいい家具や調度品に囲まれた応接室は、初夏の強い光が差し込んでいる。
直線を描く光の線をたどれば、手入れが行き届いた中庭と、光り輝くような空が窓のガラス越しに見えた。それはとても綺麗で、まるで絵画のよう。
けれどもそこに意識を向けたのは一瞬で、アネモネは視線を真っ直ぐにして背筋を伸ばす。
アネモネは<紡織師>だ。
しかし<紡織師>と言っても、機織り業を営む人のことではない。人が持つ記憶や、叶えられなかった願いや祈り。それらを、そっくりそのまま他人にお届けする特殊な職業だ。
そして依頼を受けたら、たとえ最北の雪山であっても、西の領地のおまけにくっついている孤島であっても、お届け先まで自ら足を運び、納品する。
料金はというと、かなり値が張り、如何なる場合でも代金は先払いだ。
現在、<紡織師>に就いているのは、アネモネただ一人。
諸般の事情で、存在自体がほとんど知られていないため、簡潔明瞭に、でも丁寧に、わかりやすく要件を伝えるよう心掛けている。
目の前にいるアニスは、椅子にふんぞり返った状態で怪訝な顔をしている。
客から嫌な視線を受けるのは気分のいいものではないが、こういうリアクションは良くあること。いやむしろ、殆どが彼と同じようなリアクションをする。
だから気にしてはいけない。そう、いけないのが……アネモネは、思わずたじろいでしまった。
怪訝そうな顔をしていたアニスが、ものすごく怖い顔になってしまったから。
「あ、あの……」
「失せろ」
「は?」
唸るように吐き捨てたアニスに、アネモネは間の抜けた声を出してしまった。
すぐに今は仕事中だということを思い出し、なんとか説得しようと口を開こうとするが、タッチの差でアニスの方が早かった。
「黙れ!出て行けっ、もうこれ以上聞きたくないっ」
「なっ」
ついさっきまで訝しい顔をしながらも、聞く態度は取ってくれていたのに。
そんな気持ちからアネモネがついムッとした顔をした途端、アニスは弾かれたように立ち上がった。
次いで、アネモネの襟首を問答無用で掴んだ。
「は!?えっ、ちょ、ちょっと」
予想外の展開に、アネモネは困惑した声をあげた。
けれどアニスは片手でアネモネの襟首を掴んだまま、ずんずんと歩き、扉を勢い良く蹴り開ける。
ド派手な音をかき消すように乱暴な足取りで廊下に出ても、その勢いは止まらない。
すれ違うメイドやフットマンや、なんかそれ以外の制服っぽいものを着た人達が、ぎょっとした顔をしているのにも意に介さず、大股で歩いていく。アネモネの襟首を離さずに。
アネモネといえば、「くぇっ」とか「うぎゃ」とか、なすすべも無く細い悲鳴を上げることしかできない。
そして、玄関ホールまで到着すると──あろうことかアネモネを外に放り出したのだ。まるで野良猫を摘み出すかのように。
「痛ったぁい、なにするんですかっ」
さすがの対応にアネモネは尻もちをついた状態で、思わず抗議の声を上げる。
けれどアニスは、それの5倍は大きい声量で一喝した。
「うるさい、黙れっ。二度とここには来るなっ!!」
耳をつんざく程の大声量で叫んだと思えば、後ろから慌ててついてきた執事からアネモネの荷物を受け取ると、そのまま乱暴に放り投げた。
すぐに、ぼふんっと空気が爆ぜる音がする。
壊れた音はしなくて幸いだったが、そういう問題ではない。
「ちょっとー!──……あ……あぁ」
アネモネの二度目の抗議は、無情にも閉じる扉の音で遮られてしまった。
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