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Side 瑞稀
まったく。こんなことに時間を使う羽目になった俺は、舌打ちをしたい気持ちを抑えて柚葉さんにメッセージを送る。
今日だって柚葉さんの美味しい料理を食べて、一緒に眠りたかったのに。
幸せボケと言われようが関係ない。こんなにも人を愛するということが、浮かれてしまうことだと知った。
そして……一番は、あの男に会いたくない自分だ。
柚葉さんの初めてを奪った、最低なあの男。
会ったらどんな感情が襲うのか、自分でもわからなかった。
しかし、これで最後だ。
もうすべてを終わらせる。そう思いながら、俺は待ち合わせの駅へと向かった。
柚葉さんにこのことを話せていないことが、心の中でしこりになっている。
このまま何も知らないまま終わってくれないだろうか――そんな淡い期待を持ってしまっている。
真実を話して、柚葉さんが俺から離れてしまったらどうしよう。
そればかりが怖くて話せなかった俺は、臆病で卑怯だとわかっている。
幸せになればなるほど、柚葉さんを失うことが怖くて仕方がない。
そんなことを思っていると、憎い男が目の前に現れた。
「瑞稀君、久しぶりだね。どうしたんだい?」
何も知らないのだろう、いつもの軽薄な笑顔を浮かべながら俺に歩み寄る。
「結婚式以来ですね。お義兄さん」
皮肉をたっぷり込めた俺の言葉の意味を、この人はわかっているのだろうか。
そう、目の前の男――大林優弥は俺の妹の夫だ。
すなわち、柚葉さんを捨てて、俺の妹を騙して結婚した最低な男。
その男を、俺はこれでもかと冷たい視線で見つめた。
一年前
『お兄ちゃん、彼、浮気してると思うの』
『え? 大林先生が?』
妹の結婚が決まったと聞いて帰った実家で、妹の絢美は俺と二人になるなりそう口にした。
大きなベージュのソファーに座り、思いつめたような表情をしている妹の絢美に視線を送る。
確かに妹と大林先生はお見合いだが、絢美は優しくて、年上の大林先生とうまくやっていると思っていた。
『気のせいじゃないのか? 式だってもうすぐだろ』
三カ月後に盛大な結婚式を控えているのに、そんなはずがないと俺は絢美を諭す。
俺の実家は全国に何カ所か構える総合病院だ。
父がその病院長で、妹の絢美は父に紹介された大林先生にすぐに夢中になった。
ルックスも良く、医者という職業柄、大林先生だって過去に何もないとは言わないが、今そんなことをするだろうか。
半信半疑のまま絢美を見れば、窓の外の大きなプールと芝生に目を向けながら、小さく息を吐いた。
『そうよね……』
キュッと唇を噛んで、絢美は何かを考えるような表情を浮かべたままそう呟いた。
『何か思い当たることでもあるのか?』
『なんとなく女の勘? 連絡が取れない時間がよくあるのよ』
その時は、俺はドクターなんだから電話が取れないことぐらいあると諭した。
しかし、やはり可愛い妹のために彼の身辺調査を始めれば、俺は目を疑うような報告が上がってきた。
それは、結婚式を数日後に控えた日のことだった。
【長年付き合っている女性がいた】
その名前を見たときの衝撃は、今でも忘れない。
それ以来、柚葉さんを目で追うようになった。
日に日に元気がなく、ぼんやりする柚葉さんに、もしかしなくても結婚のために大林が彼女を切ったのだと、容易に想像がつく。
きっと柚葉さんも被害者だろう。
だから、あのミスが起こりそうになった日、柚葉さんをずっと見ていたからこそ、彼女の異変に気づいた。
しかし、柚葉さんと別れたのなら、そのことを絢美に話すのは得策ではないと俺は判断した。
そして、何事もなかったかのように結婚式は行われた。
それからも、柚葉さんと大林がまた会いださないように見張る――そんなことを思っていたのは事実だ。
婚活をしている、それだけがわかればよかったはずなのに、俺は何かにつけて柚葉さんに関わりたかった。
妹のため――そんな大義名分をこじつけて柚葉さんに近づいた俺だったが、今はもう柚葉さんと離れることなど考えられない。
一緒にいて、大林と連絡を取っている様子もなかったことから、もうこれで大丈夫だと思っていた。
しかし、また絢美から連絡が入る。
『やっぱり彼、他に女がいる』
え? まさか?
柚葉さんにそんな様子を微塵も感じない俺は、絢美に苦笑しつつ否定するも、絢美は断固として譲らなかった。
『絶対いるわ』
自分で尾行でもしそうな絢美に、俺はもう一度調査を依頼する。
前回の調査では柚葉さんのことは過去の話だったため、大した報告はなかったが、今度は違った。
他の病院の看護師との生々しい写真や音声。俺は唖然としてその内容を確認する。
絢美との結婚も、大病院の次期院長の座を狙うためだと言っている内容や、「昔の女も結婚のために捨てたんだ。たまにしか会わないのに付き合っていると思ってて、バカな女だった」――そんなベッドの中でのピロートークもあった。
『その点、お前は金があればいいもんな』
クスクスと笑い合う男女の声。甘ったるく媚びるような女の声に、吐き気さえ覚える。
同じ男として、殴りたい気持ちを抑えつつ、イヤホンを外し、調査会社の報告書を閉じた。
そんなことがあり、今日は大林を呼び出した。
絢美に細かくは説明しなかったが、女癖が悪いという調査報告が来たと伝えれば、ただ静かに頷いただけだった。
けじめをつけるためにも、家の中ではなく外で話したいという絢美の願いで、俺は大林を呼び出し、待ち合わせをしたのだ。
何も知らないのだろう。誠実そうな表情で笑う大林に、苛立ちが募る。
「どうしたんだい? 瑞稀君。可愛らしい顔が、なぜか怖く見えるよ」
大林の唇が弧を描く。それすら苛立ちを覚える。
なんとかそこでの言葉を飲み込むと、絢美とも待ち合わせをしているカフェに二人で入った。
そして、俺は単刀直入に話を切り出す。
「絢美が別れてほしいそうです」
「は?」
大林は心底意味がわからないといった表情を浮かべた。
「なんだい? 急に。どうして君から?」
「絢美も来ますが、待ち合わせの時間をわざと遅く伝えました」
そう、こんな生々しい話を絢美には聞かせたくはない。
自分がいいように使われ、愛情など何もなかった――そんなことを知れば、これからの恋愛に支障が出るだろう。
浮気をしていたことだけを認めて、離婚できればそれでいい。
俺はそう思いながら、目の前に資料を突きつける。
そこには女とホテルに入る様子や、そこでの会話の記録などが鮮明に記された調査書だった。
それを見て、大林の顔がみるみる青白くなるのがわかる。
「これでもまだ離婚の言い逃れをしますか?」
低く感情のない声で問いかければ、大林はフッと笑い声をあげた。
「絢美ならわからないと思ったんだが、気づいてたのか。しまったな」
悪びれる様子もなく、目の前のコーヒーに手を伸ばしながら、大林は不敵な笑みを浮かべる。
「世間知らずのお嬢さんだと侮ったんでしょ?」
俺の問いに、大林は答えなかった。
「これはまだ一部ですよね。絢美と結婚が決まる前にも、長く付き合っていた女性がいたんでしょう?」
柚葉さんの話などしたくない気持ちと、少しだけ聞きたかった気持ちがせめぎ合い、結局、聞きたい気持ちが勝ってしまった。
口に出した言葉を取り消さずにいると、目の前の大林は少し考えるような表情をした。
「そんなものはいない」
ごまかしているのか、本当に大林にとっては遊びで、付き合っているつもりすらなかったのかはわからない。
だが、柚葉さんの受けた傷はとても大きい。
「貴方のしたことが、彼女の人生を変えたんですよ! 優秀な看護師の!」
苛立ちながら、俺が初めて声を荒げると、今までとは違う不敵な表情を浮かべた大林がいた。
「ああ、柚ちゃんと同じ病院だったな。瑞稀君」
その言葉には、俺の気持ちを見透かしたような、明確な挑発が含まれていた。
「この……どれだけ柚葉さんが傷ついたかわかってるのか!」
立ち上がって胸ぐらを掴んだところで、
「やめて!」
と声が響いた。
そこには絢美の姿があり、そして――なぜかその後ろに柚葉さんの姿まで見えた。
「絢美――」
パンッ!
乾いた音が、店内に響き渡る。
いきなり繰り広げられた光景に、俺は一瞬、思考が止まった。
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