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Black


羅針盤。

その言葉を聞いたお客の彼は、意外そうに眉を上げたあと笑う。

「おしゃれなマスターらしいです」

「そこの理由は訊かないんですね」

アハハ、と楽しそうな笑声をあげた。そういえば、笑い声を聞いたのは初めてかもしれない。

「じゃあ、教えてください。どうして羅針盤なのか」

俺はもったいをつけるように、フィルターに挽いた粉を入れてケトルのお湯を注ぐ。3回に分けて注ぐといいというのが、先代のマスターから教えられたことだった。

「僕らの命って……時計仕掛けだと思うんです」

「時計仕掛け?」

「そう。リミットが決まっていて、そこに向かって刻一刻と命を燃やしていく。人それぞれ時限は違うけど」

「はぁ」

「…それでも、決められた時間のほんとに最後だけでも、ひとりでいる人にいいほうへと方向を示してあげたい。心に残るようなコーヒーを淹れてあげたい。そういう店にしたかったから、羅針盤っていう意味の言葉にしたんです」

お客さんは、満足そうにうなずいた。

「確かに…俺の人生、今すごくいいところにいる気がします。それどころか、もっと幸せなほうに行けそう」

そう言ってマグカップを掲げてくれた。

「それは良かった」

自分の分のコーヒーをいつものカップですする。

「……俺、もともとはビストロでギャルソンしてたんですよ」

知らないうちに、口が動いていた。

「自分で喫茶店をつくるのが夢で、接客業の経験を積むために働いてて。そこで知り合った友人に、言われたんです。『余命を告げられたのに、そんな大層な理想を掲げてもいいのか。後悔するんじゃないのか』って」

彼の表情が曇る。いつからか雨が降り出していたのだろうか、わずかに雨音が聞こえてきた。

「だけど、俺は諦めたくなかった。中途半端でもいい、始めたってことが俺にとっては最大の勲章なんじゃないかって。それで、ここにあった喫茶店に出会ったとき、俺の羅針盤が真っ直ぐ北を向いたんです」

もうすっかり息苦しさは消えていたけど、深呼吸をする。

「俺の名前の由来である北斗七星……その星が、この目で見えた。だからこれからは、それまでの俺みたいに迷える人たちの場所を、ささやかでも作ろうって」

彼はカップを手にしたまま、笑っていた。

「あっすいません、なんか俺だけ自分語りしちゃって…」

いやいや、と手を振る。「聞かせてくれて嬉しいです。そうか…、俺らは、ピクシスで星を探してたんですね」

うんうんとうなずいて、理解してくれたようだ。

「じゃあ、俺は明日の太陽を探しに行こうかな」

そんなことを言って、「ごちそうさまでした」とお客さんは立ち上がる。代金を受け取り、挨拶をする。

「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」


壁掛け時計を見上げると、閉める時間に近づいていた。

コーヒーを飲み干し、そろそろ売り上げ管理を始めようかとファイルを取り出してきたとき、来客を告げるカウベルが鳴り響く。

「……っと。いらっしゃいませ」

ファイルをしまって、笑みを浮かべる。その笑みには、安堵も混ざる。

なぜかって、それは。

桃色のカップでお出ししていたお客さんだったから。

「お久しぶりです。カフェオレで、よろしいですか」

「ふふ。クリームたっぷりでお願いします」


終わり

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