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春陽って、雪斗の元奥さんの名前だ。
声の感じからも、たった一度だけ会った彼女に間違い無いと思った。
驚きに立ちすくんだまま動けない。その間にも録音は続いて行く。
「雪、明日なんだけど都合が悪くて会えなくなりました。また連絡を……」
会えなくなった……その言葉を聞いた瞬間、電話に駆け寄り受話器を取っていた。
「もしもし!」
私が出たことに驚いたのか、春陽さんは言葉を止めた。
それから恐る恐るといった声が聞こえてくる。
「……美月さん?」
「はい」
「あの、雪は?」
「外出しています。あの……」
聞きたい事は沢山有るのに、考えが纏まらない。
電話に出たのだって、衝動だ。
雪斗と春陽さんが明日会う約束をしていたなんて、全然知らなかった。
気付かなかった。
だからショックで、冷静さを失って後先考えない行動をしてしまった。
「ごめんなさい。美月さんが出るとは思わなかったから」
どうして?
雪斗は同棲していることを言ったはずなのに。でも知っていたら、たとえ携帯に繋がらなかったとしても固定電話にかけてくるわけがない。
不意に真壁さんの言葉が蘇った。
『じゃあどうして藤原君は、前の奥さんと会ってるのかしら?』
あの時はショックを受けながらも雪斗を信じようと思った。真壁さんが私を傷つけようと嘘を言っているのだと。
実際雪斗は春陽さんと会っていないって言ってたし。
でも、嘘をついていたのは雪斗だったの?
「美月さん?」
「あ、ごめんなさい」
「いえ、雪が戻ったら連絡する様に伝えてくれる?」
「……あの、雪斗と今も会っているんですか?」
こんなにストレートに言うつもりはなかった。
でも、黙っていられなかった。
「最近用が合って連絡取り合ってるの。でも久しぶりのことなのよ。展示会で再会する前は疎遠だったし」
「さっき明日も会う約束をしてるって仰っていましたよね」
「そうなの、でも都合悪くなって……」
「あの、どんな用件なんですか?」
踏み込んで聞きすぎているって分かってる。
でも黙ることが出来なかった。
結局、知りたい答えは返って来なかったけれど。
「それは私からは言えない。雪斗に聞くといいわ」
「……そうですか」
「あの、勘違いしないでね。雪が美月さんと付き合ってるのは分かってるし、疚しいことは無いから心配しないで。それじゃあ、遅くにごめんなさい」
私が何か言うより早く通話は切れる。
虚しい機械音だけが受話器から聞こえていた。
この状況が信じられなかった。
何かがガラガラと崩れて行くような感覚。
真壁さんの事で嫉妬して不安になりながらも、結局私は雪斗を信じていたんだ。
彼の言葉を一番信用していた。
だから今聞いたばかりの事実が受け入れられない。
雪斗に嘘を吐かれていたという事実が。
二度と傷付きたくないと心配ばかりしていた私なのに、雪斗を信じていた。
彼なら大丈夫。私を裏切る訳ないって。
矛盾してるかもしれないけど心の底ではそう思っていた――。
散々悩んで、雪斗に電話することに決めた。
真実を聞くのは恐いけど、知らなかったふりは出来ない。
仕事中かもしれないけど、とにかく連絡を取りたかった。
でも、電話は繋がらなかった。
春妃さんも同じような状況だったのかな。
……ふたりで会う用件ってなんだろう。
分からないことが多すぎて身動きが取れない。
雪斗と話し合えない今夜、どうやって過ごせばいいんだろう。
大切な人の裏切りは湊で経験してるけれど、こういうのって慣れることが無いんだな。
二度目でも……きっと何度目でも苦しい気持ちに変わりない。
悲しい経験から無邪気に信じる事が出来なくなってしまっているのに、受ける痛みは和らがない。
雪斗を失いたくない。
嘘を吐かれて、裏切られた気持ちでいっぱいだけど、それでも好きで堪らない。
だからこそ声を聞いて、話したいのに……。
今、気持を伝えないとこのまま離れていってしまいそうで恐かった。
結局雪斗とは連絡が取れず、眠れないまま朝を迎えてしまった。
メールでやり取りする気にはなれなくて、春妃さんのことは伝えないままだ。
でも今頃春妃さんから、昨夜のやり取りを聞いてこっちの状況を把握しているかもしれない。
出社後は仕事に追われ、あっと言う間にお昼になった。
昼食後は有賀さんに付いて外出し、そのまま直帰する予定になっている。
ボロボロの精神状態がばれないように平静を装って仕事をこなす。
新製品の納品が始まるため、今日の打ち合わせは特に長い。
幸い有賀さんも顧客の担当者も私の様子が変だとは全く気付いていない様でほっとした。
「秋野さん、もう完全に顔を覚えてもらったね」
薄暗いオフィス街を歩きながら、有賀さんは機嫌良く言った。
「そうですね。もう何度か来てますから」
「簡単な打ち合わせなら一人でも大丈夫そうだね!」
今日の有賀さんは珍しくテンションが高い。
何か良い事有ったのかな。
比べて私はどん底だから、合わせるのに苦労する。
殆ど有賀さんが話し、私が相槌を打ちながら移動する。
しばらくすると有賀さんが言った。
「秋野さんは地下鉄だよね」
有賀さんも直帰だから会社に戻る時とは違いJRの方向を目指して進もうとする。
「いえ、ここからなら私もJRを使います」
乗り換えの関係でその方が早い。
ところが有賀さんはなぜか困った表情をした。
どうしたんだろう。私がJRを使うと何か問題が有るの?
駅に向かいながら有賀さんを横目で見る。
気まずそうな顔をしているように見えるが実際のところは分からない。
でも駅前に着いて直ぐに彼の態度の理由が分かった。
広場になっている所に有る大きな時計の下に、水原さんの姿を見つけたからだ。
二人はここで待ち合わせをしていたんだ。
付き合ってるんだから不思議は無い。問題は水原さんの隣に湊が居て何か言い合っている事だった。
どうして湊が水原さんと一緒に居るのだろう。
有賀さんも湊の存在に気付いたのか、一瞬動きを止めた。
次の瞬間、早足に湊と水原さんに近付いて行く。
この状況は、かなりまずい。
有賀さんは湊の事を知らないはずだけど、湊は有賀さんの立場に気付くはず。揉め事になるかもしれない。
「あっ、有賀さん……」
水原さんが有賀さんに気付いた様だった。
ほっとしているけど気まずさも感じている様な複雑な顔に見える。
まあ当然だと思うけど。この状況じゃ……。
有賀さんは水原さんの目の前まで行くと立ち止まった。
「遅くなってごめん」
「あ、私が早く着きすぎたから……」
水原さんが細い声で応える。
有賀さんは頷くと、ようやく湊に視線を移した。
「友達?」
水原さんに確認する様に問いかける。
「あ、あの……」
水原さんは言葉を濁し、俯いた。
凄く困ってる様子に見える。
湊と何をしていたのか知らないけど、彼女にとってもこの状況はまずいのだろう。
それはそうだ。結婚まで意識してる有賀さんに湊の事を知られて嬉しいはずが無い。
沈黙が訪れる。
私はそっと立ち去ろうと踵を返した。
有賀さんに声をかけないで帰ることになるけれど、こんな場面を私に見られる方が嫌だと思う。こちらの意図を察してくれるだろう。けれど。
「美月さん?」
水原さんが私に気付いた様で、高い声で呼びかけて来た。
有賀さんが直ぐに振り返り、私を見る。
それから、それまで固い表情でじっと黙っていた湊も私を見て声を出した。
「美月……どうしてここに?」
有賀さん以外は私の存在に驚いている様子だった。
もっと早く立ち去らなかった事を後悔したけど、既に遅い。
「彼は秋野さんの知り合いなのか?」
有賀さんまで私に聞いて来る。
やっぱり湊の事は何も知らない様だった。
「彼は……」
何て答え様か悩んでると、水原さんが割り込んで来た。
「彼は秋野さんの昔の恋人なの」
「え……そうなのか?」
有賀さんが驚いた様子で私に問いかける。
でも返事をする気になれなかった。
自分と湊の関係には触れないのに、私と湊の関係は平気で暴露することや、そもそもの別れの原因が自分なのをすっかり忘れた態度。
水原さんの何もかもに腹が立って仕方なかった。