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これしかない、と賭けたチップは余りにも重かった。
「それに見合う対価を示してもらおうか」
鈍く光る剣先は肉を切り裂く寸前、這い蹲る伯理の首の皮一枚で止まる。真打を回収すべく漣家宅へ侵入した千鉱達の鮮やかな攻勢は、京羅の妖術と濤の登場、そして呼び寄せられた伯理によって瞬く間に劣勢へと転じた。
人質としてすら価値のない息子を断罪する京羅と、憧憬を抱き身を挺して千鉱を救った伯理。己の価値は他人の物差で測り得る代物ではない。血を分けた肉親でさえ否定するのなら、その”価値”を示してみせる。
「此方へ。伯理これと交換といこうか」
歩き出した千鉱の背後から感じる強い視線は柴のものだ。形身である淵天を差し出すなど以ての外、しかし誰よりもその選択を避けたかった千鉱の意思を尊重し留まってくれている。牙を剥き出し爪を振るえば一瞬で片が付くだろうに、獅子は金色の鬣を揺らすだけ。一瞬たりとも千鉱から外れぬ鋭い目が彼越しに敵を強く射抜いていた。
背を抑えていた足が離れ、圧迫感からの解放と共に伯理が立ち上がる。
「チヒロ…」
「大丈夫だ」
不安気に揺れる青と真っ直ぐな赤が交錯する。たった一言、それなのに何故こんなにも安心するのだろう。伯理を通り越し京羅の前に立った千鉱は一瞬の逡巡の後、帯刀ベルトから淵天を抜き取った。
「取引成立だ」
自らの妖術の秘匿性を開示してでも得た対価は余りにも大きすぎる。幻の遺作、七本目の妖刀が遂に京羅の手へ渡る────その筈だった。
「っ!?」
がしりと大きな手が淵天を、否、千鉱の手首を掴んだ。
「不法侵入と器物損壊、そして蔵の武器。大した損失ではないが、まさか賠償もなしに帰れるとは思うまいな?」
細い手首を一周する厚い手は見目にそぐわず強い力で拘束する。剥かれた素肌を起点に温い何かが、じわりと広がっていくような気味の悪い感覚。ぞわりと走った悪寒に身を捩らせたのも束の間、ボコ、と聞き覚えのある音が鼓膜を叩いた。
「な、っ」
「君自身で払ってもらうとしよう」
宙に噴き出す黒い泡を視認した時には既に千鉱の身にも魔の手が及んでいた。手首や肩から湧き上がるそれに溶かされるように、至る所の感覚が無くなり始める。
「チヒロ!」
「っ走れ、ハクリ」
振り返ると驚愕の表情を浮かべる伯理と動き出す濤が見えた。手印を結ぶ柴の姿も。
(柴さん、)
コポコポと溢れ出す黒に視界を遮られる中、千鉱は柴だけを見つめていた。焦りを滲ませながらも固い意志を灯した赤い瞳が、闇に消されることなく光っている。
「……ッ!」
千鉱の言わんとすることが分かったのだろう。普段滅多に表情を崩さない柴が目を見開き、苦虫を噛み潰すように歪めるのを見た。いつも自身を尊重し無理を通してくれる彼に今更ながら申し訳なく思う。
(ハクリ、を)
柴なら伯理を連れて問題なく逃げ出せるだろう。千鉱とてただで捕まるつもりはない。これは賭けだ。淵天は渡さない。己の命を賭してでも必ず真打を取り戻す。
水中に吐き出される泡の如く、耳障りな音と共に視界は黒く埋め尽くされた。
びくり、と体が震えたのを知覚した。急速に浮上した意識が頬に触れる固く冷たい感触を訴え、重い瞼を開いた先では縦列する鉄柵に出迎えられる。やけに低く狭い視界に、漸く千鉱は横たわっていることに気付いた。軽い頭痛に眉を寄せながら何とか上体を起こすと、翳る足元と四方を囲む鉄格子。直前の記憶と現状から得られた答えは、自身が檻に囚われたという事実だけだった。あの一瞬で蔵へと登録されたらしく、連綿と続く一族当主としての実力は伊達ではないようだ。
「!」
ガチャリと金属の擦れる音が千鉱の動きを制する。違和感の正体は隻腕の千鉱に残された左腕。捩るようにして裾の下から現れたのは、左手首に嵌められた手枷だった。手錠のような金属製のそれから伸びた鎖が鉄格子へと繋がれ、千鉱を縛めている。何度か強く引いても耳障りな音が虚しく鳴るだけ。ただでさえ狭い檻の中で手厚い歓迎を受けた千鉱は静かに溜息を吐き、抵抗を諦めた。
格子に凭れ、首だけを動かして現状を把握する。檻は低く、立ち上がれたとしても千鉱の身長では膝を曲げても頭をぶつけるだろう。競売人の目にどう映ったのか定かではないが、口振りからして千鉱自身も商品として扱われているらしかった。
(淵天は何処に…)
大きく離れた位置に商品のケースが密集しているのが見えた。あの中の何処かに保管されているに違いない。
ふ、と一つ息を吐き目を閉じる。五感を閉ざすように意識は深く、より集中へと沈む。
淵天。父と共に作り上げた最後の妖刀。相槌を打ったに過ぎない、それでも生まれた時からずっと一緒にいた存在。
(───応えてくれ)
何処にあろうと淵天これは俺のものだ。
暗闇に一つ、光が灯る。千鉱に呼応するように線香花火の如く玄力が爆ぜた。伸ばした手が柄に触れるのを確かに感じ取る。
無尽蔵に立ち並ぶケースの群れの中、刀掛けに飾られた淵天の鍔と鞘の僅かな隙間から水滴が迸る。主に呼び覚まされた黒い金魚が顕現した。
ふう、と吐いた息は安堵の色を宿していた。まずは一手。涅を通して周囲を偵察し蔵の攻略法を見つける。推測通りなら必ず”保険”がある筈。それに乗じれば、あるいは。
「!!」
ぼんやりと知覚した領域に突如として引っ掛かる存在。瞬時に移動させた涅は物影越しに京羅の姿を捉え、千鉱は無意識に息を潜めてその場を離れさせた。
ゆらゆらと尾鰭を揺らしながら宙を泳ぐ金魚。ケースに収まった骨董品や剥き出しのまま佇む武器。そして千鉱のように檻に囚われた人々。物理法則を無視した果てのない空間が縦横無尽に広がっていた。
「……、?」
そしてその変わり映えのない光景に、一つの異なる色を捉えた。
(長身の…男か?でも京羅じゃない。誰だ、こいつは)
まるで美術品を鑑賞するかの如く、緩やかな足取りで闊歩している。正体不明の何者に意識を向けていた千鉱に近付く、一つの気配。
「流石に目覚めていたか」
「っ!」
掛けられた声にハッと目を開く。京羅との再会は檻越しに、あの時と狩人の立場が逆転していた。
「おはよう。居心地はどうかな?」
「…良く見えるのなら医者にかかった方がいい」
「ははっ!これは失礼。どうやら機嫌がよろしくないようだ」
辛辣に返す千鉱を見て京羅が愉快気に笑う。妖刀の契約者といえど刀を取り上げてしまえばただの無力な青年に過ぎない。赤い瞳を細め毛を逆立てる黒猫にしか見えなかったのだ。
「窮屈な思いをさせてすまないね。妖刀を出品した君への対価があれだけというのは、競売人としての矜持に些か欠けるのだが…残念ながら君も私の商品だ」
ス、と長い指先が向けられる。
「六平千鉱、彼の高名な刀匠の息子にして血を継承する唯一の存在。君を欲しがる人間はこの世にごまんといる。血も肉も、そして君自身・・・も」
「…っ、」
京羅の言葉に決して心当たりがないわけではなかった。幼い頃からあの山奥でひっそりと暮らしていた理由。父に代わり外に連れ出してくれた柴と薊と交わした、姓を名乗らないという約束。幼いながらに悟った意味を口に出すことはなかったけれど。
「喉から手が出る程の代物だ。競売に掛ければさぞ高い価値が付くだろう」
「それは困るな」
突如割って入ってきた声。明瞭な音が空気を切り裂き端的に異議を唱える。こつり、と革靴を鳴らして近付いてくる影。
「そいつは売約済みだ。そう言った筈だが?」
「無論分かっているさ。疎い彼に市場価値を示したまでだ」
現れたのは黒いスーツに身を包み、顔に独特の紋様を刻んだ一人の男だった。薄い笑みを浮かべ此方を見遣る昏い瞳と交錯した瞬間、千鉱の背筋をぞわりとした寒気が走り抜けた。冷たく異質な雰囲気を漂わせる目の前の男が涅越しに見た長身の輪郭と重なる。
「六平千鉱、喜ぶといい。君の買い手は既に決まっている。史上最高の祭りに一役買ってくれた君への礼を込めて、当日は特等席を用意しよう。真打と淵天の競りを間近で眺めるといい」
出品者と落札者、二対の目が千鉱商品に向けられる。翼を捥がれた籠の中の鳥が再び空を舞うまで、静かに時計の針は動き始めた。
亜空間に形成された蔵では昼も夜もあったものではない。楽座市の開催が刻一刻と迫る中、千鉱にできることは涅を通しての偵察だけだった。真打の在処と蔵の大まかな構造を把握できたのは僥倖だろう。
ずきりと痛みを訴える頭に促されるまま、千鉱は涅との接続を切る。遠隔での発動は然程難しいものではないが、着実に疲労は重なり始めていた。
「精が出るな」
緩んだ隙を突くように聞き覚えのある低音が発せられる。俯いていた顔を上げると存外近くに男が立っていた。千鉱を落札したらしい謎深き男。蔵を自由に歩く権限を与えられているあたり、漣家当主と対等かそれ以上の関係なのだろうと予想できた。
「だがそれ以上は止めておけ。その枷は対妖術師用の拘束具…玄力に反応し出力を狂わせる。お前が抗い続ける限り、回復の兆しは見えないだろうな」
(こいつ…)
水面下の抵抗を知りながら敢えて見逃されている。玄力の消耗が激しいと思っていた矢先の答え合わせ。ご丁寧にも千鉱の抱える疑問に答えを示したりと、この男の行動が読めなかった。
「お前は誰だ。何故俺を買った?何が狙いなんだ」
「質問が多いな。俺は無駄話は好まないが…お前相手なら話は別だ」
スラックスに隠れていた両手を出した、その何気ない仕草を追う千鉱の視線がある一点に固定される。瞬きすら忘れて大きく見開かれた目が痛みを訴えていた。
右手の甲に刻まれる、炎のような紋章。血塗れで地に沈む父の後ろ姿がフラッシュバックした。
「毘灼…ッ!」
「ご名答。俺は毘灼、統領」
ガチャガチャと鳴る悲鳴は千鉱の心情を代弁するかのよう。たとえ丸腰でも、囚われの身でなければ既に飛び掛かっていただろう。
「何故此処に…!何を企んでいる!」
「あまり騒ぐな、面倒を起こすと奴が来る。商品らしくじっとしていろ」
シィ、と唇に指を立てる。整った容姿の男はそれだけで絵になるが、生憎審美眼どころか仇への憎しみしか持ち合わせない千鉱を煽るだけだった。
「淵天を差し出すとは大きく出たな。お前自身も出品されたと聞いた時は何の冗談かと思ったが…中々興味深いことをする」
「…っ、目的は何だ」
「楽座市の完遂さ。そのために漣家にはいくつか手を貸すことにした。邪魔が入っては困るからな」
ゆっくりと近付いてくる男を強く見据えながら、しかし千鉱は無意識に後退していた。背後から伝わる固さが逃げ場はないと残酷に告げている。千鉱の傍で止まった男が片膝を着き、その端正な顔立ちが露わになる。
「お前を買ったのは競売までの暇潰しだ。有象無象に晒すよりは手元で眺めた方が楽しめるだろう?」
狂い寄せる渦のように、水面を揺らがす波紋のように。不思議な虹彩を描く瞳で獲物を誘き寄せ、昏い底無しの沼へと引き摺り込む。視線を逸らせず怯んだ千鉱へ音もなく影が忍び寄る。
「ぐ…っ!?」
鉄格子の隙間から侵入した男の左腕は蛇の如く細い首に巻き付き、千鉱の体が檻へと押さえつけられる。枷の食い込む手首が痛みに呻く。男は空いた右手を徐に口元へ寄せると、そのままぶちりと指へ歯を立てた。薄い皮膚を鋭く裂いた傷口から鮮血が滲み出す。突然の奇行に驚いた表情を浮かべる千鉱の、その緩んだ唇へ無理矢理捩じ込んだ。
「んッ!?く、ぅ…」
「飲め」
「んん…!ぅぐ、っ……ふ、」
生き物のように纏わりつく指は馴染ませるように舌を愛撫する。首元を固定し上向かせた状態で、赤い命の雫が内側を流れ落ちていく。ごくりと嚥下に動いた喉元を見て男の目元が満足げに綻んだ。
「っは、げほっ…はぁ、なに、を…」
「玄力の供給だ。少しは楽になっただろう?」
口腔内を貪る長い指が抜かれる頃には、ぐったりと弛緩した体から抵抗の色は消え失せていた。息を乱す薄い唇を宥めるようになぞり、濡れた口端を拭う。
「何の、つもりだ…」
「邪魔をするなとは言ったが大人しくしろとは言っていない。好きにするといい。競売が無事に終われば後は構わないからな」
すり、と指先で目元を撫でられぴくりと体を揺らす。また来る、と言い残した男へ舌を出せたらどんなに良かったか。口内に残る鉄臭い味は暫く消えてくれそうになかった。
皮肉にも仇敵によって回復した千鉱が新たに見つけたのは扉らしきものだった。波のような紋様が描かれた異様なそれは、推測が正しければ外界と繋がる非常口だろう。千鉱にとって唯一の突破口。巡る思考は打ち寄せる波へと流され中断される。
「く、…っ」
ズキリ、と大きく血管が脈打つような気がした。痛みの根源は考えるまでもなく切断された右腕だ。消えた腕の先が恨むように、泣き叫ぶように痛みを発し始める。
双城との戦い以来、度々千鉱は幻肢痛に襲われていた。自分なりに練習を重ねるシャルの治癒は上達しているが、一度失ったものを元通りに治す技は一筋縄ではいかないらしい。痛みに襲われるのは専ら休息を取る夜間だが、緩む隙を狙うかのように必ず千鉱が一人の時に現れていた。
「はっ、はっ……ぅ、」
枝分かれする神経を刃物で切り開くように鋭い電気が全身へと走り抜ける。あの戦いで失われた命の重さを、兵器へと変貌を遂げた妖刀の力を忘れるなと言うように、鮮烈な痛みを以って千鉱を苛み続ける。
痛みを逃そうと捩った体は意思に反して床へと崩れ落ちた。
痛い、熱い、痛い、痛い。
頬に触れる金属の冷たさだけが唯一の慰めだった。額に滲む汗を拭う手も力もない。この疼痛が長くは続かないことを知っている。いつものように耐えていればそのうち終わる。大丈夫だ、耐えろ、耐えろ────。
「痛むか」
耳元に降り落ちた声。傍で感じる気配。倒れ伏す千鉱の右腕に、コート越しに触れる掌の感触。この数日で慣れてしまった存在の正体を知っているというのに。紡がれた低い声も、傷口に触れる手も、酷く優しげなのが不可解だった。
重たい首を何とか動かして見上げた先には、膝を着き千鉱を見下ろす男がいた。
「…おまえには、関係ない」
搾り出すような千鉱の声を聞き届けた男は嘲笑うのでもなく、額から流れ落ち涙のように跡を残した汗をそっと親指で拭った。崩れ落ちた千鉱の体を抱き起こす力も、恐らく刺激を与えぬよう加減されていると分かってしまった。
「はな、せ」
「暴れるな。大人しくしていろ」
静かに告げる声色にそれ以上の感情は読み取れない。千鉱を抱き上げ移動する男の腕の中で、その時初めて周囲の変化に気が付いた。
狭い檻の内側でも、殺風景な蔵の中でもない。最低限度の、それでも品の良い家具が置かれた一室だった。男の妖術か、はたまた京羅が手を加えたのか。今となっては分かる筈もない。
そっと下ろされた体が柔らかいベッドへと沈む。質の良さを感じさせる滑らかな手触りと、仰向けに横たわる千鉱を囲うように乗り上げる男の重さ。
「…触るな」
「可愛げがないな。辛いんだろう?恥じる必要はない。体の一部を失えば痛むのは当然のこと。俺だって腕が千切れれば痛い」
ぐっと近づく男の胸元を押し返すも、疲弊しきった腕に大した力はなく。左手首に嵌められた枷は姿を消していたが、くっきりと残る痕だけが檻の中で過ごした時の長さを証明する。
すり、と目元を撫でる指を拒絶するように顔を反らした千鉱が男を睨む。
「何をするつもりだ」
「何も。ただ腕を治すだけさ。だが生憎俺は専門じゃなくてね、少し時間が掛かる。お前は享受しているだけでいい」
「…どうしてお前がそんなことをするんだ。何故俺をさっさと殺さない」
「何のためか…それくらいは答えてやろう。俺の目的のため、六平千鉱。お前が必要だからだ」
千鉱の左頬に残る大きな傷痕を、忌まわしい紋章を刻んだ手で撫でる。まるで慈しむような手付きだった。
「途中で力尽きても困るんだ。片腕じゃ何かと不便だろう?俺は意味のないことはしない。互いに利のある取引といこう」
「っ、意味が分からない…!」
「分からなくていい。今はまだ、な。お前は俺だけを見て、何処までも殺しにかかってこい」
話は終わりだというように男の顔が接近する。鼻先が触れ合いそうな距離の中、二対の異なる色が交錯する。一つは愉しみに満ちた色を乗せて、もう一つは隠しきれない動揺を滲ませて。
千鉱の薄い唇を長い舌が這う。怯んで僅かに開いた隙間から捻じ込まれる異物。
「ん…ッ!」
「全く、学ばないな。昨日もやっただろう。お前が受け入れなければ始まらない。無駄なことをするな」
抵抗する千鉱に溜息を吐いた男の指が口端に捩じ込まれ、無理矢理開かされた口内へ再度侵入を果たす。奥へ逃げる小さな舌に巻き付き、引き摺り出して絡み合う。はしたない水音がその口接の激しさを物語る。
「ふ、…ぅ、んぐ、っんん…!」
軽い酸素不足に追い込まれた千鉱は遂に陥落し、流し込まれた唾液が少しずつ飲み込まれていく。生暖かい雫が喉を通り抜け、やがて腹の内で解けて溶ける。じわじわと全身に広がる熱は焼けるような痛みを打ち消していった。
「んん…、ふぅ、ん…」
「いい子だ」
精神をも削る痛みからの解放に、本能的に受容する姿勢を取った四肢が弛緩する。右腕が熱い。しかし不快ではない。空いた体に許容量以上のアルコールを流し込まれたように、くらくらとした酔いにも似た熱が千鉱を浮かす。
「それでいい。お前はただ、俺に身を委ねていればいい。少し眠れ」
胸元に置かれていた左手を男が掴み、恋人同士のようにぴったりと組み合う。
「見返りに少し俺の戯れに付き合ってくれ。楽な作業ではないからな。それくらいは許されるだろう?」
男の高い鼻梁が許しを請うように頬へと擦り寄る。傷一つない滑らかな肌触りを楽しんだ。
「おやすみ、千鉱。良い夢を、とは言わないが穏やかに眠れるよう少しばかり祈ろうか」
重くなる瞼に一つ口付けを落とす。淵に佇む背中をそっと優しく、残酷に押されて水底へと沈んでいった。
「しかし良いのか?君の所有物を大衆の目に触れさせてしまっても」
テーブルを挟んで向かい合う二人。漣家当主と毘灼の統領、大物二人に水を差すような命知らずは存在しない。彼らの間に置かれたアタッシュケースだけを除いて。取引の対価を厳重に収めたケースの蓋を閉じながら京羅は幽へと尋ねた。
「構わない。遺作の妖刀ともなれば価値は跳ね上がるだろう。その契約者を添えれば箔付けにもなる」
「…意外だな。君はひけらかすのは好まない質だと思っていたが。殊それはそうじゃないのか?」
京羅が示した先には話題の人物───千鉱がいた。しかし椅子に深く凭れて目を閉ざし、二人の視線を受けても微動だにしなかった。
「どうかな。何せあんたのように多くは抱えない主義でね。収集とは縁のないものと思っていたが、」
徐に立ち上がった幽は千鉱の背後へと回り込み、不敵な笑みを浮かべて傲慢に宣った。
「掌中の珠を仕舞い込んでは勿体無い。丹精込めて磨いたんだ、見せびらかしたくもなるだろう?」
背凭れに置いていた右手を回し、大きな掌が千鉱の頬を包み込む。なだらかな輪郭を描く肌を楽しむように滑り落ち、頤を擽り首元を覆った。右手の甲に刻んだ炎の紋章がまるで首輪のように色濃く主張する。売約済みの印を、隠すつもりのない執着心を。
未だ謎深き組織。その長の興味を惹く目の前の青年は、六平国重の息子という以上に価値があるのだろう。己の物差では測り知れない、秘められた何かが。
商品には”最高の価値を贈る”、彼にとってその相手がこの男だけだったということだ。
「まあいい。競売が盛り上がれば私にとっても好都合。だが忘れてはいまいな?彼の仲間は必ず取り返しに来るだろう。そうなれば君は大事な商品をみすみす盗られることになる訳だが」
「ああ、無論だ。あの男の厄介さは身に沁みている。残念だがその時は大人しく返されよう」
口調だけで惜しんで見せる幽は変わらず千鉱を愛で続けている。読めない男にこれ以上付き合う程暇な立場でもない京羅は、ジャケットを羽織ると扉へと手を掛けた。退出する寸前まで、固く閉ざされた瞼は開かれることはなかった。
ぱたりと閉じた扉の音を聞き届けると、漸く幽はその手を止めた。しんと静まり返った部屋には己を除いて誰もおらず、階下からも殆ど音がしない。当主の世話に携わる者として訓練されているのだろう。山奥らしく青々とした樹々が窓から覗いているだけ。
「かつての住処を思い出すか?…いや、此処は雑音が多い。お前の所の方が静かで居心地良さそうだ」
その世界を壊した張本人が悪びれなく語り掛けても、千鉱は沈黙を貫いている。否、そうすることしか許されていないのだ。
「千鉱」
脳に直接刻み込むように耳元で囁く。命じるように名を紡ぐ幽の声に呼び起こされた千鉱の睫毛がぴくりと揺れ、そしてゆっくりと目を開いた。
ぼんやりと宙を映す赤い瞳に光はなく、泥濘に沈んだ金魚は腹を晒し力なく横たわる。頬を掴む手に引かれるまま背後を振り向き、近付く唇を抵抗なく受け入れた。
「ん…」
下唇を柔く噛まれ、舌を吸われ、混ざり合った唾液を飲み込まされる。こくこくと喉を鳴らして吸い付く様は甘い黄金の蜜を味わうように、餌を強請る雛のように。後頭部に添えられた手に千鉱の頤が上がり、浮いた体は腰元に回る腕に抱き寄せられる。囲われた両腕の中、だらりと下がった細い腕が力なく揺れている。ちゅ、じゅうと水音を響かせながら口付けは深まっていく。
「んぅ…っ、ふ、ん……っは、はあ」
「っは、」
いつの間にか体勢は逆転し、長椅子に腰掛ける幽とその膝を跨ぐ千鉱の姿があった。離れた唇を繋ぐ銀糸がぷつりと切れる。上気した頬と熱い吐息を漏らしながら、焦点の合わない赤は鏡のように幽を映すだけ。妖術によって自我を沈められた千鉱に抵抗の意思はなく、されるがまま術師である幽へと従う。惜しむらくは濁る赤色と鳴りを潜めた憎悪だが、傷付けず大人しくさせるには最適の手段だった。
「ん…っぁ、」
ぢゅう、と首筋に吸い付き、滑らかな肌に花が咲く。嬌声を漏らし喉を晒す千鉱の姿にまあいいかとすぐに溜飲が下がった。この短い邂逅は時期に終わりを迎えるのだ。ならば無意識下でも感じ入る千鉱の身体に、消えない快楽の種を植え付けるのも悪くはない。裾を割り入る掌が千鉱の白い太腿を撫で上げる。ぴくりと体を揺らす軽い体を座面に押し倒し、両手を一纏めに拘束した。
「最後の仕事だ。お前には京羅を相手してもらう。奴はいわば実験台。お前も真打の力の一端をその身で味わうといい。良い経験となる」
楽座市のために生きるが故に縛られる男は、その時が来れば躊躇なく真打を使うだろう。いずれ己が真打を振るうための保険の一つ、今となってはもうそれ以上の存在ではなかった。
「お前に構うと時間を忘れてしまうのが難点だな。然程猶予はないが…それまでもう少し、な」
鎖骨へと吸い付き、また一つ赤い花が咲く。やがて花弁を散らし、跡形もなく消えてしまうと知りながら。
「さて、場も温まり良い頃合いだろう。皆のお待ちかね、目玉の一つの競りを始めよう」
その言葉を耳にした途端、会場が騒めき始める。立ち上がる者、身を乗り出す者、様々な反応を見せる客の大半が待ち望んでいたからだ。カンカン、と木槌を打ち鳴らすと躾けられた犬のように静まり返る。ピリ、と張り詰めた空気と高まる熱意が肌を撫で、主役級の品でしか引き出せない高揚に京羅は今年も小さく身震いをするのだ。
「”英雄”六平国重、妖刀六工を生み出した彼の最後の作品にして遺作。霧のベールを纏いし妖刀淵天の姿を今宵ご覧に入れよう」
宙から溢れ出る黒い泡が消えると、そこには透明なケースに飾られた淵天の姿があった。波を彷彿とさせる細かい意匠が施された鍔は金色に輝き、厳かに刀掛けに納められている。いよいよ高まる会場の熱気は弾ける寸前に留まり、少しの困惑を乗せ始めた。理由は明白、壇上に登場したもう一つの存在があったからだ。黒い布が掛けられた大きな四角形は檻のように見える。
「競りの前にもう一つ紹介しよう。これは売り物ではないが、淵天の価値を高めるいわば花添えだ」
パチンと京羅が指を鳴らすと不可視の力に引かれたように一人でに布が剥がれていく。ぱさりと落ちたそれは役目を終え、次いで脚光を浴びたそれに観客は釘付けにされた。
頑丈な檻に四方を囲まれた内側には、椅子に座る一人の男がいた。よく見るとまだ年若く、成熟しきれていない体つきは青年と呼ぶに相応しい。絹製の黒い着物は柔らかく光沢を帯び、耳飾りは静かに揺れる。裾から上る銀糸のラインは水流の如く滑らかに。赤と白で紡がれた二匹の金魚の刺繍は尾鰭を広げ、黒い水面を優雅に泳ぐ。同色の羽織に描かれた波紋の傍では、きっと姿の見えない黒金魚が遊んでいるに違いない。全てが黒に染められた中で、金色の帯と朱色の鼻緒が差し色の役目を果たし、輝きを放っていた。
彼のためだけに選び抜かれた装いを纏わせ、観衆にお披露目された着飾られた人形────千鉱がそこにはいた。
「彼の名は六平千鉱。六平を冠し、偉大なる刀匠の血を継承した正真正銘彼の息子だ。約十八年間存在を秘匿されていた生き写し。彼の持ち主の意向により、我々にも鑑賞の機会を与えられたのだ」
京羅の頭上に投影された映像が鉄格子を超えて千鉱に迫る。紅を引いた唇の艶やかさに向いた目はすぐに最も特徴的な瞳へと移った。ガーネットの紅、生命の赤。画面越しに此方を見つめるあかいろが観衆を狂わせ魅了する。実際には妖術を施された千鉱の目に映る者など誰も存在しないのだが。
「淵天の契約者でもある六平千鉱だが、見事妖刀を競り落とした者には彼の所有者へ私が仲介しよう。殺すには忍びない美しさだ。交渉次第で契約を解除させる手立てが見つかるかもしれないな」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。高々とパドルを上げたのは恰幅の良い男。息を荒げながら檻越しに千鉱を凝視している。その男を皮切りに続々と上げられるパドルが白く点滅する。
「先程も言ったがこれは非売品だ。既に買い手は付いている。さあ、淵天の競りを始めよう」
色めき立つ会場は一番の盛り上がりを見せ、パドルを手に立ち上がり、命知らずは壇上へと駆ける。狂乱する群衆の中で明瞭に届く声が一つ。
「売りモンちゃうねん。イカれた祭典は終いや」
振り向いた京羅の先にはひしゃげた檻と、その縁に立ち千鉱を横抱きにする柴がいた。
「…来たか」
「返してもらうで、この子は誰のもんでもない。お前らの醜い欲望で穢すなや」
殺意の籠った鋭い目が京羅を射抜き、柴は片手で手印を結ぶ。蔵から出した武器が届く前に余裕で消え失せた二人の姿は遥か遠く、観客席へと移動していた。
「チヒロ君…!」
腕の中で身を預ける千鉱の全身に目を走らせるも負傷の形跡はない。しかし様子がおかしいのは明らかで呼び掛けにも反応はない。着物の合わせ目、際どい位置で存在を主張する赤い痕が目に入り強く眉が顰められる。やはり無理をしてでも取り返しに来るべきだったと後悔に苛まれた。
「柴さん!チヒロは!?」
「精神系の妖術を掛けられとるのは確かや。ハクリ君、いけるか」
「…応!」
待機していた伯理が柴の元へ駆け寄る。千鉱の様子に息を呑むも、首を振って即座に己の役目を全うしようとする。投げ出された手の温もりに安堵し、しっかりと握った。
「態々ご足労。妖刀を取り返しに来たのだろうがこれは下見会プレビュー。縋る藁さえ失った君達には無駄なことだと分かっているだろうに」
「ご丁寧に扉までぶっ壊して、どーも。でもまぁ、競売人としては優秀やけど父親としては失格やな」
ぴくりと京羅の片眉が上がり、視線は不敵に笑んでみせる柴から伯理へ。己と同じ青い瞳は黒く染まり、奇しくも同じ仮面を宿した。噴き出した黒い泡から現れたのは紛れもなく本物の刀。
「何故お前がそれを…」
覚醒した伯理により転送された淵天が本当の持ち主に、千鉱の元へと帰還する。脱力した千鉱を抱え直し、柴は淵天をその手に握り込ませた。
ドクリと、忘れていた鼓動を思い出すように。乾いた土に水が染み渡るように。淵天を通して玄力が巡り、主人を蝕む異物を消し去った。
「ぅ…、」
「チヒロ君!」
苦しげに呻いた千鉱が強く眉を寄せ、目を開く。雲は消え去り晴れ渡る茜色の空が現れた。安堵の表情を浮かべる柴と伯理を不思議そうに見上げた後、ハッと顔色を変えた。
「此処は…!それに俺は、っ奴は何処に、」
「遅なってごめんな、チヒロ君。混乱しとると思うけど、やれるか?」
手元で音を立てた、馴染みのある感触を見つめて強く握り締める。抜け落ちていた記憶を探る暇などない。色濃く残るあの男の存在も。
カン、カァンと木槌が高く打ち鳴らされる。憤りを込めた鋭い振動が空気を震わせた。
「全員聞け!六平千鉱を殺した者には五千万、淵天の所有権も与えよう。熱くなるのはここからだ」
爆発した熱気と共に武器を手にした客が次々と席を飛び出す。びり、と裾を裂いて立ち上がった千鉱が迎撃体制に入る。
押し寄せてくる屑共の波、その遥か彼方に佇む一人の男。視線が絡み合い、目を見開く千鉱の前でその姿が炎に呑まれ消えていく。
群衆の中においても千鉱の視線を独占した男の表情は、酷く満足げに見えた。