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40度近い熱が引いて落ち着いたイチがまず連れて行かれたのは医療室だった。薬の匂いと白さ加減は最初慣れなかったが、今ではすっかり慣れてしまった。すなわちそれだけ怪我をしているという事でもあるが、今回の場合普段と事情が違う。医療室の魔女達はまずイチの健康状態を確認して、それから何をされていたか、話せる範囲で話して欲しいとイチに頼んだ。特に酷い事をされていた記憶は無いので、イチ自身が思っていたよりはすんなりと話せた、と思う。
「とりあえず、やっぱり食事量を元に戻して、それから体力も出来るだけ戻して行かないといけないわねぇ」
「だよなぁ」
付き添いで来ていたデスカラスも頷く。それはつまりどういう、と、イチが尋ねると、医療室の魔女は「そうねぇ」とカルテとペンを置いて。
「ゆっくり休んで回復する期間が必要ね。そうね、半年程かしら」
「半年……」
「筋力も体力も、半年じゃ元の状態に完全には戻らないとは思うけれど、今よりずっとマシになる筈よ。三食しっかり食べて、量もゆっくり戻して行って、毎日運動もして沢山寝て。デスカラス班の皆さんといろんな話をするの」
「デスカラス達と?」
「そう! 今のイチさんは、身体もだけど、心も酷く疲れてるでしょ?」
「……ああ。そう、だと思う」
「身体が元に戻っても、心が疲れたままじゃ意味が無いもの。だから、デスカラス様達と一緒に過ごして、心の疲れを癒していくの。デスカラス様達じゃなくても、他に綺麗なものを見に行ったりしてね。ナタリーには沢山綺麗な場所があるし。
イチさんにとっては、狩りとか、体を動かす方が癒しになるのかもしれないけど、それをやるのはもう少し回復してからね」
「なるほど……」
「マネーゴールド様には、私から伝えておきますから。イチさん、ゆっくり休んでくださいね」
「分かった。ありがとう、ございます」
「いいえぇ。これが私の仕事ですもの」
そう言って、魔女は優しく微笑んだ。
「──と、そういう訳で。イチは今日から半年間療養に入る」
班の四人が集まったデスカラスの部屋で、椅子に座らせたイチの肩をぽんと叩いてデスカラスは言った。
「その間、俺達はどうしたら良い? やっぱり魔法狩り?」
「あんまりにも危険な奴の時は出るかもしんないけど、基本的にはここで待機だな。ゴクラクは杖工学部の手伝いとか見学に行っても良いし、ムギちゃんは魔女研に戻ってなんか手伝う事とかあるでしょ」
「そうですね。調べたい事とかもありますし……半年間、私達もお休みを頂いてる、みたいな感じになりますね」
「まぁそうね。私は指示があったら他の班の狩りに同行するかもしれんけど、大体はのんびりしてるかな。イチ」
「ん?」
「なんかあっても誰かしらは居るから。用事があるならすぐ呼ぶ事。オーケイ?」
「分かった!」
「ヨシ」
デスカラスは頷いて、最後にうりうりとイチの頭を撫でた。半年間というのは結構長いな、と、思ったけれど。そういえばあの場所にいた期間と同じだと気が付いたのは、しばらくしてからだった。
マンチネル魔女協会の書庫には沢山の本や資料が綺麗に整理されて棚に詰まっており、机や椅子もそれなりの量が置かれている。その中の一つに席を下ろして、クムギは調べ物をしていた。何冊か本や資料、医学書を持って来ては中を調べて持って来たノートに書き写して、うーんと唸りながら何かを考えて、本棚に戻して、また別の本を持って来て、を繰り返す。それを二時間ほどやっていると流石に疲れて来て、ぐっと伸びをした。
「クムギ」
「わあぁッ!?」
伸びをしたその瞬間に声を掛けられて、クムギは思わず声を上げてしまった。少ないとはいえ利用していた魔女達がなんだなんだと見てくる。すみません、とジェスチャーで謝って深呼吸してから、クムギはいつの間に隣に座っていたのか分からないイチを見た。
「い、イチくん、どうしたの?」
「デスカラスとゴクラクが居るのは見たんだが、クムギはどこにも居なくて。どこかと探してたら書庫だと教えてもらった」
「もしかして、私に何か用だった?」
「いや、そういう訳でも無いんだが。……迷惑だったか」
「ううん、そんな事無いよ!」
慌てて手を振って否定する。なら良かった、と笑うイチに、クムギはほっとする。半年間の療養を告げられてから今日で一週間、イチは毎日三食しっかりと食べて、協会の中を歩き回ったり、時折外に出て商店街に赴いたりして、体力も少しずつ元に戻そうとしている。悪かった顔色も元に戻って来ている。良い事だ。
「何か、調べものをしていたのか?」
イチが机に置いていた本を一冊手に取った。ぱらぱらと中を捲って、ぎゅっと顔を寄せてぱたんと閉じる。イチが苦手な文字が沢山詰まっている本だったからだろう。
「クムギは凄いな……」
「えっ」
「俺はもう、こんなに文字のあるものを見ると、頭が痛くなる」
「あはは……イチくん、お披露目会の為の勉強の時も苦しそうだったもんね」
「魔法に関する報告書ならこう、するっと読めるんだが」
「興味があるものだったらすらすら読める、のかも。過去の魔法に関する書類とかは、あっちの棚にあるよ」
「また今度でいい! クムギに案内してもらう」
「ふふ、いいよ。それで、えっと……なんだっけ。私が調べてたものだっけ」
「ああ。とても真面目な顔で何かしていたから、気になって」
「えっと……効率の良い体力回復の方法とか、あとは食事に関してとか……かな」
「効率の良い」
「うん。イチくん、前より動けなくなったのも、食べる量が減ってるのも、辛そうにしてたから」
「あぁ、うん、……そうだな。正気に戻ってみるとそれが明確に分かって、自分でも落ち込んだ」
「だから、少しでも何か役に立てたらなって、色々調べてるんだけど……胃を無理に大きくするなんてやっぱり出来ないし、身体強化って方法もあるけど、あくまでもこれは一時的にってだけだから、掛けられた負荷が後々筋肉痛とかで表れてくるし……難しいな、って」
「……クムギ」
名前を呼ばれて、本に向けていた目をイチの顔に向ける。イチはきらきらした笑顔をクムギに向けていた。
「ありがとう、クムギ」
「え」
「俺の為にと、色々調べてくれているんだろう。その行動が、俺は、すごく嬉しい。だから、ありがとう」
「……そ、んな。私……私は、イチくんが居なくなってた時、何も出来てなかったから」
イチが行方不明になっている間、クムギは、何も出来なかった。デスカラスとゴクラクの様に魔法と戦う力は無く、ただ後方に居て。色々な街でイチの事を探したが、こんな事をしても無駄だと心のどこかで分かっていた。あの街で、棺と対峙していた時も、結界の外に居るだけで。終わった後に側に駆け寄るしか、できなくて。
「だから、せめて、これくらいはと思って」
「そんな事無い」
イチは断言して首を振ると、クムギの手をそっと掴んだ。
「俺が熱を出してた時、一番側にいて、看病してくれたのはクムギだと聞いた。何も出来てない、なんて事絶対に無い。だから、ありがとう」
「……──」
じん、と、胸の奥が熱くなる。クムギのその様子には気付かないで、イチは言葉を続けた。
「なぁクムギ。俺が居ない間も、魔法を狩りに行ってたんだろう? どんな魔法を狩ったのか知りたい!」
「う、うん、良いよ! 報告書の写しが確かここにあると思うから、取ってくるね」
「いいのか? ありがとう!」
熱くなった胸のうちを抱えたまま、弾むみたいにその棚へ行く。半年の間に狩った魔法の報告書を持ってイチの元へ戻った。どうぞ、と渡すとイチが輝く目で報告書を読み出した。俺も行きたかった、と時折溢して、それからイチは。
「クムギの文字は綺麗で、読みやすくて好きだ」
普通の事の様に、そう言った。それが、嬉しくて。心臓のうちがわが震えて、あつくなって。
ああ、ほんとうに。ほんとうに。
「イチくんが、生きてて、よかった」
「……クムギ?」
「ほんとに、ほんとに……よかった……っ」
ぼた、と、涙が膝の上に置いていた手に落ちた。泣き出したクムギにイチが慌てている。クムギは「大丈夫だよ」と手を振った。それでもなかなか、涙は止まってくれなかった。
「イッちゃん、朝ご飯行こ」
ゴクラクはそう言ってこんこん、と扉をノックした。今日で長めの休養期間を貰ってから二週間。ゴクラクは毎朝こうしてイチを起こしてから共に食堂に行っていた。だから今日もそうしようとしてノックをした。一分経っても返事が無かった。
「……イッちゃん?」
もう一度ノックをする。返事はやっぱり無い。その途端にあの、朝の事を思い出して、ゴクラクの背中に冷たい汗が流れた。あの、部屋に誰も居なくて、おかしな魔力だけが残っていた宿の部屋。心臓が嫌な音を立てて、ゴクラクは思わず「イッちゃん!?」と扉を開けた。中はもぬけの空──では無かった。イチはベッドの上で体を起こして、ぼーっとしていた。慌てて部屋に入って来たゴクラクを見てきょと、と瞬きをしている。
「……ゴクラク?」
「あ……イッちゃん、ごめんね急に、勝手に入って……」
「いや、大丈夫だ。どうかしたか?」
「朝ご飯一緒に行こうと思って。迎えに来たんだ」
「ああ、なるほど。いつもありがとう」
イチはごく普通に受け答えをしている。おかしな様子は無い、様に見えた。だからゴクラクも部屋を出ようとして、けれど出て行けなかった。なんだろう、何か、おかしな感じがする。……ああ、そうか、と気付く。イチが、全く動こうとしていないのだ、と。
「イッちゃん、どっか調子悪い?」
「いや? そんな事は無いぞ」
「そう?……本当に?」
明らかに、様子がおかしいのに。ゴクラクがじっと見つめていると、イチは目を逸らして、それから。
「ときどき。こうして、待っていないといけないと、思う事があって」
「待つって……何を?……誰を?」
「……だれ……」
「イッちゃん?」
「……俺一人だけじゃ歩いてはいけない、んだ。基本的に。後の方は許されてはいたけど、でも良い顔はされてなくて、仕方ないからそれくらいは、と、許されていて」
イチはぽつ、ぽつ、と話している。言葉を少しずつ溢していく。
「後をついて歩いていた、けど、すぐに疲れてしまって。その度に抱き上げられていて、それが、当たり前だったから、今もそうしなきゃいけない、気がして」
ゴクラクはベッドの側に立って跪いた。イチはゴクラクが側に来た事に気付いていない。それくらい、動揺している様に見えた。は、と吐かれた息は苦しそうだった。
「何も……なにも、させて、もらえなくて、それがあたりまえ、で」
「……うん」
「だから今も動いてはいけない気がして、く、るし、くて」
「イッちゃん、」
「……たまに、こうなるんだ。動かないといけないってわかってる、のに、うごけない」
布団の上で握られた手が震えている。ゴクラクはその手をそっと握る。イチがぱっとゴクラクを見たその目は微かに濡れていた。
「大丈夫、イッちゃん。ほら」
手を引くと、イチはすんなりとベッドから降りた。それからゴクラクはイチから手を離して、扉の前まで歩いて行く。振り返って見たイチの顔は不安に塗れていて、その足はなかなか動こうとしない。
「ごくらく、」
「イッちゃん、大丈夫だよ。何もしなくて良い、なんて事絶対無い。イッちゃんはいつだって自由に歩けるし、走れるし。ここを出られるから」
ゴクラクの言葉を聞いて、イチはゆっくりと深呼吸をする。普段よりずっとぎこちない足取りで一歩ずつ扉に向かって。伸ばした指先は微かに震えている。扉は、きぃ、と軽い音を当てて開いた。
「……は、……」
イチは詰めていた息を吐き出した。肩から力が抜けて、強張っていた表情もすぐに和らいだ。ゴクラクを見上げて向けてくる笑顔も、いつも通りに見える。
「ありがとう、ゴクラク」
「どういたしまして。ねぇイッちゃん。今までも、ああなってたの?」
「ここまで酷くなる事は今まで無かった。夢の、延長、の様な感じだったから。こんなに引っ張られたのは今日が初めてだ」
「……そっか」
「お、……ゴクラク?」
唐突に抱きしめられて、イチが不思議そうに名前を呼んだ。ゴクラクは何も返さずにぎゅうぎゅうと抱きしめる。イチの前では決して表に出しはしないが、胸のうちは、反世界達への沸々とした怒りで満ちていた。
(次会ったら、何が何でもぶん殴って、殺してやる)
「ゴクラク、どうした?」
「……ううん、なんでもない」
背中をそっと摩られて、ぐるぐるしていた怒りがゆっくり落ち着いて心の底に沈んで行く。
「イッちゃん、またしんどくなったらちゃんと言ってね」
「分かった」
身を離して頭を撫でる。気持ち良さそうに目を細めるイチの身体をもう一度抱きしめて、並んで食堂に向かった。
「イチ、買い物行くから付いて来い」
デスカラスの言葉に「分かった」と大人しく側に駆けてくるイチの顔を見て、それから身体を見て。最後にデスカラスはその頬を掴んで両側にむにぃと引っ張った。分かりやすく「!?」と言葉になっていない声が出ているのがなんとも面白い。
「ほら行くぞ」
「急にして来たアレはなんだ……!?」
「なんとなく?」
「普通に痛かったぞ」
そう言いながらもそれ以上何も言ってこないイチの頭をぽんぽんと撫でる。買う物のリストをイチに渡すと「半分はデスカラスが持つんだよな?」と尋ねて来たので「三分の一は持ってやる」とだけ返した。
イチが帰って来てから、今日で丁度二ヶ月が経った。悪かった顔色と痩せていた体は毎日三食のきっちりした食事と適量の運動でどうにか元に戻って来ていた。勿論元通り、という訳には行かないが、縮んだ胃もまた少しずつ元の大きさになりつつあるのではなかろうか。あの魔法達と過ごしていた時の話を聞いている間、腹が立って仕方なかった。なんだその小さいパンともう一つのおかずって。しかも聞く限り量が少なかった。そりゃ胃も縮むだろうよ。歩かせないってなんだ、くそ、と、デスカラスが苛々しているのを医療室の魔女は視線でどうどうと宥めていた。
出来るだけイチを外で歩かせる為だろうか、それともデスカラスに雑用を頼めるという珍しさからなのか、恐らく割合で言うならば7:3くらいだろうが、そろそろ切れそうな調味料やらインクやら、ノートやペンやら紙やら、その他にも色々な物を頼まれた。シラベドンナ辺りはとても楽しそうだったので彼女は恐らく後者側なんだろう。
商店街にやって来て、普段なら別れて行動するが今日は一緒に店を回ると決めていた。青果店や文具店、偶にデスカラスの趣味である服屋に足を運んだ。お昼時にイチの腹の虫が鳴った為、デスカラスが気に入っているレストランで昼食を摂った。空腹になるというのは良い事だ。そういえば帰って来てからしばらくは腹の虫を一度も聞かなかった気がする。
ナタリーの商店街は広く長い。あの店は、この店は、と尋ねて来るイチに説明をしながら買い物を続けて、全て終わった頃には夕方が近く。よし、と確認し終えたデスカラスは「付いて来な」と商店街を出て、協会とは違う方向に歩き出した。
木々を抜け、現れた階段を上り終えて辿り着いた丘の上。ここまで来た人達が休める様にと幾つかベンチが置かれているそこから見える景色に、イチがおお、と声を漏らして柵まで駆け寄った。イチの目に映るナタリーの街並みと、オレンジに染まっていく空。デスカラスも景色に目を向けて、イチの隣に並ぶ。吸い込んだ空気が美味しかった。
「ちょっと休んでから帰るか。荷物も多いしな」
「ああ」
空いているベンチに腰を下ろすと、イチも隣に座って来る。それと同時、猫の鳴き声がした。デスカラスがそちらに目を向けると、まだら模様の猫が居た。なかなか綺麗な毛並みをしている。首輪も付いているので、どこかで飼われている猫なのだろう。デスカラスの手に擦り寄って膝に乗っかって来た。
「めちゃくちゃ人慣れしてんな」
思わず笑いながら顎の下を撫でてやるとごろごろと音が聞こえる。この場所によく来てはこうして可愛がられているのかもしれない。
「……どうした?」
「いや……」
何故かイチが一人分の間を空けていた。「俺が居ると猫が逃げる」と真顔で言われて吹き出してしまう。
「別に今殺気出てないだろ。大丈夫だって、ほら。あ、上からじゃなくて下からな」
「わ、分かった」
恐る恐る、といった手が伸びて来る。そぉ、と猫の顎の下に触れたイチが「ぉぉ……」と言葉にならない声を上げたので、デスカラスはまた笑いそうになってしまった。
慣れて来たのか、顎の下だけで無く猫の頭もそっと撫でるイチを見る。二ヶ月前と比べて、随分健康的になった。ゴクラクから報告された悪夢の件も、デスカラスが知る限りでは起きていない。少なくとも、ゴクラクが対峙した時の様な酷い状態にはなっていなかった。あと四ヶ月で、またデスカラス班は反人類魔法習得の為に駆り出されるだろう。また危険な魔法と対峙する事は仕方ないとはいえ、イチの中に魔法に対する忌避感があったら、まともに戦えなくなっていたら。その時はまた考えなければならない。
「そうだ、デスカラス。この前、といっても二ヶ月ほど前なんだが」
「結構前だな?」
「クムギに、俺がいない間に狩っていた魔法の報不思議告書を見せてもらったんだ。あと、四ヶ月くらいだよな。
俺も早く狩りに行きたい」
「……そうだよなあ。お前はそういう奴だわ」
「何の話だ?」
「無事で良かったなあ、って話」
頭をわしゃわしゃと撫でまくる。ぼさぼさになった頭のまま、イチが不思議そうに見上げて来るのを余所に、猫がもっと撫でろと言わんばかりにイチの手に頭を押し付けていた。
──今でも、夢を見る事がある。反世界の魔法と、棺と共に居た頃の夢を。その夢を見た朝は、動くのがどうしても億劫になってしまう。動いてはいけない、歩く事を許されてはいない、許されたのは仕方なくだからであって、あの頃になるともうイチが逃げ出す気配が無いからであって、本当は動いてはいけなくて。それでもどうにか足は動かせたし、一度動かせると後はもう何も問題は無かった。それでも一度だけ、本当に、どうしようもないくらい動けない日があって。ゴクラクが来てくれていなければずっとベッドに居た気がするし、もしかしたらそれ以降、ずっと。そんな恐ろしい想像を未だにしてしまう。頭を振ってその考えを追い出して、イチはベッドから降りた。窓を開けて風を吸い込む。もう自分は大丈夫だと言い聞かせる。
この場所に戻って来て、今日で丁度四ヶ月になる。自分でも分かる程体力は戻って来ているし、胃袋も膨らんでいる。多分。三食だけで無くやたらと飴玉やらチョコレートやらの間食をよく貰ったのでそのおかげもあるかもしれない。あんまりにも貰ってしまうので「このままだと肥え太ってしまうな」と言うと、「太らん」「太らないよ……」「太らないから、イッちゃんはいっぱい食べな」と三人から真顔で言われてしまった記憶がある。医療室の魔女からは「もうそろそろ狩りに出ても大丈夫そうね」と許可も出たので、昨日は山へゴクラクを連れて狩りに行った。その日の夕食は鶏肉のステーキであった。
ゆっくりと、元の状態に戻って来ている。その事実が何よりも嬉しかった。あと二ヶ月で、デスカラス達とまた、魔法を狩りに行ける。イチとしてはもう大丈夫だと思うのだが、医療室の魔女がまだ駄目だと言っているので聞かなければならない。
その日、イチは夕方が近くなってから、あの丘の上へ足を運んだ。デスカラスと共に来たあの日から、時折この場所に来る様になった。景色が綺麗で、ここに来るまで良い運動にもなる。誰かを誘おうとも思ったのだが、皆忙しそうにしていたので諦めたのだ。この四ヶ月、思い返すとべったりとしてしまった気もするし。柵に手を置いて、夕陽が沈んで行くのを見つめる。地平線に太陽が沈んで行って、空がゆっくりと暗くなっていって、ナタリーの街に明かりが付いて行く。その景色が好きだった。
「……、帰ろう」
あまり遅くなっても心配させてしまうし。ぐっと伸びをして、振り返って。そこに居た白に、イチの体は固まった。
「ッ」
反射的に短剣を構えて刃先を向ける。反世界の魔法は表情を変えずにイチを見つめていた。相変わらず死を纏っている男だが、殺意は感じない。やがて一歩ずつイチに近付いてくるが、それでも、殺意は感じなかった。白が近くに来る度に、息が詰まる心地がする。刃先がふらふらと揺れて、手に力を込めた。その手が反世界の手に包まれる。人とは違う、あまりにも冷たい手だった。
「お前がした事は、消える事は無い」
反世界の呟きは小さな声だった。が、イチの耳に染み込んで脳にこびりついて、離れない声だった。手のひらに蘇って来る、あの夜の感触、真っ赤になった手のひら。軽い音を立てて短剣が地面に落ちていた。反世界はイチの首筋に触れて、つう、と撫でてくる。あの場所に居た時もよくされていた事で、思わずじっとしてしまう。は、と吐き出した息が震えていた。
「子鼠」
「な、ん」
「俺達はいずれ相対する運命だ。俺を狩ると言うのなら好きにすれば良い。生贄になるというのなら、そうすれば良い。お前はどちらにしろ死ぬ運命にある」
喉仏を親指の腹で撫でて、ぐ、と軽く押さえ込まれる。息苦しさの中で、反世界の口角が微かに上がるのが見えた。
「此方側に戻りたいと言うのなら、戻って来ると良い」
「……は、」
「最後の景色を共に見るくらいなら、許してやる」
ぺきん、と。軽い音が響いた。チョーカーがぼろ、と崩れて地面に落ちる。反世界は最後にイチの頬を撫でて、空間に唐突に現れた切れ目から去って行った。
ど、と心臓が鳴る。詰めていた息を吐き出して、イチは地面に座り込んだ。足から力が抜けている。情けない、と唇を噛んで、イチはどうにか立ち上がった。大丈夫、大丈夫だと深呼吸をして、騒がしい心臓を落ち着かせる。地面に落ちていた、変滅させられてしまったチョーカーを拾った。反世界が来た事を報告して、このちょーかーも直してもらわなければ。未だに痛む心臓を押さえながら、イチは協会へ歩き出した。
あそこに、戻っても良いのだと。
戻っても、許されるのだと。
その事に、安堵をした己がいた気がした。
気のせいに決まっているから、イチは頭を振って、その考えを追い出した。