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「――。いたっ」
静寂を切り裂いたのは、色っぽい吐息ではなく、ゴツッという鈍い衝突音だった。 重なった額の痛みで、理人は反射的に薄く目を開く。そこには至近距離で、案の定ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべる蓮の顔があった。
「……ちょっと期待しただろ」
「っ、この……酔っ払いが……!」
一瞬でも目を閉じて、あろうことか「拒絶しきれなかった」自分への羞恥心が、一気に沸点を超えて爆発する。顔に血が昇るのがわかった。からかわれた屈辱と、自分の情けなさが胸の中で激しく渦巻く。
「馬鹿なこと言ってないで、退け! 重いんだよっ」
力任せに肩を突き飛ばすと、蓮は意外にも素直に力を抜いて転がった。解放された安堵で立ち上がろうとしたその瞬間――。 視界が反転した。
「あ……っ!」
気づいた時には、理人の身体はシーツの海に沈んでいた。さっきとは比較にならないほどの膂力でベッドに引きずり込まれ、蓮の大きな体躯が覆いかぶさってくる。両手首をガッチリとシーツに縫い留められ、理人は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……今夜、泊まっていけよ」
「は……嫌だ。だから、用事があるって言ってるだろ!」
「そんなに辛そうな顔をしてるのに? 放っておけるわけないだろ」
「な、にを……」
射抜くような蓮の瞳があまりに真剣で、理人は言葉を失った。 今の自分は、一体どんな顔をしている?
迷い、怯え、窓の外の光景に絶望しかけている……そんな醜い表情を見透かされているのだろうか。
蓮の大きな掌が伸びてきて、理人の顎をくいと持ち上げた。
「行くな、理人。……行かないでくれ。このまま、僕の側にいてくれ」
縋るような、湿り気を帯びた声。 その時、理人のスーツのポケットで、スマホが震えながら着信を告げた。 瀬名かもしれない。出なきゃいけない。そう思うのに、蓮に抑え込まれた身体は金縛りにあったように動かない。
「は、離せっ……!」
「嫌だ。離したらお前は、その電話の主のところに行くんだろう?」
「お前には関係ないだろうが!」
剥き出しの苛立ちで睨みつけると、蓮は苦しげに眉根を寄せ、吐き捨てるように、けれど切実に白状した。
「関係、あるんだよ……。嫌なんだ。お前のことが、好きだから……この手を離したくない」
「……は……?」
頭が真っ白になった。 蓮は、呆然とする理人の反応など構わず、堰を切ったように言葉を続ける。
「ずっと、好きだった。……だけど、出会いは最悪だったし、お前に酷いこともたくさんした。だから、言えなかったんだ。この気持ちが苦しくて、離れたら楽になれるかと思ったのに。余計に苦しくなるだけで……もう忘れなきゃいけないって分かってるのに、全然離れてくれなくて……」
数十秒。その言葉の意味を理解するのに、それだけの時間が必要だった。 蓮が、自分を? 酔った勢いの聞き間違いか、それとも他の誰かと混同しているのか。
だが、もしこれが「本気」だというのなら ――。
理人は、これだけは言わずにはいられなかった。
「……ほんっと、勝手な奴。自分から関係を断っておいて、今さら好きだった? ふざけるなよ! あれから何年経ってると思ってるんだ。……なんで、今なんだよ……っ」
絞り出すような声が震える。過去の暗い淵に沈んでいた感情が、今になって泥を巻き上げて浮上してくる。 蓮の力がわずかに緩んだ隙に、理人は這い出すようにして彼から距離を取った。
「俺は……お前に会うまで、あんな無茶苦茶なやり方で他人と関係を始められたことはなかった。ある日突然、連絡がつかなくなって、一方的に捨てられたことも……。あれから、俺がどれだけ苦しんだか、お前にわかるか?」
「……いや」
「俺はあれから、人が信じられなくなったんだ。自分を慕ってくれている間はいい。だけど、もし自分以外に興味が移った時、また同じように捨てられるんじゃないかって。そう思うと、怖くて仕方がなくなるんだ……っ!」
胸の奥が、古傷が、悲鳴を上げる。 瀬名と過ごした幸福な時間は、常にこの「恐怖」という裏打ちがあった。
いつか、あいつの隣に自分以外の誰かが立つ日が来る。そう予感するたびに、自分自身に幻滅し、結局は瀬名を傷つけてしまった。
「こんな自分が嫌で、治したくて。……でも、治らないんだ」
理人はグッと奥歯を噛み締め、潤みそうになる目を強引に逸らした。 正直なところ、蓮のことはずっと嫌いだと思っていた。いや、そう思いたかった。
自分を振り回し、勝手に壊して去っていった最悪の男だと。
けれど、こうして縋るような瞳で見つめられると、本当の自分の気持ちが分からなくなる。憎んでいたはずなのに、心のどこかで彼の存在を求めていた時期があったことも否定できない。
結局、自分は蓮のことを嫌いきれなかった……嫌いじゃなかったんだろうな、と、冷めた頭の片隅で自覚してしまった。
だが、それは「今」ではないのだ。
「……再会する時期が少し違っていたら、もしかしたらお前の気持ちに応えられたのかもしれねぇ。でも……今は無理だ。あいつにはもう、呆れられてしまったかもしれないけど……。それでも、やっぱり、俺はあいつがいいんだ」
例え蓮が本気で想っていてくれたとしても、今の理人にはその想いに応えることはできない。過去を清算するための言葉を叩きつけ、理人は震える手でスマホを握りしめた。
「……はぁ……。そっか、そう……だよな……」
乾いた笑いが蓮の唇から零れ、彼は力なく視線を逸らした。 期待に応えられなかった申し訳なさを胸に抱きつつ、理人はゆっくりとベッドから起き上がると、乱れた衣服を整えて立ち上がった。
「……悪いな。お前の想いには、応えられない」
「いいよ、別に。むしろ言えてさっぱりした。後悔はしてないさ。……そうだよな、もう、随分と昔の話だもんな」
吹っ切れたような、けれどどこか寂しげな表情を浮かべる蓮。その姿は、かつての傲慢な「王様」ではなく、ただ一人の傷ついた男のそれだった。
「あぁ、もう昔の話だ。お前もいつまでも過去の亡霊にしがみついていないで、早く新しい恋でも見つけろよ。いい男の無駄遣いだろ」
努めて明るく、冗談めかして告げると、蓮は一瞬だけムッとした顔を見せたが、すぐにフッと笑みを漏らした。
「ハハッ、そうだな。努力はしてみるよ。……ただ、どうしても無理だったら、その時はお前の恋人に挑戦状でも叩きつけに行こうかな」
「……迷惑だから、絶対にやめてくれ」
瀬名がそんなことをされたらどんな顔をするか。容易に想像がついてしまい、理人は溜息混じりに吐き捨てて玄関へと向かった。
「じゃあな、酔っ払い」
「もう、酔いなんて覚めたって……。あ、理人」
靴を履き、ドアノブに手をかけた理人を蓮が呼び止める。振り向いた瞬間、理人の唇に、羽が触れるような軽い感触が走った。 あまりに唐突な出来事に、理人は目を丸くして固まった。
悪戯っぽく、けれどあの頃と変わらない意地悪な笑顔を浮かべる蓮を前に、顔が熱くなる。
「……っ、アホ! やっぱ酔ってんじゃねーか! クソがっ!」
バタン、と景気よく扉を閉める。酔っ払いはこれだから嫌だ。理人は腕で唇を乱暴に拭いながら、逃げるようにエレベーターへ乗り込んだ。
エントランスを抜け、外に出ると夜の冷たい風が頬を撫でる。火照った身体を冷ましながら、理人はようやくスマホを確認した。
着信の主は、期待していた瀬名ではなく、ナオミだった。 わずかな落胆とともに端末をポケットへ仕舞おうとした、その時。
再び画面が点灯し、ナオミの名前が躍る。二度続けての着信に、理人は不審を抱いて首を傾げた。よほど急ぎの用があるのか。
渋々通話ボタンをタップすると、スピーカー越しにナオミの切迫した声が飛び込んできた。
『あ! 良かった、理人やっと出た! もう、何してたのよ!?』
「悪い、少し野暮用でな。……で、なんだ?」
『なんだ、じゃないわよ! 瀬名くんが女に刺されて大変なの! だから早く、うちの店に来て!』
早口で捲し立てられ、一方的に通話は切れた。
瀬名が、なんだって? ナオミは今、なんて言った。 女に、刺された――?
全身の血の気が一気に引いていく感覚。指先が氷のように冷たくなっていく。 一体何が起きた。なぜ、あいつが刺されなきゃならない。瀬名は、無事なのか。
混乱する頭でタクシーを捕まえようと周囲を見渡すが、こんな時に限って空車は見当たらない。
「チッ、なんでだよ……っ!」
焦燥感に突き動かされ、理人は叫ぶように舌打ちすると、ナオミの店がある方向へと全速力で走り出した。肺が焼けるような感覚も、夜の冷気も感じない。
ただ、瀬名の無事を祈る一心で、理人は夜の街を狂ったように駆け抜けていった。