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理人がナオミの店の前に辿り着いたのは、それから十分ほど経った頃だった。深夜だというのに、雑居ビルの一角にある店からは煌々と明かりが漏れている。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声に急かされるように代金を払い、車を降りるなり、理人は転がり込むように店の中へ飛び込んだ。
「瀬名……!」
勢いよく扉を蹴破った先。そこには、いつもと何一つ変わらない、静かなバーの光景が広がっていた。カウンターの奥でグラスを拭いていたナオミが、驚いたふうもなく顔を上げる。
「あら、思ったより早かったのね」
「おい、ナオミ! どういうことだ!? 瀬名は……瀬名はどこにいる!?」
「ちょっと、落ち着きなさいよ」
「これが落ち着いていられるか! 早くしろ、どこなんだ!」
詰め寄る理人の形相に、ナオミは小さく肩をすくめると、一転して神妙な、今にも泣き出しそうな表情を作ってみせた。
「瀬名くんは……」
「瀬名は、どうしたんだ」
理人は生唾を飲み込み、続く言葉を待った。心臓の音が耳元でうるさいほどに鳴り響く。
「いい子だったのに……あんな目に遭うなんて。うぅ……っ」
「……どういう、意味だ?」
取り出したハンカチで目元を拭うような仕草。それを見た瞬間、理人の背筋に嫌な汗が伝った。最悪の事態。もし、もう手遅れだとしたら。思考を振り払うように激しく首を振り、震える声で問い直す。
「店を開けてすぐのことだったわ。瀬名くんと真紀が来て……でも、瀬名くんの様子がおかしくてね。心配して見ていたら、突然、彼が真紀を突き飛ばしたのよ」
「突き飛ばした……?」
「えぇ。それで、真紀が持っていた包丁が、彼の胸に……」
「そんな……っ」
ありえない。だが、真紀のあの執着心と、自暴自棄になっていたかもしれない瀬名の姿を思えば、最悪のパズルが音を立てて組み合わさっていく。
「……あいつは、大丈夫なのか」
「幸い、私がすぐに止めに入ったから大事には至らなかったけど。でも出血がひどくて、このままじゃ……」
ガクッと、膝から力が抜けた。床についた拳が小刻みに震えて止まらない。視界が急速に歪み、胸の奥からせり上がる熱い塊が喉を焼く。
「今は二階で眠ってるわ」
「っ、くそ……!」
弾かれたように顔を上げ、理人は二階への階段を駆け上がった。足がもつれ、転びそうになりながらも部屋のドアをこじ開ける。簡易ベッドの上に、ぐったりと横たわる瀬名の姿があった。
「瀬名……!」
動かないその身体に恐る恐る触れる。微かな、けれど確かな呼吸の感触に、理人は激しい目眩とともに胸を撫で下ろした。
「……バカか。お前……何刺されてるんだよ……っ」
安堵か、それとも自分への怒りか。唇を噛み締めても、声の震えが止まらない。
「……なんで、すぐに病院へ連れて行かなかったんだ」
「店に客が数人いたのよ。こんな小さな店で殺傷事件なんて知れたら大事になるし、瀬名くん本人も、こんな格好……で救急車を呼ぶのは避けたいって……」
「でも、だからって! 刺されてるんだぞ!? こいつに何かあったら、俺は……っ。俺はこいつに、言わなきゃいけないことが山ほどあるのに……!」
冷たくなった瀬名の手を両手で握りしめ、理人は俯いたまま拳を震わせた。 どうして、こんなところまで来てしまったのか。こうなると分かっていたら、あんな呪いのような言葉を吐きかけたりしなかった。
別れたいなんて嘘だ。本当はずっと、あいつの隣にいたかった。もっと優しく、もっと素直に、「好きだ」と、それだけを伝えていれば。 後悔だけが、暗い海のように頭の中をぐるぐると回り続ける。
「理人はまだ、瀬名くんのこと、好きなのよね?」
「……当たり前だ……」
「別れるって言ったこと、後悔してる?」
「……? あぁ、後悔してるさ。死ぬほどな」
何を今さら。絞り出すように答えて、理人が怪訝そうに顔を上げた。 そこには、先ほどまでの悲劇のヒロインのような影は微塵もなく、ニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべるナオミが、理人を見下ろしていた。
「そう、ならいいわ。それだけ聞ければ十分よ。ね、瀬名くん?」 「――はい。十分すぎですよ、ナオミさん」 「な――はぁっ!?」
一体、どういうことだ。 死に体で眠っていたはずの瀬名が、突然ムクリと起き上がった。驚愕に目を見開く理人を前に、彼はバツが悪そうに、けれど愛おしむような微笑を浮かべている。 着衣に乱れはなく、血の跡どころか、どこをどう見ても傷一つない健康そのものの姿だった。
「お前、刺されたんじゃ……? なんで……っ!?」
意味が分からず目を白黒させ、瀬名とナオミを見比べて――理人はようやく、事の真相に思い至った。
「おいコラ、ナオミ……。これはどういうことだ。こいつ、ピンピンしてやがるじゃねぇか!! 納得のいくように説明しろ、クソがっ!」
地を這うような低い声で、理人は怨みがましくナオミを射抜いた。だが、ナオミは悪びれる風もなく、ぺろっと舌を出して茶化してみせる。
「やだわぁ、そんな怖い顔して。真紀に刺されそうになってたのは本当よ? ちょっとばかし、アタシが脚色してドラマチックに演出してみただけじゃない」
悪戯っぽく笑うナオミを前に、理人の唇がわなわなと震えた。つまり、あの切迫した電話も、店での涙ながらの告白も、すべては理人を釣り出すための演技だったというわけだ。
「てめぇ……マジでいっぺん絞めるぞ!」
「落ち着いてください、理人さん! 刺されたっていうのはナオミさんの冗談ですけど、本当に危なかったのは事実なんです。ナオミさんが咄嗟に助けてくれて……それで、その。ちょうどいい機会だから、理人さんを呼び出す口実にしようってナオミさんが言い出して。僕は悪趣味だからやめたほうがいいって止めたんですけど……」
「…………チッ」
申し訳なさそうに眉を下げる瀬名を見ているうちに、理人はようやく沸騰していた頭を冷やした。ドカッとベッドの端に腰を下ろし、隣に座る男をギロリと鋭い視線で射抜く。その迫力に押され、瀬名はビクッと肩を揺らした。
「すみません。……怒って、ますよね?」
「あぁ。悪趣味にも程があるだろ」
「あらぁ。血相変えて飛び込んできた理人、すっごく可愛かったわよ? だいたい、本当に刺されてるなら即病院に連れて行くに決まってるじゃない。アタシの演技力がそれだけ高かったってことね」
「てめぇ……っ」
フフンと得意げに鼻を鳴らすナオミに、理人の額に青筋が浮かぶ。だが、ここで怒鳴り散らしては相手の思う壺だ。理人は何度も深呼吸を繰り返し、無理やり拳を解いた。
「理人さん。詳しいことは、家に戻ってから話します」
「あら? ここで話していかないの?」
ナオミの問いに、瀬名は静かに首を横に振った。
「きっと長くなると思うので。お店にこれ以上、迷惑はかけられません」
「アタシは別に構わないけど……面白そうだし。でも、いいわ。今度ちゃんと、どうなったか報告しにきなさいよね!」
ナオミの言葉に曖昧な笑みを返すと、瀬名は理人へとスッと手を差し出した。
「帰りましょう、理人さん」
「……あぁ」
差し出された掌を掴んで立ち上がると、瀬名はどこか照れくさそうに頬を掻いた。そんな彼の様子を見て、理人もまた猛烈な気恥ずかしさに襲われ、ぷいとそっぽを向く。 ナオミに嵌められたとはいえ、柄にもなく取り乱し、愛の告白に近い言葉まで口にしてしまった。今さら取り繕っても無駄だと分かってはいるが、どうにもバツの悪さが拭えない。
「今度こそ、ちゃんと仲直りしなさいよね」
「チッ、お節介が……っ」
ナオミの小言に毒づきながら、理人は瀬名の腕を掴み、逃げるように店を後にした。