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そして六回目の夜。
待ち合わせの時間に、彼は来ない。神経質な彼が遅刻だなんて珍しい。電話をかけたが通じなかった。
雨が降り始めている。二時間が過ぎて、ようやく彼はやってきた。泣きそうな顔だ。
「遅れて悪かったね、着替えてたから……飲んでもいい?」
「構いませんけど」
コアントロートニックを彼は飲んだ。そして、殺しちゃった、と呟く。俺は驚いて、思わずグラスを落とすところだった。
「誰を……?」
「わかるだろ?」
上司の顔が過る。
「今日さ、行くなって言われたんだよ。自分でセッティングしたくせに」
煙草に火をつけ、それをゆっくり吐いた。彼はそうしながら、どこか別の世界の、他人の話をするみたいにして少しずつ話を始めた。
「自分を選んでほしかったんだろうね。僕が行かないことを望んでたんだ。でも僕はもう何もかも耐えられなかったんだよ。弱みを握られて服従させられるのも、盾にされるのも、自由を奪われるのも、全部疲れた」
俺は黙ってそれを聞いている。
虚ろな目で、彼は少し口角を上げた。
「それと……暴力は心の弱さに打ち勝つただ一つの方法なんだってわかったよ。あの人をメッタ刺しにしてるとき、本当に気持ちがよかった。暴力は絶対的な支配だ。今までずっと言いなりになってきた僕があの人を支配しているのかと思ったら、アドレナリンが信じられないくらい出て、あの人の肉とか内臓とかが飛び散って、もう死んでるって分かってるのに刺し続けたよ、何回も何回も何回も何回も」
夢見心地な彼の背中をさする。
「どこか遠くへ行きませんか。まだ間に合うでしょう。金ならあるんです」
しかし、彼は首を縦には振ってはくれない。
「……わかりました」
せめて、彼が飲んでいるのと同じコアントローを飲んだ。焼けつくように甘いのに、後には何も残らなかった。きれいだ、と彼は煙草を吐き出しながら言った。
「なんです?」
「東京タワー」
※
あの夜から、彼とは会っていない。
件の殺人は次の日大きく報道されたが、すぐに他の悲劇に上書きされ、一年もすれば誰も思い出さなくなった。
彼がどうなったのか、俺は知らない。ただ、彼と会うことはもう二度とないんだと感じる。
夜の東京タワーの明滅、窓を濡らした雨粒、彼の吸っている煙草の匂い、二人で映画を見て感じた胸の痛み、湿った汗が混ざり合う感じ、服を着たまま抱き合ったこと、あのとき飲んだコアントローの焼けつくような甘さ。
春の喜びも、夏の朝の空気を吸うことも、枯葉の侘しさに手を握り合うことも、寒い冬を寄り添って過ごすことも、絶対に叶えられない。
全て忘れ、過去に消えた思い出をいつか懐かしむだけなのだともう分かっている。
別れ際に「じゃあ、元気で」と言った彼が、笑っていたのか泣いていたのか、既に思い出せないのだから。
俺にはそれが、ひどく悲しかった。
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