テラーノベル
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叩きつけるような雨が、街の灯を無慈悲に滲ませていた。ワイパーが狂ったようにフロントガラスを左右に振るが、視界は一向に晴れない。俺の胸騒ぎをそのまま具現化したような、重苦しい夜だった。
深夜、人気のない雑居ビルの一室。かつての知人で、裏社会の情報の流れを司る「掃除屋」の男、サカキと向き合っていた。
「……わざわざこんな雨の夜に、しかも一時間だけなんて指定して。余程の急用らしいな」
サカキは皮肉げに笑いながら、一本のタブレットを俺の前に差し出した。画面には、公的な記録には一切存在しないはずの、ある製薬企業の内部資料が並んでいた。
「君が匿っている『あの子たち』の正体だ。……遺伝子組み換え薬『アニマ』。当初は軍事目的の身体強化のために開発されていたが、副産物として『種を越えた変異』が起きた。猫をヒトの姿に変異させる……神への冒涜と言わずして何と言う。だがな、問題はその先だ」
サカキの指が画面をスクロールさせる。そこには、二人のレントゲン写真や血清のデータ、そして信じがたい実験記録が記されていた。
「一度変異に成功した個体は、生物学的な『完成体』として固定される。つまり、外見上は人間と変わらない寿命と機能を持つ。だからこそ、組織にとっては永久に利用価値が消えない『究極の生きた資産』なんだよ。あいつらは、自分たちの最高傑作が野に放たれていることを、一秒たりとも許容していない」
俺の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
「……やつらの目的は、連れ戻すことだけか?」
「それだけならまだマシさ。資料をよく見ろ。組織は今、アニマの『次世代型』の開発を急いでいる。そのためには、成功例である09と10……君の言う白と黒を解体し、脳の深部から細胞の隅々までを再解析する必要がある。連れ戻された後、彼女たちを待っているのは、二度と外に出られないカプセルの中での『分解』だ」
分解。その言葉が、俺の頭の中で鋭い棘となって刺さった。
あの時、公園で震えていた白を抱き上げた感触。家で不器用に掃除を手伝ってくれる黒の姿。彼女たちはただの「資産」でも「数字」でもない。俺の生活を、彩りを、そして「家族」という言葉の本当の意味を教えてくれたかけがえのない存在なんだ。
「……あいつらは、どこまで掴んでいる?」
「組織のネットワークを甘く見るな。君のマンションのセキュリティなんて、あいつらにとっては子供の玩具だ。……おい、どこへ行く!」
サカキの声を背に、俺は部屋を飛び出した。
一時間。家を出てから、まだ一時間も経っていない。
大丈夫だ、鍵は閉めた。二人は疲れ果てて眠っていた。マンションの防犯カメラだってある。誰も、俺の部屋を特定できているはずがない。そう自分に言い聞かせながら、俺は狂ったようにアクセルを踏み込んだ。
雨脚はさらに強まり、街灯の光が水飛沫に乱反射して目を刺す。
「……頼む、間に合ってくれ」
ハンドルを握る手が、自分でも驚くほど震えていた。俺が彼女たちの正体を知るために家を空けたこの一時間が、もしも致命的な「隙」になってしまったら。もしも俺の独りよがりの正義感が、彼女たちを再びあの白い部屋へ連れ戻す原因になってしまったら。
マンションの敷地内に車を滑り込ませた瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
入り口の重厚なオートロックのガラスが、粉々に砕け散っている。
「……っ!!」
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃。俺はエレベーターを待つ時間さえ惜しみ、非常階段を駆け上がった。濡れた靴がコンクリートを叩く音が、静まり返った廊下に虚しく、そして不吉に響く。
三階、四階……自分の部屋があるフロアに辿り着いた瞬間、全身の血気が引いていくのを感じた。
俺の部屋のドアは、半開きになっていた。
無理やりこじ開けられたような乱暴な形跡はない。まるで、最初から正しい鍵を持っていたかのように、静かに、そして冷酷に解錠されていた。
「白! 黒!!」
息を切らしながら部屋に飛び込む。
リビングには、争った形跡すら残っていなかった。
つい先ほどまで、俺と二人が囲んでいた食卓。白が笑い、黒が静かに頷いていた、あの温かな空間。食べかけのクッキーの皿。白が脱ぎ捨てた靴下。日常の残骸が、そこには確かに存在していた。
だが、そこにはもう、肝心の二人の気配はなかった。
「……嘘だろ」
俺は寝室へと駆け込んだ。
二人が寄り添って眠っていたはずのベッド。シーツには、まだ彼女たちの体温が微かに残っているような気がした。
だが、その枕元には――まるで最初からそこに置かれるべきだったかのように、不気味な光景が広がっていた。
二つの、重厚な金属製の首輪。
鈍い銀色の表面には、それぞれ「09」と「10」という数字が、冷徹なフォントで刻印されている。
それは、彼女たちが「人間」ではなく「管理されるモノ」であることを示す、呪いのような証。
俺が彼女たちに買い与えた、あの可愛らしいリボンの首輪は、床に無残に引きちぎられて転がっていた。
「……ふざけるな、……ふざけるなッ!!」
俺の叫びは、窓を叩く激しい雨音にかき消された。
床に落ちていたのは、もう一つ。一枚の真っ白なカード。
そこには、一言だけ、場所を示す座標と、冷徹なメッセージが記されていた。
『所有権の再行使。これより、全記憶の最終抹消を開始する』
死なないかもしれない。だが、組織は彼女たちから「心」を奪おうとしている。
俺と過ごしたあの日々を。名付けられた喜びを。ようやく手に入れた自由な笑顔を。
すべてをゼロに戻し、ただの「従順な実験体」に、命令を待つだけの「人形」に仕立て直そうとしているのだ。
白のあの、最後に見た消えそうな笑顔。
黒の、俺のシャツを握っていた指先の感触。
俺は首輪を握りしめた。金属の冷たさが、手のひらに突き刺さる。
怒りで視界が赤く染まる。俺が情報を求めて家を空けた、たった一時間の隙。組織は、俺の動向をすべて把握した上で、嘲笑うように彼女たちを連れ去ったのだ。
「今、行く。……待ってろ」
たとえそこが世界の果てだろうと、国家機密という名の地獄だろうと、関係ない。
二人の「自分自身」を、そして俺たち三人の「絆」を奪おうとする奴らは、俺がこの手で、一人残らず地獄へ突き落としてやる。
俺は、彼女たちの首輪をポケットに押し込み、雨の中へと再び駆け出した。
背後でドアが風に煽られて虚しく閉まる音がした。その音は、俺のこれまでの平穏な日々との決別の音だった。
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