No.1 嘔吐恐怖症
今朝の時点では、おかしなことなど微塵もなかった。
普通に朝食を摂って、心地良いくらいの腹8分目。常備している胃薬も必要ないくらい体調は万全だと思った。
なのにどうして、と怒りが湧いてくると同時に絶望した。二限目が始まって、まだ間もない頃。心窩部に突如現れた違和感は、今や明らかな吐き気となって胸元で存在を主張している。
🐤「…っ」
きもちわるい。
ごく、と生唾を呑み込んで、机の上で拳を握り締めた。小刻みに震えるシャープペンは、文字ではない何かをノートに残していく。
時間の流れが、やたらと遅く感じた。
あと25分…、20分…。
我慢できるだろうか、と色んな可能性が頭を過って、すーっと胃が冷たくなるようだった。
ちがう。
そもそも、吐きたくない。吐くなんてことがあってはいけない。
🐤「…は、」
ばくばくと早鐘のように心臓が高鳴って、それ以外の音は何も聞こえなくなる。
吐かずにやり過ごせないだろうか、そう願う自分を嘲笑うかのように、吐き気が一気に切迫してきた。胃袋の底から喉元まで、痛いような苦しいような…
舌の下からじわじわ唾液が溢れてきて、嫌な汗がどっと噴き出す。
これはダメだ、と確信した。もう、吐く吐かないの問題じゃない。
立て、と頭の中で警鐘が鳴った。
廊下にある水道までなら、ギリギリ間に合うかもしれない。だから、今すぐ手を挙げて、立ち上がれ。
🐤「…、」
でも…。
ちらりと時計を見て、手が止まる。
あと5分もせずに授業は終わる。皆に迷惑がかかるし、何よりかれこれ30分ちかく耐えてこられたのだ。たったの5分…そもそも、本当にこんなところで吐くなんて、そんな事あり得るだろうか、と。
この期に及んで、正常性バイアスが笑いかけた。
そうだ、きっと大丈夫。
ゴク、ともう一度。溜まりまくった生唾を呑み下しながら、きつく目を閉じた。
『りうら…!!』
蘇るのは、悲鳴に似たお母さんの声。
かつての過酷な鍛錬に、なんど反吐が出ただろう。膝が折れて、床に蹲ったまま腹の中身をぶち撒けて…駆け寄った母は突き飛ばされ、責められるのも自分ではなくお母さんだった。涙を流しながらソレを片付ける彼女を見て、自分を呪った。そして誓った。
🐤「…ぅ゛、、ッ」
もう、絶対に…
ブシャッ…!と、
何か弾けるような音がした。
チョークを待つ手を止め、音のした方へと振り返る。広い教室を視界全体に捉えて、すぐに真相が分かった。その数秒に満たない間にも、ビチャビチャと場違いな音は続いていた。
🍣「りうら…!」
「今、何か受けるものをっ…」
席に着いたまま俯く赤の頭と、両隣から教室全体へと伝播するざわめき。
静かにしろ、と慌てて歩み寄る先で、りうらの身体がもう一度大きく波打った。
🐤「ぅ゛ぶ…ッ」
口元を両手で覆ったまま、くぐもった声が溺れたように湿り気を帯びる。どっぷりと溢れた粘液が、吐息と共にごぽごぽと弾けた。
🍣「大丈夫、手ぇ離そ。息できてないやろ?」
🐤「ん゛…ぅ゛、…」
背中を摩りながら声を掛ける。が、聞こえていないのか、確固たる意思なのか。見開いた瞳から涙をこぼしながら、りうらは動く気配を見せない。
🍣「ねえ、…っ」
🐤「げふッ…、は…っ、…げほっ!」
無理やり引き剥がせば、掴んだ手首の冷たさにハッとする。
🐤「げほげほッ!…はっ、ぁ゛…、は…ッ」
咽せ込んだ後にようやく酸素を取り込んで、しかしそればかりだった。はくはくと必死に吸い込むばかりで、ほとんど吐き出せていない。俗に言う過呼吸だ。
🍣「りうら、…」
そういうヤツか、と思った。
教師をやっていれば、遭遇する。吐くこと、吐いたことに対して過剰に反応してしまう者。
そりゃ吐くのは苦しいし辛い。人前で、それも然るべき場所以外で吐いたとなれば、困惑するのも無理はないと思う。けれど、そんなに忌み怯えて精神をすり減らすほど大層なことじゃない。
🐤「はっ、…ぅ、…ぅ゛ぇ゛っ…」
そのうちに、また込み上げてきたらしい。申し訳程度の呼気に、短くえずくような呻き声が混じる。慌てて口へと向かう手を遮るように両腕を攫い、抱き締めた。
🍣「大丈夫よ、りうら…しんどかったな、ずっと我慢してたん?」
背中に回した手でとんとんとなぐさめれば、促されたのか耳元でゲポ…と音がして苦笑する。
🍣「ん…大丈夫、大丈夫。怖くないよ」
胸がチクリとして、思わず唇を噛み締めた。
恋人が苦しみ涙をこぼす様子にも、それを冷静に介抱する担任の様子にも。そしてそれをただ遠巻きに見つめるしかない自分にも、腹が立って仕方がなかった。
🍣「まろ、一緒に来てくれない?」
ゲロまみれのままりうらを抱き上げた担任が、顔だけこちらに向けて声を掛けてくる。自分たちの関係は大っぴらにしていないが…。
🤪「はい」
りうらと付き合い出して知ったんは、ぽてと以外の食の好みと、人知れず薬を服用しとったこと。ひっそり注意深く観察しとれば、服薬タイミングに規則性はなく、持病に対して日常的に処方された物ではないということは分かった。
生モノを避けとることも踏まえて、せいぜい胃調が弱いといったとこかな、という結論に至っていた。重大な病じゃないならそれでいい。いつか本人から告げられるのを待とう、と。
やけどそれは大きな間違いやったらしい。
🤪「嘔吐恐怖症…やろな」
原因は様々ある。単純に症状そのものが苦しい、辛い、慣れていない…など。或いは、よほど嫌な記憶が結びついているのか…と呟く担任の言葉に、嫌でも一つの仮説が浮かぶ。
ポヤっとしてなかなか図太いりうらの、唯一とてもデリケートな事情。きっと、複雑な生い立ちの中に、今回の理由もあるんやろう。本人から触れてこん限りは、問いただすつもりもないけど。
🤪「だいじょーぶやろ…りうらなら」
もう何度も、りうらは過去と向き合って戦ってきた。今すぐには無理でも、きっとまた乗り越える。
そしてそれまでの間、次こそは自分がりうらを支えてやる。
コメント
4件
🎲さんの🍣さん書いてほしいです…
あ ぁ 、 好 き (( I r i s 彡 か ら h t k 君 の 胃 腸 炎 で I f 君 看 病 で お 願 い し ま す 。 会 議 中 急 に 嘔 吐 … 等
めちゃくちゃ書き方好みです🥹🥹 krpt様よりurくんの自閉症の作品とかってかけたりしますか😭