午後三時頃、そろそろ戻っても大丈夫ですかと母から電話があった。申し訳ないが外で夕食まで食べてから帰って来て下さいとお願いした。
同居する家族に知られないで二十年近く自宅で不倫相手との逢瀬を続けてきた母は狂ってはいたけど、決して馬鹿ではない。自分が留守しているあいだ、僕と歌歩さんが話をしていただけではなかったことに気づいたに違いない。
長い話を聞かされて、君はさすがに疲れて見えた。でもどうしてもこれだけは知らないではいられないという表情で口を開いた。
「不倫して家から追い出したお母様と、歩夢さんはどうしてまた同居することにしたんでしょうか?」
きっと君は、僕が母をどう受け入れたかを聞くことで、どうすれば僕を裏切った自分が僕に受け入れられるのかを知りたいのだろう。何度も許したと言ったんだけどな。無条件に相手の言葉を信じきれるほどには、僕らの絆はまだ固く結ばれてはいないようだ。
「僕自身よく分からない。もしかしたら父や兄妹と絶縁したことに対する、単なる代償行為だったのかもしれない。でも僕はそうじゃないと思ってる。父と兄妹と絶縁したことはただのきっかけに過ぎず、僕はずっと前から母とまた親子に戻りたいと内心願っていたんだ」
宮田家との戦争から五年後、つまり今から見たら五年前の話になる。
僕が二十歳になった年の冬、僕は兄の架と妹の夢叶に絶縁すると伝えた。話したくなかったから、LINEで伝えてそのままブロックした。寝耳に水の二人からはおびただしいほどの着信があった。すぐにそちらも着信拒否にした。
当時、まだ高校生だった夢叶だけ元の屋敷に旧宮田家の母子たちと残り、大学生の兄は東京で一人暮らし。僕は元の家からも東京からも離れた縁もゆかりもない地方で一人暮らししていた。当時、大学二年生。
行動力のある架は僕に絶縁を伝えられた翌日、父の清二とともに僕の住む街へ飛行機に乗って乗り込んできた。
到着の報はLINEをブロックしていない父から受けた。予想以上に素早い行動に僕は戸惑った。当時住んでいたメゾネットタイプの2LDKのアパートに二人を入れたくなかったから、僕は彼らと大学近くの大きな公園で待ち合わせた。
季節は初秋。当時、父も兄も東京在住。父は三十五歳年下の妻の雫が医大生。大学のそばにマンションを借りた。会社から育児休暇を認められて、生まれたばかりの赤ん坊と家族三人暮らし。
兄は都心の一等地にあるタワーマンションで一人暮らし。全然勉強してないようだが、来年春に大学を卒業予定。もともと体格差のある兄弟だった。兄の身長は185センチ。僕より15センチも高い。そんなわけないのに、久々に見た兄はさらに背が伸びて体が大きくなったように見えた。顔も雰囲気も遺伝上の父親の宮田大夢にますます似てきた。比べれば隣にいる父は空気のように存在感がない。
僕が兄妹に絶縁を告げた意図が分からず戸惑うばかりの父に対して、架は最初から喧嘩腰だった。久々に会ったのに挨拶一つなく食ってかかってきた。
「歩夢、おまえの考えはお見通しだ」
「どういうこと?」
「今になって守さんの跡取りの座が惜しくなったんだろう? おれから跡取りの座を取り上げて、自分が昭和建設の将来の社長として守さんに認めてもらうつもりだな?」
守と清二の兄弟は先代社長から莫大な遺産を相続した。特に、兄弟が保有する昭和建設株は会社の実権を握るのに十分な数量。当時も昭和建設社長は兄の守だったが、守には実子がいなかったから、弟の清二の子どもから会社の後継者を選びたいというのが守の意向。
兄が手を挙げ、僕は手を挙げなかった。夢叶は兄に同調した。守が清二の血を引く僕を跡取りにしたいと考えていたことは知っていたが、能力の面でも意欲の面でも兄にかなわないと信じていた僕は、当たり前のように兄にそれを譲った。
僕はずっと兄にコンプレックスを抱いていた。僕は兄に追いつこうとして途中であきらめた意気地なしだ。兄は宮田大夢譲りの巨大な性器を持つ男。性器のサイズに限らない。身長、顔のよさ、運動神経……。勉強の出来以外のあらゆる面で僕は兄に劣っていた。特に性的な面では。
人並み以上に性欲は強かったが、僕の性器の大きさは父譲り。父は早くから兄弟の性器のサイズが違いすぎることに気づき、僕の前でそういう話はするなと架に言い聞かせていた。兄は言いつけを守ったが、言いつけられていなかった妹の夢叶が疑問を口にしてしまった。
「ねえ、兄ちゃんとあーちゃんのおちんちんの大きさ、なんでそんなに違うの?」
「馬鹿! 歩夢が気にするからそういうことは言っちゃダメだって父さんに言われてるだろ!」
僕が九歳のときだったと思う。それまで兄弟三人でお風呂に入っていたが、それ以来架と夢叶が兄妹二人で、僕だけ母とお風呂に入るようになった。父はふだん残業続きで帰りが遅かったのもあるが、架への言いつけの件があったから一緒に入りたくなかった。
母は優しかった。
「人の価値がおちんちんの大きさで決まると思う?」
「思わない」
「じゃあ、それでいいじゃない?」
子ども心にも救われた気持ちになれた。
まさかそんな母が隠れて不倫していて、父の性器の小ささを不倫相手とさんざん馬鹿にしていたなんて夢にも思わなかった。
しかも兄弟でこんなに性器の大きさが違うのはそもそも遺伝上の父親が違ったからだ、という衝撃の事実まで発覚した。
兄は中学生になってすぐに童貞を捨てた。相手は高校生だった。その高校生と別れると大学生とつきあいだした。大学生の次は社会人。どうして中学生同士で交際しないのかと聞いたら、相手が痛がるからという回答が返ってきて、そのときは意味が分からなかった。高校生になるといつも複数の交際相手がいたようだ。浮気はよくないと言うと、全員セフレだからと笑っていた。
女の人の裸の写真を何枚か見せられて、好きな相手と初体験させてやる、誰がいい? と聞かれたことがある。まず思ったのは相手の女の人に兄と比べられて馬鹿にされたくないということ。意気地なしの僕は自分の部屋で写真を見ながら自慰行為をすることしかできなかった。
兄嫁は宮田大夢の次女の有希。兄は妻とした有希を僕に譲ると結婚した当初から言っていた。有希は兄との子ができたから仕方なく兄と結婚しただけで、有希の初恋の相手は僕であり、今でも僕を愛しているという。でも有希は兄との子を二人産んでいて、五年前の当時は三人目を妊娠中。言行不一致とはこのことだ。
「兄さん、僕は別に守さんの跡継ぎの座なんて興味なかった。でも結果として僕が守さんの跡を継ぐことになると思う」
「ふざけんな!」
いきなり顔を、それも思い切り殴られて僕の体は吹っ飛んだ。立ち上がればまた殴ってくるのだろう。僕は尻もちをついたまま立ち上がれなかった。生まれて初めて兄から暴力を受けた。殴られた痛みより殴られたこと自体の方がよほどショックだった。
目の前で般若のような顔をして立つ兄の怒りは、まるで宮田大夢に復讐していたときのように殺意に似た憎悪であふれていた。殺したいほど僕が憎いのか? そんな兄を見て、かえって僕の心からは恐怖が消えていった。
僕よりずっと兄の方が恐怖に震えていると分かったからだ。托卵児である兄の遺伝上の父は宮田大夢。だから佐野の血を引く僕が守さんの後継者であることを主張することを、そして自分が守さんの後継者の座を失うことを何より恐れていた。それを失うくらいなら平気で僕を殺すだろう。残念ながら、架にとっての最悪のシナリオはもうすぐ現実になる。
目の前にいる兄はもう僕の知っている兄ではない。どうやら話すだけ無駄らしい。兄は放っておいて父だけを相手することにした。
「父さん」
「どうした?」
「今思えば、父さんはもっと家庭に気を配るべきだったと思う。もっと早く夏海の不倫に気づいてれば、あの人は更生できた可能性もあったんじゃないかな」
いきなり兄に顔を蹴られた。たぶん唇が切れた。血がドクドクと流れていくが、僕は少しも気にしなかった。
「血迷ったか、歩夢! 自分が何を言ってるか分かってるのか? 加害者の夏海をかばって被害者の父さんを責めるとはどういうことだ?」
「夏海が加害者ならあんたも加害者だよね」
架を初めて〈あんた〉呼ばわりした。というか、架を〈兄さん〉と呼ぶことは二度とない。
「たった一人の弟だから精一杯かわいがってきたのに、恩を仇で返された気分だ」
「僕らはなんで夏海に復讐したのさ? 家族を裏切ったからだよね。じゃあ、あんたはどうなの? 樹理さんに聞いたよ。最初は口を濁してたけど結局教えてくれた。あんた、過去に撮った動画を父さんに見せてもいいのかと脅して、雫さんにまた手を出そうとしたんだってね。雫さんに聞いてもあんたをかばって教えてくれなそうだったから母親の樹理さんに聞いて正解だった」
「本当なのか?」
ようやく父が反応した。家庭への無関心から前妻の不倫に気づかなかった父は、今回の危機にもまったく無頓着だった。鈍感は罪ではないが、目をつぶるのは罪だ。
「さっきもっと家庭に気を配るべきだと言ったのはそういうわけ。幸い雫さんはまだ架の脅しに乗ってないよ。相談を受けた樹理さんが、〈家の外でもなるべく一人にならないようにして、架につけ入る隙を与えないようにしなさい〉って雫さんに指示して、その言いつけを雫さんも守ってる。でも本来は雫さんの夫である父さんが一番に対応すべき問題だと思うけどね。加害者の架の父親でもあるわけだから。雫さんも樹理さんも父さんに相談しなかったのは、父さんが架の味方をするんじゃないかと心配したからだよ。夫なのにこんな大きな問題を相談されなかった不甲斐なさを、父さんはもっと反省すべきなんじゃないかな」
ここでやっと架が反論した。ただその反論は聞くに耐えない、とても感情的で無様なものだった。
「デタラメ言うな! 歩夢、分かったぞ。おまえ、あの親子と組んでおれを陥れようとしてるんだろ? 父さん、樹理と雫は所詮宮田大夢の嫁と娘。あんな連中の言うことを信じちゃダメだ!」
僕はあっははは! と気が違ったように大笑いした。
「大夢の血を一番濃く受け継いだのはあんただよ。そもそも夏海や大夢に復讐したのだって、僕は彼らの裏切りが許せなかったのが動機だけど、負けず嫌いなあんたの場合は好き放題にやられたこと自体が気に入らなくて、プライドを傷つけられた分、手段を選ばず倍にしてやり返しただけだろう? だいたい大夢に復讐するのに、雫さんと有希を傷つける必要なんてなかったよね? 今だってあんたがやってることは大夢のやったこととまるで同じなんだよ。裏切られるのはダメで裏切るのはいいのかよ? あんたは大夢から取り上げた慰謝料の二億円の管理を父さんに任されてるけど、たった四年の大学生活で浪費しまくってもう一千万円も残ってないそうじゃないか。それを調べたのは僕じゃない。守さんだよ。本当に昭和建設の将来を任せられる人物かどうか、守さんはずっとあんたを監視してたんだ。聞いたよ。故郷に妻子を残して自分は東京で贅沢し放題、女遊びし放題なんだってね。夏海が不倫するのはダメで自分が不倫するのはいいって言うの? 一人暮らしのくせに、女にカッコつけたいために住んでるタワマンの家賃は月々五十万円なんだってね。誰かの奥さんだろうが彼女だろうが構わず手を出しまくって、妊娠させて堕胎させた女も何人もいるんだってね。その中でも本命は財閥のご令嬢で、もうすぐ離婚が成立するからと嘘をついて結婚を前提に交際中なんだってね。自殺した宮田大夢の娘の有希はもともと大夢への復讐目当てに手を出しただけだから、復讐が済んで用がなくなった今はさっさと離婚したかったんだよね。恩着せがましく有希を僕に譲るなんて言ってさ。要はこれからの自分の人生のステップアップに役立たないから僕に押しつけたいだけじゃん。あんた人間じゃないよ。大夢の息子というより、あんたは大夢の生まれ変わり、いや大夢そのものだ!」
架なんてどうでもよかった。父がなんて言うか。それだけを確かめたかった。
「信じられない……」
〈信じられない〉じゃなくて〈信じたくない〉だろう? 父の呆然とした表情を見て、祖父が父でなく守さんを後継者に指名した理由が分かった気がした。架は昭和建設のトップになる器ではないとかつて有希は言った。有希の言うとおりだった。それとは違う理由で、父もまたその器ではなかったということだ。
「昔から歩夢はおれに嫉妬してたよな。あることないことでっち上げておれを陥れようとした以上、おれはおまえを徹底的に制裁しなければならない。覚悟はできてるな?」
僕が鼻で笑うと、架は座り込む僕の胸の辺りに右足を思い切りぶつけてきた。
架が感情的になるほど、逆に僕の心は冷めていった。顔を真っ赤にして怒りを抑えられない架のひどい顔を見て、なぜ僕はこんな男にずっと劣等感をいだき続けてきたのだろうと不思議な気分になった。
僕は架の蹴りをさらに顔面で受けた。目から星が出た。相変わらず無防備な僕に対して、架はさらに三発目の蹴りを僕に見舞う構え。
でも三発目の蹴りは来なかった。三人の黒服の男たちが手際よく架を取り押さえたのを見て、僕はゆっくりと体を起こした。僕が立ち上がったのと同時に、その人は僕らの前に現れた。
「今まで架や夢叶の暴走に目をつぶっていた歩夢君がついに立ち上がったと聞いて、私もじっとしてるわけにはいくまい。佐野家から追放しなければならんクズの排除に私も乗り出すことにした」
「佐野家から追放しなければならんクズ……?」
守さんは父の質問に答えず、さっさと本題に入った。
「清二、歩夢君は私がもらうよ」
「もらう?」
「私の養子にする。理不尽な暴力を振るわれている歩夢君を助けようともしなかったおまえに、今さら父親ぶってそれを拒否する資格がないのは分かるな? 私の後継者は架ではなく歩夢君にする。異論は認めない」
「おれは?」「架は?」
架と父のセリフがかぶった。僕と同様に守さんが苦笑している。
「架は使い込んだ二億近い金の返済が先だ。宮田大夢のように何十年と遠洋漁船に乗るか? 大夢は船に乗り込む前日に海に飛び込んだが、私はおまえがそうしても一向に悲しまない。清二はなるべく早く架と夢叶を相手に親子関係不存在確認訴訟を起こして托卵児二人と縁を切れ。先代の残した莫大な遺産がこんな愚か者二人に渡るなんて冗談じゃない。この二人に渡さずに済んだ分は架に体も心も傷つけられた雫さんと有希さんに多く渡してやればいい」
マグロ漁船に乗せられると聞いて暴れだすかと思ったが、当の架はあまりのショックに目を丸くして口をパクパクさせるだけ。まだ話は全部終わってないが、この男はもう終わったんだなとさすがに少しは哀れに思えた。
「架はともかく夢叶はどうして?」
「清二がたまに帰るときはいい子の振りをしてるみたいだな。ふだんは屋敷の女主人を気取って、一切家事を手伝わず、架と有希さんの子どもの面倒も一切見ずに、旧宮田家の家族を下に見て威張りくさってる。しかも金を持ってるからか男にチヤホヤされて舞い上がって屋敷にしょっちゅういろんな男を連れ込んで、部屋を汚した後始末も樹理さんや有希さんにさせているのだが、まったく気づかなかったのか?」
「あの夢叶が? まさか……」
「清二、本来子どものいない私が、三人も子どもを育て今現在四人目の幼子の子育てをしているおまえに言うことではないが、おまえは父親失格だ。歩夢君も言っていたが、夏海の不倫の件だっておまえがもっと家庭に気を配っていれば、托卵の子供が生まれることもなかった。今回の架と夢叶の暴走を許した件も、結局おまえの管理不行き届きだ。私だって好きで弟の家庭に首を突っ込んでるわけじゃない。見るに見かねてだ!」
「申し訳ありません……」
「歩夢君の養子の件は認めるか?」
「はい……」
父は自分の不甲斐なさに歯を噛みしめて、ただうなだれているだけだった。架は空気。この瞬間、架と夢叶の追放と僕が守さんと養子縁組することが決まった。
守さんの指示で三人の黒服の部下たちが架をどこかに連行していった。
「歩夢! 歩夢! 今すぐおれを殺せ! おれを生かしとけば、おまえいつかきっと後悔することになるぜ! 歩夢っ!」
架は最後の最後になって力一杯もがき何やら騒ぎ始めたが、すべてが無駄な抵抗だった。三人の男たちは守さんの部下で、かつて雫がナンパ男たちに連れ去られようとしたとき、架の指示で彼女を助けた男たちだった。それが今は架を生き地獄まで連れて行く役回り。皮肉なものだ。
公園の入口付近、わめき散らす架の前に黒塗りの車が停まる。男たちは架を車の中に放り込み、車はそのまま走り去った。結局、それが架を見た最後の姿となった。それから五年、架とも夢叶とも一度も顔を合わせることはなかった――
僕としては架や夢叶と絶縁し、これですべて終わった気になっていた。緊張感がほどけて今になって蹴られた痛みが込み上げてきた。
「どうした、歩夢? 本番はここからだろう?」
守さんにそう言われて、僕は何かの冗談かと正直思った。
「歩夢、覚悟を決めろ!」
守さんはもう笑っていなかった。でも、覚悟を決めろと言われても、そもそもなんの覚悟か分からない。
「母を失い兄妹を切り捨てついには実父まで。だから私がおまえの父になることにした。おまえの父親は今日から私一人だ。清二のことはもう忘れろ。私も弟なんて最初からいなかったもんだと思うことにした」
「え? 父さんを忘れる……?」
「そうだ。だから泣くな、歩夢。悲しいがこれが現実だ。しかし意外だった。歩夢が清二のスキャンダルまで把握していたとは。さすが私の後継者と見込んだ男だ」
父のスキャンダル? それはつまり、守さんが言った〈佐野家から追放しなければならんクズ〉って父のことだったということ……?
驚いて隣に立つ父の方を見た。
父は顔面蒼白、膝をがくがくと震わせている。
「スキャンダルって大げさな……。そもそも僕は彼女にそこから出るなと強要したわけじゃない。彼女が自分の意志でそこにとどまっただけで……」
「大げさ?」
それは兄が弟を眺める眼差しではなく、心底相手を軽蔑するときの眼差しだった。
「じゃあ、大げさかどうか、歩夢に判断してもらおうじゃないか」
そんなこと言われても父が何をしたか、僕は何も知らない。守さんは困惑顔の僕にUSBメモリを手渡した。
「夏海と大夢の不倫動画を見たときのようにパソコンで再生してくれ」
「歩夢が知ってるなら今さら見なくても……」
「自分がやったことを自分の目で見てみろと言ってるんだ!」
一喝されて父は黙り込んだ。これが社長の貫禄というやつか。これから何年にも渡って守さんの帝王教育を受ければ僕にもそれが身につくのだろうか? 正直言って自信がない。
さっき黒服の男の一人が車に乗って去る前に黒いPCバッグを僕に手渡してきた。何に使うんだろうと思っていたが、そういうことだったのか。
僕はバッグからノートPCを取り出して起動し、父と守さんにもよく見えるように動画データを再生する。USBメモリの中の動画データは再生したファイル一つだけだった。
「やめてくれ……」
小声だが、父が本当に嫌がっているのがよく分かった。無視して再生する。
画面にはマンションの一室のようながらんとした空間が映し出されている。画面の中央には大きなベッド。ベッドの向こうに大画面テレビ。ベッドサイドに小さな白いタンス。それ以外には何もない奇妙な部屋だった。
すぐに部屋のドアが開けられ、一組の男女が部屋に入ってくる。男は父。女の顔を見て思わず自分の目を疑った。女は夏海だった。五年前の元日の朝、当時の僕らの家の庭先から闇金の男たちに連れ去られるのを見て以来の母の姿だった。母は五年前よりさらに老けて、そして疲れた顔をしていた。ただ醜いとは感じなかった。五年間彼女が味わった辛苦を思い、気の毒に感じただけだった。
「逃げてもいいのに、まだいたのか。そんなに僕に抱かれたいのか?」
母は無言。父はベッドの方に行くように母に目だけで促した。
「脱いで足を開け」
言われるままに母はベッドの上に正座し、服を全部脱いだ。母の肌が現れるたびに僕は呆然となった。母の全身は傷だらけだった。何の傷かは分からないが、ミミズ腫れが何十ヶ所もできていて、見るからに痛々しい。
父はリモコンを操作してテレビをつけた。テレビ画面には性交中の母と大夢。
〈ああっ、いい! 清二さん、これが本当のセックスなの! 覚えておいて! 優しいだけじゃ女は濡れないし、気持ちよくもなれないの!〉
〈清二さんよお、あんたの愛した女の今のセリフ聞いて悔しいか? でも仕方ないよな? あんたじゃ夏海を満足させられないんだから。これからもずっとおれが夏海の欲求不満を解消させてやる。あんたは夏海と幸せな家庭を築けるだろうさ。でもそれは全部おれのおかげなんだぜ。それを教えてやれないのがとても残念だけどさ〉
〈ああっ、清二さんのと違って奥まで当たってるの!〉
大画面テレビに映し出されたのは母と生前の大夢が二人で清二を馬鹿にしていた様々な場面。父はそんな場面ばかりを集めて繋げた動画を作り、それを再生しているようだ。母の罪悪感を掻き立てるため? 自身の怒りを掻き立てるため? おそらくその両方だろう。
全裸になった母は言われたとおり、足を開いて自分のすべてをカメラと父の目の前にさらけ出した。下腹部の毛は剃られ、〈清二専用〉とマジック書きされていた。父が母に近づき、母の乳房を楽しそうに揉みしだく。
「無様だな、夏海。二十年の結婚生活で一度も僕に見せず触らせなかった自分の体を、離婚されてからおもちゃにされる気分はどうだ?」
父は白いタンスの引き出しを開け、黒いムチを取り出して母の体を痛めつけ始めた。ピシャンピシャンと耳を塞ぎたくなるような音が鳴り響く。
「うっ……くっ……」
とうめきながらも母は泣き言一つ言わなかった。母の体中に残るミミズ腫れはムチで打たれた跡だったのだ。
次に父は女性用の性玩具を手に持ち、母の性器に挿入し、乱暴に出し挿れした。母が顔をしかめる。
テレビ画面では、また場面が切り替わったところ。
〈生まれたとき、あいつはなんて言ってた?〉
〈おつかれさま、僕をパパにしてくれてありがとうって言ってた。ちょっと罪悪感を感じたかな〉
〈まだ一人目で罪悪感? 夏海にはあと二人おれの子を産んでもらうつもりなのに〉
母と大夢の狂った会話が続いている。
「夏海、痛いか。でも君の不倫を知った僕の心の痛みはこんなもんじゃなかった」
「分かっています」
ようやく母の声を聞くことができた。ずっと無言だったのは心が壊れて口が利けなくなってるからではないかと心配したから、正直ホッとした。
父は下半身だけ服を脱ぎ捨て、いきなり母の中に挿入した。母は無抵抗。
テレビ画面では、母が大夢に射精させながら、
〈一滴も残らなくなるまで出して!〉
と絶叫している。
父はいやらしく笑いながら母を犯した。
「愛したことなど一度もなかった僕に無理やり抱かれて悔しいか? いつかきっと君の彼氏が助けに来てくれるさ。ああ残念、とっくに死んでたんだったね」
父は無避妊のまま膣内に射精した。母は現在52歳。妊娠することはないとはいえ……
父は満足そうな顔で立ち上がり、性交後の汚れた性器を母の口できれいにさせた。父は一万円札を何枚かばらまいて、ベッドの上に座り込む母に拾わせた。
なんで母がこんな卑怯で下劣な男の言いなりになってるんだろうと思ったら、父が言った。
「ここから逃げ出してもいいが、逃げたら子どもたちには会わせてやらないからな」
「絶対に逃げません」
「子どもたちに会ったって罵倒されるだけだろうが、それでもいいのか?」
「かまいません。会って罵倒されるのが私の贖罪だと思っています」
「ふん」
父は鼻で笑ってみせた。
「また来る」
「まだ会わせてもらえませんか」
「君をこの部屋に住まわせてそろそろ五年になるが、まだ君の反省が足りないようだからね」
「私もそう思います」
母は全裸のまま土下座して、部屋を出ていく父を見送った。がちゃんと玄関ドアが閉まる音がしてしばらくしてから、母はようやく身を起こした。テレビの画面では、白目をむいてよだれを垂らしながら、
〈大夢君、愛してる!〉
と何度も絶叫している性交中の自身の痴態が映し出されていた。母は正座したまましばらくそれを見ていた。汚いものを見るような表情で。そして罰を受けるような表情で――
猛烈に吐き気を催した僕はPCを守さんに預け、公園のトイレに駆け込んで、便器の中にすべて吐き出した。吐いたのは五年ぶりだ。確か、一億円を受け取ることを条件に大夢の窃盗の件の示談に応じる、と父が大夢の父親に答えたのを聞いて思わず吐いた。そのときは僕も復讐に燃えていた。でもまさかいまだに父が復讐ごっこにうつつを抜かしてるとは思わなかった。
しかもただのお遊びではない。父と母が性交していると言っても、父の今の妻は雫だ。これは不倫だ。いや、そんな言葉は生ぬるい。これは紛れもなく性暴力だ。犯罪だ。最愛の妻の不倫に復讐した父がその後も、身寄りのない元妻をずっと暴力で支配していたなんて……
確かに父は母を生き地獄に叩き落としたと言っていた。てっきり借金のかたに売春宿に売られて、不特定多数の男を相手に売春させられているのかと思っていた。それよりは全然マシかもしれない。性病にかかる心配はないだろうし、何より長年不倫相手との行為に溺れていたとはいえ、まだ二人の男性しか知らない母が見ず知らずの男たちの性処理の道具にされる毎日に耐えられるとは思えない。
それよりはマシだと思うが、どうしようもなくもやもやする。建設業国内最大手の昭和建設の社長の弟で同じ会社で支店長まで務めた男が、不倫された仕返しに元妻を五年間も軟禁して陵辱の限りを尽くす。確かにとんでもないスキャンダルだ。報道されたら会社だって無傷では済まされない。単なるイメージダウンにとどまらず、収益の大幅悪化という大きなダメージを負うことも覚悟しなければならないだろう。警察がわが家に突入して社長の息子が窃盗の容疑で起訴されたことで、彼の長年の不倫と托卵まで周囲に知れ渡り、個人の顧客が宮田工務店から潮が引くように離れていったのを身近で見ていたことを思い出した。
それくらいのことが分からない人ではないはずなのに、父はどうかしてしまったのだろうか?
子どもに会いたいならここから逃げるな? 監禁や脅迫や強要の容疑がかけられても文句は言えまい。復讐で壊れたのは架や夢叶だけではなかった。父はもっと壊れていた。そして一番壊れているのは、きっと僕だ……
「何やってるの?」
僕はそれを誰に向けてつぶやいたのだろう? 父か? いや僕自身に、だ。
僕らはやりすぎたんだ。復讐する相手は宮田大夢だけでよかったのに。大夢が薬物の売人なら、母は薬物中毒者(ジャンキー)のようなものだった。両者は罪人には違いないが、罪の重さはまるで違う。売人を排除して薬物さえ遠ざければ、ジャンキーの中毒症状は自然に治癒できたものを……
僕らは夏海からすべてを奪い尽くした。結婚した男を、生んだ子どもたちを、実家の家を、財産を、両親を、そして生涯を通して愛した男を。夏海はすべてを失って一人ぼっちになったはずだった。
でもさっきの動画を見るかぎり、父より母の方がずっと幸せそうだ。
不倫は薬物に似ている。それに依存してしまえば正常な思考判断ができなくなるという点で。
母は大夢と不倫していた当時の中毒症状から完全に脱したようだ。どれだけ父に虐待されようが、少なくとも母は心を病んでいない。父の異常な暴力性は治療可能なのだろうか? よく分からない。
確かに母は生き地獄を生きていた。でも希望を持っていた。裏切った子どもたちと再会して許しを乞うという希望を。間違いなく父はその希望を叶える気はなかっただろう。さんざん希望を持たせて最後に絶望に変える。狂った父の思惑など手に取るように分かる。
それにしても母は薄幸な女だ。もともと樹理という本命彼女がいた大夢にとって夏海は最初から都合のいい浮気相手でしかなかったが、別の女と結婚した元夫によって現在も望まぬ不倫関係を強制されている。家族に捨てられて不倫の罪深さを思い知り、大夢の死によって不倫に溺れた過去の自分と決別したのに、いまだに自分の身を不倫関係の外側に置くことができない――
僕がトイレの便器の中に吐き出したものは、吐瀉物だけではなかったのかもしれない。心の中のもやもやも一緒に吐き出されて、僕はすっきりした気持ちで守さんと父の待つ場所に戻った。
僕がいないあいだ、さんざん責められたのだろう。父は守さんの前で土下座していた。
「夏海が週刊誌の記者に垂れ込んだらどうなると思ってるんだ? 清二一人のクビを飛ばしたくらいでは話が済まんぞ!」
「申し訳ありません」
「おまえが会社の育児休暇を利用したのは雫さんが卒業するまで学業に専念させるためだったよな? それなのに雫さんを裏切って、乳児を託児所に預けて元妻への復讐ごっこか。育児休暇中のくせに育児してないじゃないか! 情けない。さっき歩夢が泣いていたが、私だって事実を知ったときは泣いたよ。おれのかわいい弟は死んだんだって思うことにした。おまえ、会社を退職しろ。そして全財産を歩夢に生前贈与しろ」
「全財産……」
「武士の情けで現金で三億円だけ手元に残すことを許してやる。それだけあれば妻子三人の生活で困ることはあるまい。雫さんも卒業後は医師となりバリバリ稼いでくれるだろうしな。おまえが今回家族を裏切ったことは雫さんには言わないでおいてやる。おまえは雫さんに見捨てられないように、これから専業主夫としてせいぜい家族に尽くすことだな」
「はい……」
「おまえが独身だったら、自殺するか夏海と再婚するかどちらか選べと迫ってるところだ。雫さんと乳飲み子のためにそれは躊躇した。ただ、二度と私や歩夢の前に顔を見せるな。歩夢、おまえも言いたいことがあるなら言えばいい」
ちょうど言いたいことがあったから、話を振ってもらえてよかった。僕はしゃがんで、地べたに呆然と座り込む父の耳元にささやくように語りかけた。
「父さん、僕はこれから母さんを引き取って一緒に暮らすつもりです。母さんを殺さないでくれてありがとうございました。もしあなたが母さんを殺していたら、僕はあなたを殺していたと思います。もう二度とあなたを父さんと呼ぶことはないですけど、そのことだけは本当に感謝しています。さようなら。お元気で」
「夏海を引き取る? あいつのせいで家族がバラバラになったのを忘れたのか?」
「それは違うよ。僕らがバラバラになったのは僕ら自身のせいだったんだ。僕らは全部母さんのせいにして問題から目をそらしてただけでさ」
僕の言いたかったことは父の心に伝わらなかったようだ。僕らが一致団結できていたのは母と大夢に復讐していたときだけじゃないか。その前もそのあとも僕らはバラバラだった。架が女ったらしだったのも夢叶がわがままなのも母の不倫が発覚する前からのことだ。父はいつだって仕事に夢中で、見たくないものから目をそむけ続けていた。母は隠れて不倫していたし、僕はただオロオロするだけの何もできない子どもだった。バラバラだった。壊れていた。壊れてるなら再生させなければならない。僕は僕のやり方で再生させるつもりだ。
「清二に軟禁されていた夏海の処遇をどうするか悩んでいたんだ。歩夢が夏海を家政婦として引き取ってくれるなら一安心だ」
守さんが頓珍漢なことを言い出したがスルーした。僕は母を家族として引き取ろうと思っている。そう言ったら僕は守さんにも絶句されるのだろうか? かまわない。明日にも上京して、母を迎えに行こうと決めた。僕ひとりで。
父にはそのまま一人で東京に帰ってもらった。父の動向は守さんがこれから監視するそうだ。
「何年か問題なく生活できているのを確認したら、絶縁を解除してもいい。ただやったことはやったこととして、けじめを取らせることは必要だ」
守さんらしい言い分だと思った。ただ、守さんが父との絶縁を解除したとしても、僕は僕で考えようと思う。それは架と夢叶にしても同じことだ。
都内のマンションの清二所有の部屋の前まで来た。母はこの部屋の中にいるらしい。
母の借金は清二がすべて返済済み。動画の中で清二が言っていた通り、母はここから逃げ出すこともできた。だが母はここで復讐の鬼と化した清二から過酷な制裁を受け続け、五年間この生き地獄から逃げ出すことはなかった。それが母なりの贖罪だった。
呼び鈴を鳴らすと懐かしい声がした。
「お入り下さい」
ドアを開けると、玄関先で土下座している一人の女。服は着ている。顔を床につけていて顔が確認できないが母なのだろう。見下ろした彼女の背中がずいぶん小さく見えた。
この部屋を訪ねて来る者は清二一人、そして土下座して出迎えるように清二から強制されていたに違いない。
僕は無言で母のすぐ前で土下座した。
「母さん、迎えに来ました。迎えに来るのが遅れてすいませんでした」
顔を上げた母と目が合った。五年ぶりの再会。五年分老けてはいたが、目の前で涙ぐむ人は間違いなく母だった。
「歩夢……」
僕の目頭も熱くなった。母がハッとしたようにまた顔を床にくっつけた。
「そういうのはもうやめようよ」
「私は狂っていました。狂っていたから許してほしいなんて言いません。こんな狂った母親で本当にごめんなさい……」
「狂っていたって自覚があるなら、今はもう狂ってないんだと思う。それに母さんはもう十分に罪を償ったと思うよ」
高校生のときから三十年大夢の性処理係として心も体も奪われ続け、僕らによる無慈悲な制裁を受けて実家を失い両親も自殺、その後は元夫の清二の奴隷として鞭で打たれ好き放題に犯され地獄のような五年間を生きてきた。ある意味、死ぬより苦しい人生だったに違いない。
「あなたに母さんと呼ばれる資格なんて……」
手を差し出して母を立ち上がらせた。こんなに体が軽かったんだなと思ったら、なぜか涙ぐんでしまった。
「これからいろんなことを少しずつ話すよ。僕といっしょに帰って、また家族として暮らす中でね」
「清二さんは?」
「あの人の心配ならいらない。だからもうこんな生き地獄にいなくてもいいんだ」
「地獄……」
母はうわ言のようにつぶやいた。
「地獄を見たと言われればそうかもしれない。でも狂っていたから地獄にいてもそれほど苦しくはなかった」
不倫したから狂ったのか? 狂ったから不倫したのか? どちらが正しいか分からないが、狂ってるときは苦しくなかったなら、母が本当に苦しむのはきっとこれからだろう。
目の不自由な人と歩くときのように、母と手をつないで帰った。
今まで見えてなかったものが見えた気がした。いや僕には何も見えていなかった。何かを探す必要なんてなかった。世界はこんなにも美しいのに――