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水やりの君

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水やりの君

13 - 第十三章 君への最後のお願い

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2024年09月05日

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僕がどれだけ求めても、君は拒まなかった。何を要求しても一切拒まれなかったことで、僕の心はしゃぼん玉のように舞い上がっていた。君はもう僕のものだと思い込んだ。

それから僕は毎晩のように君を抱いた。養父の妨害を恐れて、しばらくホテルを利用したが、なぜか父は何も言ってこない。交際に反対すれば余計僕らの恋が燃え上がるから、うかつに手を出せないのだろう。僕は調子に乗ってまた君を自宅に連れ込むようになった。

そんな生活が一ヶ月ほど続き、ついに僕が待ち望んでいた瞬間が来た。

「まだ妊娠したと決まったわけではないですが、生理が何日か遅れています」

「検査薬を試してみたら?」

「次の生理予定日の一週間後から使えるという検査薬を買ったので、結果が出たらお知らせしますね」

「さすがの父も僕の子を身ごもった君に僕と別れろなんて言えないさ」

「そうだといいですけど……」

君はまだ半信半疑だった。僕は何度も僕を信じてと君に訴えた。そのあとは僕の子を妊娠しているかもしれない君の肉体を優しく、そして気が済むまで何度も自分のものにした。

僕は君を歌歩と呼び捨てで呼ぶようになった。君は相変わらず僕を歩夢さんと呼び、僕に抱かれながら愛してますと何度も繰り返していた――


翌日、歌歩は仕事を休んだ。理由は体調不良。僕は彼女の妊娠を確信した。彼女は次の日もその次の日も出勤しなかった。

三日連続で休み、週末の金曜日、彼女はようやく姿を見せた。今までと何も変わってないように見えた。もちろんお腹もまだ膨らんできてはいない。

朝礼の終わりに親睦会担当の社員が手を挙げたので発言を許した。

「将来のわが社の社長である佐野課長の腹心の部下、田代海人課長補佐と経理課のマドンナ、小木歌歩さんが結婚することになりました。僕も昨日聞いてびっくりしました。親睦会から結婚祝いの贈呈をします。課長、急な依頼で申し訳ないですが、ご祝儀の贈呈役をお願いします」

一瞬、自分が課長だということを忘れていた。お祝い金の入ったのし袋を渡されて、われに返った。

「佐野課長?」

「すいません。思いがけないことだったので、僕もびっくりしてしまって……」

「課長もでしたか? 田代さんも水臭いな。ふだんあれだけ仲がいいんだから、小木君と交際してることを課長だけには伝えておいてもよかったんじゃないの?」

親睦会担当の社員は僕や田代から見て部下ではあるが、年齢は四十代で僕らよりかなり年上だから、ふだんから言葉遣いはこんな感じ。

僕とは別に花束贈呈役の女子社員も後ろに二人控えていた。僕らは並んで立つ田代課長補佐と歌歩に向き合って祝儀袋と花束をそれぞれ手渡した。花束贈呈役の二人がおめでとうと声をかけて、二人からはありがとうございますと返事があった。僕は無言でいるのが精一杯。口を開けば罵詈雑言を口走り職場を大混乱に陥れてしまいそうだから必死に耐えた。

執務室中から割れんばかりの拍手。本来この拍手は僕と歌歩が受けなければいけないものだったのに。


僕はまた歌歩に裏切られたのだろうか? それとも僕と歌歩の交際を知りながら、田代が歌歩を横から略奪したのだろうか? どちらから話を聞けばいい?

面倒だから二人同時に呼び出した。どちらともLINEでつながっている。昼休みに中庭のプレハブ倉庫に来てほしいと書いたら、昼休みすぐに向かった僕より先に二人はプレハブ倉庫に来ていて、あとから入ってきた僕を土下座で出迎えた。

土下座しているということは、二人とも僕に申し開きできないことをしたという自覚があるわけだ。歌歩も田代も確信犯的に僕を裏切ったことが確定して、僕の怒りは一気に沸騰した。もちろんプレハブ小屋にエアコンなどついてない。二月のとても寒い日だったが、寒さなんてまったく感じなかった。

二人の前にあった木製のテーブルに腰掛けて、土下座する二人を見下ろす姿勢を取った。そういえば、歌歩はこの倉庫でも、このテーブルに手をついて後ろから宮路に犯されていた。よりによってこんなときにフラッシュバックが襲ってきた。心がぐちゃぐちゃだったが、この二人にだけはそんな弱さを見透かされたくなかった。

僕はまず歌歩に顔を上げるように言ったが、彼女は顔を床に押しつけたまま。

「謝らなくていい。今朝の結婚報告はなかったことにして、明日僕との結婚を発表するということでいいね?」

「それはできません」

「なぜ!」

「言えないんです。察して下さい」

「もしかして父が……?」

歌歩はもう口を開かなかった。

「田代!」

そう怒鳴りつけると田代はビクッと体を震わせた。部下とはいえ年上の彼に敬意を表して、今まで田代さんと呼んできた。だが僕の最愛の人を略奪した間男に敬意など不要だ。

「あんたは歌歩と結婚すると今朝職場で報告したわけだけど、僕と歌歩が恋人同士だったということは知ってたんだよね?」

「知ってました」

「いつから?」

「三日前です。その日の夜わが家にいらっしゃった社長から聞きました。その翌日に小木さんとお見合いして結婚することが決まりました」

やはり父か! 父に言わせれば社内不倫していた女など将来の社長夫人として論外だというのだろう。たぶん友人に相談したところで、誰もがきっと父の肩を持つに違いない。それでも僕は歌歩と二人で生きていきたいんだ!

「おととい見合いしたばかりということは、結婚が決まったといっても君は歌歩とまだキスもしてないんじゃないの?」

「はい。指一本触れてません」

社内不倫して父の逆鱗に触れて自死に追い込まれた父親と違って、彼は誠実無比な男だった。嘘など一度もつかれたことがないから、指一本触れてないというのも事実なのだろう。

勝ったと思った。だってこっちには切り札がある。僕と歌歩のあいだには肉体関係があり、しかもおそらく歌歩は僕の子を妊娠している。それを知って狼狽するであろう真面目な彼の姿を想像してさすがに哀れな気持ちになった。だから、彼の次のセリフを聞いて僕は耳を疑った。

「これからも小木さんには指一本触れないと約束します。だから課長は今までどおり安心して小木さんを抱いて下さい。僕は一切お二人の逢瀬を邪魔しませんから」

「何を言ってるの?」

「小木さんが昨日妊娠検査薬を試したら陽性だったそうです。課長、お願いです。小木さんが身ごもった課長とのお子さんを僕の子として育てさせてもらえないでしょうか? もちろん僕と血がつながっていないからといって子育てに手を抜くことはありません。昭和建設次期社長の血を引く者として恥ずかしくない人物に育て上げてみせます。もちろんそれはこの先小木さんが二人目、三人目の課長との子を身ごもった場合も同じです」

かつて僕ら家族は不倫した上に托卵という大罪まで重ねた母の夏海や間男の宮田大夢に対して無慈悲な制裁を実行した。だから、自分の妻と不倫して妊娠させてもかまわない、僕の血を引いた子どもが生まれたとしても自分の子どもとして責任持って育てあげる、と土下座して頼んでくる田代という男が、理解できないというより心の底から不気味だった。

頭のおかしい人間と話していても時間の無駄だ。僕はまた歌歩に頭を上げるように言った。

〈この先どんな困難が待っていたとしても、命ある限りあなただけを愛し抜くと誓います!〉

確かに彼女はそう言っていた。それは嘘だったのか? と問うと、歌歩はようやく顔を上げた。

「嘘はついていません。今も同じ気持ちでいます」

「田代と結婚するのに、どうして僕との愛を貫けるのさ?」

「田代さんと結婚はしますが、私があなたを愛することはないと了解は取ってます。もちろん私が彼に抱かれることもありません。誰と結婚しようと、私の心と体はいつまでも歩夢さんだけのものです」

「僕は君と不倫したいんじゃない。結婚したいんだ。君は、不倫した母が僕らに復讐された話を聞いただろう? 不倫を憎んでるのは父だけでなく僕も同じ。結婚して誰かのものになる君を、僕が抱くことはないよ」

僕に突き放されたと絶望したのか、歌歩は突っ伏してわんわんと泣き出した。いったいどうしてしまったのだろう? 頭がおかしくなったのは田代だけじゃなかったのか?

「課長、小木さんが僕を愛せないように、僕も死んだ父の愛人だった彼女を愛することなんてできないんですよ」

田代が苦渋に満ちた顔でそう言い出したことに驚かされた。

「知ってたのか?」

「母に聞きました」

「愛せない相手ならなぜ結婚する?」

「小木さんは父と宮路前課長、二人の愛人でしたが、自殺した宮路前課長の遺族がどうなったか知ってますか?」

そういえば、あの正義感の強い勝ち気な宮路夫人は未亡人となった今どんな心境で暮らしているのだろう? 一度連絡を取ってみようかと思った。

「亡き夫から莫大な負債を相続させられて夫人も自殺しました。負債のほとんどは夫の在職中に会社に損害を与えた分だとして、夫の死後に社長が請求したものです。宮路夫人には大学生の娘が二人いましたが、二人とも借金取りの言いなりになって学校も退学させられて――。そのあとも聞きたいですか?」

聞くまでもない。父は宮路を自死くらいで許さず、一家を破滅させたのだ。

「課長、察して下さい。僕らには選択権などないのです」

父は歌歩と別れてくれと言って僕に土下座したが、だからといって僕に甘いわけじゃない。僕が社長の器ではないと見限れば、田代部長や宮路課長のように存在自体なかったことにするか、清二や架のように絶縁するか、そのどちらかとなるだろう。自分の部下たちの愛人だった女を妻とすることは、父から見れば昭和建設の社長の資質がないと判断するに十分な重大事なのだ。

今だって僕が歌歩の手を引いて駆け落ち同然に逃げだせば、歌歩はついてきてくれるだろう。ただし、田代家も小木家も、歌歩の父親が役員を務める平成建材も、そして父を裏切った僕も、父の制裁の対象となることからは逃れられない。特に僕は跡取りとするため養子にまでしてもらった身。裏切りの代償は死を覚悟しなければならない。

自分が死ぬだけで済むなら僕は自分の心に素直に生きる道を選んだはずだ。でもそうすれば歌歩はもちろん、多くの関係者の人生が大きく狂わされることになる。目の前でずっと土下座している小木歌歩も田代海人も、きっと同じことを考えたに違いない。その上、二人の場合、それぞれの家族から泣き落としや脅迫など、手段を選ばない説得を受け続けたわけだ。家族の命と財産を守るために、二人は愛のない結婚をする道を選んだが、実際は田代の言うとおり、それ以外の選択肢はないも同然だった。

今この状況で僕にできることは、いや僕のすべきことはなんだろう? 決まりきっているが、それを口にするまで数分の時間を必要とした。僕はその数分で、今まで心の中で熱く燃えていたものをあきらめた。

僕は倉庫の隅にあるパイプ椅子を二つ持ってきて二人に座らせた。屋外倉庫の汚れた床の上でずっと正座していたから、二人の服は埃まみれだった。

「課長は?」

「僕の椅子はいらない」

僕は立ったまま、まず歌歩と向かい合った。

「君はまだ僕を愛してるの?」

「はい」

「僕を忘れて田代さんを愛してほしい。それが君の恋人だった僕からの最後のお願いだ」

歌歩は悲しそうに僕を見て、しばらくしてはいと答えた。同じ答えなのに、先ほどとは明らかに声のトーンが違っていた。静かに泣き出した彼女の顔を見ていられず、逃れるように田代と向き合った。

「僕が愛した歌歩さんを幸せにしてあげてほしい。あなたの父上の愛人だと知っても、僕は彼女への愛を止められなかった。田代さん、どうしても彼女を愛することはできませんか?」

歌歩を奪おうとする田代に対してさっきまで〈あんた〉などと不遜な態度を取っていたが、もう僕は彼にそんな態度の取れる立場ではなくなったことを自覚していた。同時に、もう恋人ではなくなった彼女を呼び捨てにはできなくなったことも。

「今はまだ心の準備ができていませんが、近いうちに必ず小木さんを愛していると約束します」

仕事のできる田代らしい、非の打ち所のない答えに感心した。

二人の答えを聞いて安心した僕は一瞬の躊躇もなくその場に土下座した。二人は驚いただろうが突然のことに言葉が出ないようだった。

「土下座しなければいけないのは僕の方だった。僕ら親子のせいであなたたちの人生が少なからず歪められてしまった。特に田代さんには僕の子を自分の子として育てていくという大変な苦労を押しつけてしまった。その罪に対して僕はお金でしかあなたに償うことができないことを許して下さい」

「お金? 養育費のことですか? それなら社長から十分すぎるほどすでにいただいています」

そうだよなと思った。佐野家との戦争に敗れた宮田大夢がアリがゾウに戦いを挑んだようなものだったと死ぬ前に口にしたが、僕も同じ心境だ。何やかやとずっと二人から声をかけられていたようだが、昼休みが終わる五分前に始まる全館放送のクラシックの空疎なメロディーが倉庫の外から漏れ聞こえてくるまで、僕は顔を上げることができなかった――

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