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「あ、常葉くんだ」
声を掛ければ、それに気付いたグレーのスーツ姿のその人は、ニコリ、と、柔らかく微笑んで足早に廊下を歩いていく。
聞き慣れているであろう艶やかな歓声を背中で聞く彼のその顔に、既に笑顔は乗っては居ないし、彼の口から漏れた「だる」その一言を聞く人だって居ない。
「はぁ、眼福眼福〜」
「あの天使スマイル、母性本能がやばい。生理きそう」
「やばくないそれ、体のつくりがやばい」
きゃはは、と、ランチボックスが無造作に置かれたテーブルを囲む、女性社員たちの笑い声が、五階の休憩スペースに良く響く。
「てか、この前SI社との契約、営業の高橋さんが取ったって話じゃん?でもあれって結局常葉くんが立役者らしいよ」
「まじで?前にも似たようなことなかった?」
「本間さんの企画のやつでしょ?あれも常葉くんのを自分の手柄にしたって噂」
「はぁ?後輩の企画パクるとか、クズ過ぎない?」
「しかも本間さんだけが重役会議出るんでしょ?」
「でも常葉くん何も言わないし、神だね」
「どっかの御曹司って噂だし、まじで王子だわ」
「何よりあの顔。付き合えたらずっと顔みてるわ」
「てか何なのさっきから、彼氏と上手くいってないとか?」
「それなんだよ、常葉くんに乗り換えたい」
「無理だから」
笑い声とともに、彼女達の話は簡単にヒートアップしていく。
───「お疲れ様です」
だけど、その一言で彼女達の熱は急激に冷める。
「あ、穂波さん、お疲れ様です」
小柄で華奢な身体なのに、ピンヒールをリズミカルに鳴らして颯爽と歩くその人を見送ると、4人は皆んな合わせたように脱力した。
「今日も美しかったね」
「ほんと氷の女王」
「穂波さんといえば、社長秘書の話再三出てるって知ってる?」
「聞いたことある。でもずっと断ってるんでしょ?」
「あの仕事ぶりで謙虚って、上司にしたいわ」
「ハゲ課長とか橘にこき使われてんのに嫌な顔ひとつしないで仕事するってやばくね」
「営業の大里さん分かる?」
「分かるにきまってんじゃん、鬼のように仕事取るくせに、字がクソ下手マン。書類回ってきたら発狂する」
「あの人の字、穂波さんは翻訳出来るの」
「はぁ!?あの暗号を!?」
「尊敬するね……」
総務課の女子達ははぁ、と感嘆のため息を落とすと一人が思いついたように「てか」と口を開いた。
「穂波さんだったら許せる」
「何が?」
「常葉くんと穂波さんが付き合ってるって言われても、穂波さんだったら託せる」
「あーね、柿原とか眞鍋さんとかよりも全然納得するわ」
「ま、有り得ないけどね」
分かる、と、とりあえずの同意を口癖のように零しながら、彼女達はやって来たエレベーターへと乗り込んだ。
その階の、角の資料室。
「……はい?」
見慣れた資料室は、一緒に居る人だけが見慣れない。
それに彼は、意外な一言を言うものだからやっぱり私は口を丸くする。
「いやだから、今日遅くなりますって話」
「あの……わざわざ呼び出して言うことがそれだけですか?」
「ああ、メールでも良かったんですけど、今日は風呂の時間に間に合わないと思うので、直接謝罪しようと思いまして」
「あの、言いましたよね。私もう、1人で大丈夫だって」
「そうでしたっけ?」
ニコリ、と、顔のあらゆる筋肉を駆使して敵意の無い笑顔を作る、常葉くん。
だけどその奥にある悪意を私はもう見抜いてしまった。
私がここを良く利用していたから、だから意地悪をしているだけなんだ。
睨んだとおり、じり、と、棚に詰め寄るから、私は彼に相反して表情を固く結ぶ。
「まぁ、せっかくなんで、力抜こうと」
「っ、ちょ、常葉くん!」
手で肩を押し退けても、ビクともしない彼は、簡単に私の言葉を塞いだ。
さてさて、この二人。
──────最初に落ちたのは、どっち?
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#ワンナイトラブ
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