「愛理さん、おはよう。昨日は寝れた?」
自宅マンションから荷物を引き上げたときに、SDカードの映像を見たショックとホテル暮らしの疲労感も蓄積されて、愛理は泣いた後、ぐったりと倒れ込むように眠ってしまった。
心配した翔の提案で、その日から、再び、翔のお部屋を使わせてもらっている。
そのため実家に居る翔が、わざわざ迎えに来てくれたのだ。
車の助手席でシートベルトをしながら、返事に悩む。
昨日の婚約パーティーのせいか、今日の淳を交えた話し合いの不安からなのか、うつらうつらするのものの、熟睡が出来ないまま朝を迎えてしまった。でも、それを言うと翔に心配をかけてしまう。
「おはよう。早めにベッドには入ったよ」
ウソではなく、本当のことを少しだけ言う。
そんな愛理を横目でチラリと見た翔は、車を発進させ、前を見ながらポソリとつぶやく。
「それでも、寝れなかったんだ。目の下クマになってるよ」
「えっ、うそっ!」
確かに、寝不足でクマになっていたけれど、お化粧するときに鏡を見た感じでは、ファンデーションで上手く隠せたと思っていた。お化粧をしたばかりなのに、すでに化粧くずれが始まっているのかと、愛理は慌てて、バッグの中からファンデーションのコンパクトを取り出して、鏡を見ると……。
「あれ?」
見た感じは大丈夫そうだ。
赤信号で車が停車して、翔が愛理の顔を心配そうに覗き込む、車内の空気が動いて翔から爽やかなグリーンノートがフワリと漂う。
「やっぱり、寝れなかったんだね。まあ、色々あったから仕方ないのか」
近い距離で見つめられ、恥ずかしさで視線を泳がせた。
そして、ハタと気づく。
「翔くん、カマかけたのね!」
愛理が頬を膨らませ怒ったフリをすると、翔が「ごめん、ごめん」と笑う。
翔の優しい気遣いに愛理の緊張がほぐれていく。
翔との近い距離にどうしたって、意識してしまう。でも、これから、離婚の話し合いをする夫の弟。翔のことを思うと愛理は複雑な気持ちだ。
それでも、翔は愛理にとって、自分の弱い部分を見せられる唯一の存在になっていた。
「翔くん、ありがとう。今日、同席してもらえるの心強いよ」
淳との話し合いの席に中村の両親も同席する。
淳はケガをしているし、両親の前で暴力を振るうようなマネはないだろう。その点は心強い。
でも、離婚を留まるように説得されたら……。それを振り切って話しを進めるようになる。離婚だけなら、証拠としてSDカードの映像があるから問題ないはず……。
ただ、離婚後も実家のことを、お願いしようと思っているのに、頼み難くなってしまうのが問題だ。
あのSDカードの映像、淳と美穂の会話を思い出すと胸の奥が重くなる。なぜ、こんな気持ちにならなければならないのか、やるせなさが募り、手元をジッと見つめ、手を握り込んだ。
視線を落とした愛理を気遣うように翔の明るい声が聞こえて来る。
「オレも一応、被害者だからね。兄キが、訳の分からない言い訳ばかりしていたら、ガツンと言ってやるから」
「ふふっ、そうだね。私もガツンと言ってやるんだ。やるときはやるんだから! 昨日だって、頑張ったんだもの。今日も頑張る!」
「そうそう、その調子!」
「ただいま、愛理さん連れて来たよ」
翔の声で、奥からパタパタと母親が小走りで出迎えてくれる。
「愛理さん、今日は呼び立ててしまってごめんなさいね。傷の具合はどう?」
「おかげさまで、だいぶいいんですよ」
「よかったわ。あがって」
と言ってから母親は、ハッとした表情になり、声をひそめた。
「リビングに淳がいるの。嫌じゃなかったら時間になるまで、台所で休んで」
「うん、そうしよう」
愛理より先に、翔が返事をして家に上がる。愛理もおじゃましますと、後に続いた。しっかり閉まっているリビングの扉の前を通りすぎ、台所のダイニングテーブルに落ち着く。
時計を見ると約束の時間、11時まであと少し、いよいよ淳と向き合い離婚の話をするのかと思うと、愛理は緊張して無意識に奥歯を噛みしめた。
「愛理さん。話し合いが終わったら後で、美味しいもの食べにいこうか」
翔からの突然の提案に思考が追い付かない愛理は、目をパチクリさせる。
そして、表情を硬くしていた自分の緊張をほぐすため、翔の思いやりから出た言葉だと思いつく。
「もしかして、私、怖い顔してた⁉」
あせったように頬をおさえる愛理の様子に、翔がクスリと笑う。
「そんなことないよ。ただ、お腹が空いて不機嫌なのかな?って」
「あー、恥ずかしい。ごめんね。おかげで緊張がほぐれました。終わったら美味しいもの食べに行こうね」
「なにを食べるのか考えておいてね」
すると、来客を知らせるインターフォンが鳴る。
時計を見ると11時だ。翔と愛理は、リビングに行くため立ち上がった。
翔の後に続いて、愛理はリビングに入った。
リビングルームには、すでに、中村の両親と淳の弁護士だろうか、スーツ姿の壮年の男性。それと、ソファーには、淳がアームスリングで、右腕を吊り下げ座っていた。わずかな期間、会わないうちに頬がこけたように見える。
スーツ姿の男性は高原弁護士事務所の佐々木と名乗り、名刺を手渡した。弁護士の先生を眼の前にしていると思うと、それだけでプレッシャーを感じてしまう。
でも、確かな証拠があるのだから大丈夫と、愛理は自分に言い聞かせた。
緊張感からか、結婚の報告に来たときも、このリビングで淳の両親に挨拶をしたことを愛理は、思い出してしまう。
幸せいっぱいで、緊張しながら挨拶をした、あの日。ずっと、その幸せが続くものと、信じて疑わずにいた。それが、わずか2年で脆く崩れてしまうとは、考えもしなかった。
「愛理」
あの頃のように、優しい響きで名前を呼ばれ、淳へ顔を向ける。
「ケガをさせて、すまなかった。具合はどうだ?」
「……淳こそ、ケガの具合はどうなの?」
そう言うと、淳は驚いたように目を開く。ケガを負わせた愛理に自分の容態を聞かれるとは思わなかったからだ。
「見ての通りだ。自業自得だから仕方ないさ」
自虐的につぶやき、後悔の息を吐き出した。
「淳、何でこんなことになったのかわかっているのか?」
父親の問いかけに、何かを考えるように視線を落とした淳は、ゆっくりと口を開いた。そして、手元を見つめ話しだす。
「ああ、翔に愛理を取られると思ったら、カッとなってしまって……。やり過ぎたと反省している。でも、愛理は俺の妻なんだ。それなのに、弁護士を通してしか、連絡できないとか、おかしいと思わないか? 福岡から帰って来たと思ったら、離婚したいだなんて言い出して、福岡で浮気していたんだろう」
愛理は、言いたいことがたくさんあるのに、”福岡で浮気をしていた”と言われ、北川との事実が頭を過る。後ろめたさが先に立ち、何も言えずに口を引き結んだ。
その様子を見かねた、翔が声を上げる。
「兄キ、それってオレと愛理さんの仲を疑っているってことだよね。オレと愛理さんは福岡空港で偶然一緒の便になって、帰って来ただけなんだ。カウンターに問い合わせをしてもらってもいい。それに福岡でのオレの行動なら、一緒に居た同僚に訊ねてくれてもかまわない。浮気とか不倫って決めつけるなら、憶測ではなく、証拠が必要だ。そうですよね。佐々木弁護士」
「そうです。不貞の認定は肉体関係があったという証拠が必要です」
証拠などあるはずもない淳は、悔し気に奥歯を嚙みしめた。
「その後だって、愛理はお前のマンションに居たじゃないか」
「兄キが愛理さんに暴力を振るったから、オレのマンションに避難させて、オレはこの家にいた。そのことは、父さんも母さんも了承済みだ。それにマンションに来て、オレにスタンガンをあてて気絶させただろ。診断書も取ってあるかな!」
その声で、マンションに淳が現れたとき、翔の身に何が起きたのか不安に駆られた記憶がよみがえり、ドクドクと血が逆流するような怒りが湧き立つ。愛理は顔を上げ真っ直ぐに淳を見据えた。
「翔くんと私の関係を疑い、問題をすり替えようとしているけれど、そもそも不倫していたのは淳の方でしょう。それも私の友達の美穂と……。私が福岡に行っている間、何をしていたのか知っているのよ。証拠だってあるんだから」
はっきりと美穂の名前を出され、証拠まであると言われた。淳はうろたえ、視線を泳がせる。
美穂からの誘いに乗り、軽い気持ちで始めた不倫。それも美穂の婚約をきっかけに、別れを告げられあっけなく終わった。まさか、今になって露呈するとは、思ってもみなかったのだ。
それでも、事実を認めたくない気持ちが、虚勢を張らせる。
「証拠? 出せる物なら出せばいいさ」
「兄キ、いいんだな!」
証拠の内容を知っている翔が、念を押す。
「ああ」
淳は、どうせ対した物ではないと、甘く見ていた。それが、どんな内容かも知らずに……。
「愛理さん、オレのパソコン使って」
愛理はうなずき、あらかじめ証拠画像をダウンロードしてあるUSBメモリをパソコンに差し込むと、 中村の両親を始めとする、その場にいる全員の目が画面に集まる。
翔が、ファイルをクリックするとそれが再生された。
パソコンの画面には、AVさながらの裸で縺れ合う淳と美穂の様子が映し出された。
ラタンのソファーに座り、淳が恍惚の表情を浮かべていた。その股間でピチャピチャと淫猥な水音を立てている美穂が顔を上げる。
『なあ、そろそろ……いいだろ』
『ふふっ、ここでスルの? 上になってあげるから、支えてよね』
『ああぁ……いい……』
『ねえ、気持ちいい?』
『ん……気持ちいいよ』
『愛理よりも?』
『ああ……最高だよ』
パソコンから流れる映像に、淳は顔色を失い、唇をわななかせている。
「なんだよ、コレ……。なんで……。まさか、家にカメラ仕掛けていたのかよ! ヒドイな! やり方が汚えぞ」
淳は愛理をにらみつけると、怒りに任せ立ち上がった。同時に愛理は反射的に身をすくめ、翔が愛理をかばうように覆いかぶさる。
緊迫した空気に包まれた。
「淳、やめなさい。いつまでもみっともない」
父親の怒声が部屋に響く。翔から逐一報告を受けていた父親は、淳のいままでの行いを把握していた。
「自分で引き起こした結果をよく見ろ。家庭を顧みずに好き勝手して、信頼も愛情も失ったんだ。それに、自分の思い通りにならないと癇癪をおこして、暴力を振るうなんて、ゆるされることじゃない」
そう言った父親の横で、母親がわっと泣き伏せる。母親として、不甲斐ない思いで、いっぱいになってしまったのだ。
やっと自分のしたことに気付いたように淳は、へなへなとソファーに腰を落とした。
その淳を見下ろして、父親は言葉を続ける。
「愛理さんにケガをさせたこと、翔にスタンガンをあてたことは、傷害事件として扱われても仕方がない出来事なんだ。愛理さんが刑事事件にしなかったから、お前は今ここに居られる。本来なら今頃、警察に勾留されていたかもしれない。わかっているのか!」
父親へと顔を上げた淳が、目が合うと後ろめたさからか、バツが悪そうにうつむく。その淳に向かって、父親は語りかける。
「暴力で解決しようとするような人物や、約束を守れない人物とも付き合いたいと思わないだろう。そんな人物とは、人としての信頼関係が作れないからだ。そして、淳、お前はみんなからの信頼を失ったんだ。会社も辞めてもらう。社員とその家族の生活がかかっているんだ。いくら息子だからといって問題を起こした人物を雇い続ける訳にはいかない」
会社の役職から外れるだけでなく、事実上の解雇通告に淳は、啞然となった。
「そんな……。この先、どうしたらいいんだ……」
「淳、まずは愛理さんに誠意を見せろ」
父親が視線を送り、佐々木弁護士に合図をした。
淳の目の前には、書類が置かれる。内容は離婚協議書と傷害事件に対しての慰謝料、それと離婚届けだ。
淳は、父親に諭され、観念したように書類へサインを始めている。
そして、愛理の前にも離婚協議書と傷害事件に対しての慰謝料の書類が提示された。
父親が弁護士と相談の上、あらかじめ決めていた、離婚協議書や傷害事件の余談書に書かれた慰謝料は、相場よりかなり高額な金額が提示されている。
これだけあれば、新しい住居を用意しても余りある金額だ。
愛理は、こんなに受け取って良いのかどうか。不安に駆られ、翔へ助けを求めるように視線を送る。
翔は「受け取って、いいんだよ」と言うようにゆっくりと、うなずいた。
いざ、離婚届けにサインをしようとペンを持つと、緊張で手が震えた。
中村愛理と書き込むのは、これで最後になるのかもしれない。
”これで、終わる。”
そう思いながらペンを走らせる。
ホッとする反面、一抹の寂しさを感じた。
幸せになろう。温かい家庭を作ろうと思って結婚したはずだった。こんな終わりを望んで、淳と結婚したわけではなかった。
佐々木弁護士へ記入した書類を渡した愛理は、細く息を吐き出した。そして、居住まいを正し、中村の両親へ頭を下げる。
「お義父さん、お義母さん、いままでありがとうございました。至らない嫁で、ご迷惑をおかけしたと思います。このような結果になってしまって、申し訳ございません。それと……もし、可能でしたら、私の実家、蜂谷工務店の下請けを継続して頂けたらと思います。……勝手言ってすみません」
中村の両親は、実家の両親よりも愛理に良くしてくれていた。淳と離婚したことで、縁が切れてしまうと思うと何とも言えない気持ちになる。
「心配しなくても大丈夫だ。蜂谷工務店さんは真面目に仕事をしてくれるから、仕事は継続させてもうよ」
と父親が太鼓判を押してくれて、さっきまで緊張していた愛理の表情がやっと和らぐ。
「愛理さん、この前も言ったけれど、本当の娘のように思っているのよ。娘がダメならお友達になってくれると嬉しいわ」
母親のせっかく収まりかけていた涙が、また溢れて頬を伝う。それにつられたように愛理の瞳が潤みだし、大粒の涙がこぼれた。
「……ありがとうござい……ます」
その様子を見ていた淳が、悲し気に顔を歪める。今になって、やっと失くしたものの大きさを感じ始め、それが実感となって腑に落ちてきたのだ。
そして、淳のスマホのバイブが着信を告げる。
相手の電話番号を見ると知らない番号だ。仕方なく立ち上がり、場所を廊下に移して電話に出たが、それは、淳にとって予想もしない内容の電話だった。
「ウソだろ! どういうことなんだ!」
扉の向こうから、淳の驚く声が聞こえ、愛理と翔は顔を見合わせた。中村の両親も不安気にしている。
話し声が止んでも、淳が廊下から動いた様子が無く。翔は首を傾げ、そっとリビングのドアを開き、様子を窺った。
淳は廊下の壁に寄りかかり、天井を仰ぐようにして瞼を閉じている。
何かを考え込んでいるようにも見え、翔は声をかけてよいものか、考えあぐねた。すると、翔が見ていることに気付いていない淳がポツリとつぶやく。
「婚約不履行で訴えられるとか、信じらんねぇ……」
愛理から、昨日の婚約パーティーの話しをすでに聞いていた翔は、そのつぶやきで、淳の身に何が起きたのか理解した。
田丸製薬の御曹司である田丸誠二から、美穂の浮気相手である淳が、婚約不履行の原因として訴えられたのだ。
愛理との離婚が成立し、多額の慰謝料の支払いが決まり、仕事まで失った状況で、追い打ちをかけるような内容に淳が衝撃を受けているのも無理はない。
そっとしてあげようと、翔は静かにドアを閉じ、愛理のところへ戻った。
「翔くん、淳に何があったの?」
愛理が声をひそめ、翔に訊ねると、両親も興味深そうな瞳を向ける。
「不倫相手の婚約者に訴えられたみたいだ」
翔の言葉に驚きで目を丸くした愛理は、ふと、何かに思いあたったような表情に変わる。そして、パソコンをジッと見つめた。
今まで友人として付き合って来た美穂だったが、裏の顔、その性格を知った今となっては、どういう成り行きで淳が訴えられたのか、愛理には想像ができた。
美穂は自分の保身のために、淳に誘惑されたとか、弱みを握られたとか言って、すべての責任を淳へ被せようと田丸に言い訳をしたのだろう。
美穂と淳の不倫による離婚のための慰謝料請求の内容証明が届き、その腹いせで大げさにうそぶいたのかもしれない。
美穂の誘惑に乗り自分を裏切った淳。
SDカードに残された、ふたりのやり取りは、ゆるせるような内容ではなかった。だから、自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが、美穂にいいように罪をなすりつけられているような気がしてならない。
愛理は釈然としないまま、パソコンを見つめ考え込んでしまう。
すると、リビングのドアが開き、憔悴した様子の淳が部屋へと戻って来た。それに気づいた母親が声をかける。
「淳、どうしたの? 顔色が悪いわ。傷が痛むの?」
淳は一瞬、驚いたように肩を跳ねさせ、不安気な瞳で、リビングにいる人々に視線を泳がせた。そして、愛理に心配そうな瞳を向けられていることに気づき、ようやく口を開く。
「美穂の婚約者に婚約不履行だって訴えられた。アイツが婚約していたなんて、別れるときまで知らなかったのに……ましてや相手が田丸製薬の御曹司だんて、今はじめて聞いたのに……そんなの有りなのか」
「田丸製薬だなんて、そんな大企業相手に……」
父親はつぶやき、憮然とした表情を浮かべた。その横で母親は、不安そうにうつむく。
軽い気持ちで、始めた淳の不倫。
その代償として、淳は愛理に多額の慰謝料を支払い、仕事まで失った。その上、美穂の婚約不履行の責任まで負わなければならない事態に陥っている。
美穂が愛理の想像通りのやり方をしていたら、淳は知らないうちに美穂の分まで、田丸への慰謝料を支払わされてしまうことに為りかねない。
あの婚約パーティーの行いで、美穂が淳との不倫を素直に反省したとは到底思えなかった。
証拠のSDカードの写真だけでは足りなかったのかも……。あのSDカード……。
そして、愛理はフッと思いつく。
「もしかしたら、……淳の助けになるかも」
「えっ!? 」
愛理の小さな声の内容を聞き間違えたのでは?と翔は思った。まさか、離婚したばかりの淳を愛理が助けに動くとは、考えもつかなかったからだ。
でも、それは聞き間違いではなく、確かに愛理が言った言葉だった。
その証拠として、淳も唖然とし、愛理を見つめている。
愛理は、パッと顔を上げ、佐々木へ向き直る。
「佐々木弁護士、確認させてください」
と佐々木弁護士へいくつかの質問を投げかけた愛理は、その返答をメモを取りながら聞いている。
必死になって、淳のために佐々木弁護士と話している愛理の横顔を、翔は複雑な思いで見つめていた。
別れたとはいえ、一度は愛した人を見捨てるような愛理では無いのは、よくわかっている。それなのに、心がざわつく。
翔は、持て余してしまった感情を薙ぎ払うかのように首を横に振った。
── こんなときに、何を考えているんだか……。
佐々木弁護士との話しが終わった愛理は、翔が嫉妬に焼かれていたことには、気付かないまま、メモを手に翔へと顔を向ける。
「翔くん、あのときの映像が使えるかも⁉」
「あのときの映像?」
その映像とは、SDカードからコピーしたUSBメモリに収められている、淳と美穂が情事を終えた後に、愛理を蔑んだ会話を映したものだった。
「いい? 映すよ」
翔がフォルダからファイルをクリックすると、パソコンの画面には、朝を迎え、服を着た淳と美穂がリビングのソファーに座り、コーヒーを飲み始めた様子が映し出された。
『は? もう、会わないとか。冗談だろ⁉』
『本気よ。私、結婚が決まったの。だ・か・ら・遊びはお終い。お互い楽しんだんだから、良い思い出にしましょう。それに、愛理にも悪いし』
『悪いと思っていたら、オレを誘うなよ』
『その誘いに乗ったアナタも同罪でしょう?』
『据え膳食わぬは男の恥だろ? 本当は、悪いとか思っていないクセに、何言っているんだ?』
『あら、ちょっとは悪いと思ったわよ。でも、抑えられない好奇心ってあるじゃない? それに、人のモノって良く見えたりするでしょう?』
『悪い女だな』
結婚が決まった美穂から、淳に別れ話を持ち掛けていたり、美穂から誘ったことがわかる会話をしている。
婚約をしているのを知らないで関係を持ったなら、相手のウソを信じても仕方なかったとの事情が認められ、故意又は過失が存在しなかったということで、性交渉があっても不法行為は成立しない。
この映像は美穂のウソをあばく証拠になる。淳に責任をなすりつけようとしても思い通りにはさせない。
USBメモリをパソコンから取り外し、愛理は淳へと差し出す。
「良かったら使って」
「……ごめん、ありがとう。弁護士に証拠として提出させてもらうよ。助かった」
「いいの。私には、もう、いらないものだから」
先程、隠し撮りをされたことに腹を立て暴言を吐き、怒りをあらわにしていた淳は、戸惑いながら愛理からそれを受け取った。皮肉にも、その隠し撮り映像が自身を救うアイテムとなったのだ。
靴を履いた愛理は、玄関先へ見送りに来てくれた中村の両親へ、感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
「お義父さん、お義母さん、ありがとうございました。また、寄らせていただきます」
「愛理さん、遠慮しないでいつでも来てね」
愛理の手を母親の手のひらが包み込み、その温かさがじんわりと心に沁みてくる。
「はい、ありがとうございます」
母親の少し後ろに居る父親が、その様子を見て、うなずき目を細めていた。
「オレ、愛理さんを送ってくるから」
「翔、頼んだわよ。安全運転でね」
「わかっているよ」
そう言って愛理と翔は車へと乗り込もうとした。
「愛理!」
呼び止める声に振り返ると、淳が神妙な表情で近づいて来る。そして、愛理の目の前で立ち止まる。
「本当にすまなかった。お前の優しさに甘えすぎて、思いあがっていた。この通りだ、ゆるしてくれ」
改めて、愛理の優しさに気づいた淳は心から謝罪をし、深々と頭を下げた。
愛理は、顔を上げた淳を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡ぐ。
「私……淳のことゆるさない。この傷を見て、一生消えないんだって……。だから、私だけは、絶対にゆるさないって決めたの」
と、決意を込めた面差しで告げ、左腕の袖を捲り、刺されたキズを見せる。
淳は、自分のしたことの重大さに、苦しそうに顔を歪めた。その淳へ愛理の言葉は続く。
「これから、淳が誰かと巡り会って、また、恋に落ちて、生活を共にする日がくると思う。その生活に慣れて来たとき、魔が差すことがあるかも知れない。でも、不倫や浮気はパートナーの心を傷つける。それが、一生ゆるされないほどの罪だと思えば、今度は踏み留まれるようになるよね。だから、私だけは、絶対にゆるしてあげない。淳は、それを心に刻んで、今度は誰かを悲しませるようなことはしないで欲しい」
その言葉は、”ゆるさない”と強く言っていても、まるで淳に対して、幸せになれとエールを送っているように聞こえた。
それを感じた淳は膝から崩れ落ち、涙をこらえ切れずに、男泣きに伏せる。
そして、愛理に一生ゆるされないほどの傷を、心にも体にも与えてしまった、身勝手な自分を振り返った。
仕事が終わり家へ帰ると、温かい食事が用意され、整った部屋で快適に過ごしていた。当たり前の日常は、愛理の努力で成り立っていた。それに気づかずに、当たり前の日常がずっと続く物だと信じて疑わず、大切にしなかった。
失って初めて、その大切さに気づいても遅いのに淳の心には、後悔の文字が浮かび上がるのだった。
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