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その日、仁人は仕事帰りに、いつもとは違う道を歩いていた。すでに外は暗く、皆が家路を急ぐ時間だった。担当作家との打ち合わせが長引き、最寄り駅とは反対方向にある喫茶店で、原稿の直しを済ませてきたばかりだった。
「あれ、仁人くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには私服姿の勇斗が立っていた。バーで見る時とは違う、ラフなシャツにジャケットを羽織った出で立ちが、妙に新鮮に映る。
「なんで、こんなところに」
「いや、たまたま。この辺、よく通るんだよね」
「たまたま、ですか」
仁人は疑わしげに目を細めた。この店の最寄りからは、それなりに距離のある場所だった。だが、勇斗はあっけらかんとした様子で、それ以上の説明をしようとはしない。とはいえ、連絡先を知ってるわけでもなく、まして居場所を知らせたわけでもなく。たまたまという言葉を信じるほかない。
「せっかくだし、ちょっと歩こうよ。方向、一緒でしょ?」
「知らないですけど」
「じゃあ、確かめながら行こう」
強引に隣に並ばれ、仁人は仕方なく歩調を合わせた。夜の街を並んで歩くのは、これが初めてのことだった。バーのカウンター越しに見る勇斗と、こうして横に並んで歩く勇斗は、どこか印象が違って見える。さりげなく歩道側を歩く、誰かとぶつかりそうになればかばう様に手を引かれる、様子をうかがう様に頭上から時折覗き込んでくる…どれもあまりにも自然で、面白くない。
「最近、こういうこと多くないですか」
「こういうことって?」
「偶然、俺の行動範囲に現れること」
「まぁ、偶然が重なってるだけだって」
白々しい返事に、仁人は溜め息をついた。だが、それを本気で咎める気にもなれない自分がいることに、内心で戸惑ってもいた。
「──勇斗さんって、暇なんですか」
「めちゃくちゃ忙しいよ、これでも。店の仕込みとか、経営のこととか」
「経営のことまでやってるんですか」
「一応、あの店、任されてる立場だからね」
初めて聞く情報だった。仁人はこれまで、勇斗の仕事の詳細について、あまり深く聞いたことがなかった。夜専門のバーテンダーという肩書き以外、実はほとんど何も知らない。
「そんな忙しい人が、なんでこんなところをうろついてるんですか」
「気になる人がいたら、多少無理してでも顔見たくなるじゃん」
さらりと告げられた言葉に、仁人は思わず足を止めた。勇斗は悪びれる様子もなく、こちらを振り返って笑っている。身長差がゆえ、必然的に見上げてしまうのが腹立たしい。
どうやって俺の場所がわかるんですかとは、聞けないままだった。
「そういうこと、初対面の相手にも言うんですか」
「初対面じゃないでしょ、もう。何回目だと思ってるの」
「数える気もしないです、そんなの」
強がってそう言いながらも、仁人の頬は、夜の暗さに紛れて、わずかに熱を持っていた。
しばらく無言で歩いた後、仁人はふと思い出したように尋ねた。
「──前から聞きたかったんですけど、なんで昼は営業しないんですか」
「言ったじゃん、夜専門だって」
「理由になってないです、それ」
「──夜の方が、独り占めできるから」
思わせぶりな声で、勇斗はそう答えた。仁人はその言い方に、からかわれているのか、本気なのか判断がつかず、眉を寄せる。
「──独り占めって、誰をですか」
「さあ、誰だろうね」
「はぐらかし方が下手くそですね、相変わらず」
「そう? 意外と気に入ってるんだけどな、この言い方」
勇斗は楽しそうに笑いながら、仁人の歩調に合わせて、ゆっくりと歩き続けた。仁人はそれ以上追及するのを諦め、黙って前を向く。だが、先ほどの一言が、耳の奥に小さく残り続けていた。
──夜の方が、独り占めできるから。
その言葉の意味を、深く考えるつもりはなかった。ただの軽口だと、そう片付けてしまうのが一番楽だった。だが、なぜか今夜は、その言葉を簡単には手放せずにいる自分がいる。
「もう着きますよ、俺の最寄り」
「あ、ほんとだ。じゃあ、今日はここまでかな」
「送ってくれる必要、そもそもなかったんですけど」
「まぁまぁ、そう言わずに。──また、店に来てね」
「気が向いたら」
いつもの塩対応で切り返しながらも、仁人の足取りは、駅の改札をくぐる頃には、いつもより少しだけ弾んでいた。その変化に、仁人自身はまだ、はっきりとは気づいていなかった。