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その週、仁人の仕事はこれまでにないほど過酷なものになっていた。日を跨いで仕事していることも増えた。筆を折ると言い出した作家を説得するための会議が続き、他の担当作品の締め切りも重なって、心身ともに余裕を失っていく。
そんな中でも、気づけば店に足を運んでいる自分がいた。だが、その日ばかりは、勇斗のいつもの気安さが、仁人の神経を逆撫でした。
「お疲れ! 今日も来てくれたんだ」
「別に、来たくて来たわけじゃないです」
いつもより刺々しい声だった。勇斗は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
声を発してから、仁人はしまったと思ったが、取り繕う余裕がなかった。
「ありゃ、なんか機嫌悪い? 何かあった?」
「放っておいてください」
「そう言われても、目の前で辛そうにしてる人、放っておけるほど器用じゃないんだよね、俺」
その気遣いすら、今の仁人には重荷に感じられた。人と近い距離で関わり続けることに、元々疲れやすい性分だ。ましてや今は、仕事の重圧で、誰かの好意を受け止めるだけの余力すら残っていない。
いつもなら言葉を選べるのに、思ったことがぽろぽろと零れてしまう。
「本当に、器用じゃないんですよ。俺のことなんて、放っておけばいいじゃないですか。会うたびに、こうやって踏み込んできて。──正直、しんどいんです」
積み重なった疲労が、そのまま言葉になって溢れ出した。仁人自身、こんな風に感情をぶつけるつもりはなかった。だが、一度堰を切った言葉は、止めようがなかった。
「俺、別に、誰かと近い関係になりたいわけじゃないんです。仕事だけで、もう十分なんですよ。──だから、もう、店に来るのやめます。勇斗さんも、変に構わないでください」
言い切ってしまってから、仁人は自分の言葉の強さに、少し怯んだ。
だが、引っ込みをつけることもできず、そのままグラスを置いて席を立とうとする。
「──ちょっと待って」
勇斗の声は、いつもの軽い調子とは違っていた。真剣な響きに、仁人は思わず動きを止める。
「無理に付き合えとは言わないよ。仁人くんが、しんどいなら、離れたっていい。──ただ、一つだけ言わせて」
仁人は黙ったまま、勇斗の次の言葉を待った。
「逃げていいよ。その代わり、俺は絶対に追いかけるから」
あまりに率直な言葉だった。仁人はしばらく、その意味を咀嚼できずに立ち尽くす。
「──は? 何言ってるんですか、それ」
「そのままの意味だけど。仁人くんが離れたいなら、無理に引き止めはしない。でも、俺の気持ちまで、勝手に諦めるつもりはないから」
「……意味わかんないです、それ」
「わかんなくていいよ、今は。──ただ、覚えておいて。俺、結構しつこいから」
そう言って、勇斗はいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。だが、その目の奥には、これまで見せたことのない、確かな意志の強さが宿っている。仁人はその変化に、うまく言葉を返せずにいた。
「……今日は、もう帰ります」
「うん。気をつけて帰ってね」
拍子抜けするほどあっさりと見送られ、仁人は店を後にした。夜道を歩きながら、先ほどの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
──逃げていいよ。俺は追いかけるから。
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
そんな言葉を、これまで誰かにかけられたことがあっただろうか。突き放したはずなのに、なぜか見捨てられたという感覚がない。むしろ、突き放したことへの罪悪感の方が、じわじわと胸を締め付けてくる。
「いや、おかしいだろ」
誰に言うでもなく呟いて、仁人は自分の中の矛盾に、深く息を吐いた。離れたいはずなのに、突き放した直後から、あの店のこと、勇斗のことを考えてしまっている。
その夜、仁人はなかなか寝付けなかった。寝なければならないのに寝られなかったのは、仕事の疲労のせいだけではないことを、仁人自身、うっすらと自覚し始めていた。
数日後、仁人は結局、店の前まで足を運んでいた。だが、扉を開ける勇気は出ず、そのまま踵を返して帰路につく。それでも、翌週にはまた、同じ道を歩いている自分がいた。
──追いかけるって、言ってたな。
その言葉を、まだ完全には信じきれずにいる。だが、少なくとも、その言葉を疑う気持ちよりも、確かめてみたいという気持ちの方が、日を追うごとに大きくなっていくのを、仁人は止められずにいた。