『岳斗。褒められたことじゃないが、どうやらお前は女のためにコノエ産業に介入しようとしたらしいな。どうせそれを拒否したらお前を繋ぎ止める術が私にもなくなると言いたいんだろう? どこの馬の骨とも分からん娘を花京院に入れるのは不本意だが、そこについては目をつぶってやろう』
吐息まじり。全て知っていると告げたその男の声に、岳斗は言外の言葉を垣間見たようでゾッとする。
――最悪その女を愛人にすることも視野に入れられるよう取り計らってやろう。
実際にそう言われたわけではないけれど、あの男なら全てが終わった後で手のひらを返したようにそう言いかねない。
「オトウサン。何か勘違いをしていらっしゃるようですが、僕の苗字は花京院ではありません。倍相ですよ?」
力を持たない子供だった岳斗へ、虐待の限りを尽くしてくれた花京院麻由だったけれど、ひとつだけあの女に感謝できることがあるとすれば、頑なに自分のことを花京院の姓に組み入れることを拒んでくれたことだ。
そのおかげで、岳斗は岳史に実子として認知はされているけれど、あの男の戸籍には入っていない。
倍相真澄の息子の倍相岳斗のまま、あの男の財産だけは受け継ぐことができる。
きっと麻由はそれも強固に拒んだに違いない。だが、岳史は岳斗を花京院に縛り付けるため、自分が父親だと認知だけはしてくれたのだからお笑い種だ。
このまま花京院の方へ戸籍の異動なしに死ぬまで逃げ切る。
岳斗は、それだけは守り抜きたいと思っている。
***
「岳斗さん?」
電話を終えるなり、岳斗は眉間に皺を寄せて立ち尽くしてしまっていたらしい。
杏子に心配そうに顔を見つめられて、ハッと我に返った。
「あ、ごめんね、杏子ちゃん。イヤな相手からの電話だったものだからつい」
言って、電話が掛かる直前、自分は杏子へ何を言おうとしていたのかふと考えて、ダメだ……と吐息を落とす。
(あの男が出てきた以上、下手に動いて杏子ちゃんを巻き込むのは危険だ)
本当なら自分と付き合って欲しいと言いたかった岳斗だったけれど、花京院岳史からの連絡を機に、考え方を切り替えた。
(電話が掛かってきたの、杏子ちゃんに『恋人になって欲しい』って言う前でよかったのかも知れない)
そう思いながら、岳斗は杏子の手をギュッと握りしめる。
「さっきの話の続きなんだけどね、ちょっとだけでいいんだ。僕のことを〝友達〟じゃなくて〝一人の男〟として意識して欲しい。それが僕からのとっておきの提案なんだけど……どうかな?」
胸にチクリとした痛みを伴いつつ、岳斗はそれを顔に出さないよう精一杯優しく微笑んでみせた。
杏子は岳斗の言葉を聞いてどうしたらいいのか分からないという風にドギマギしてから……じっと自分を見つめる岳斗に観念したように小さく吐息を落とすと、恥ずかしげに伏し目がちで「分かりました……。岳斗さんのこと、お、男の人として意識……する……ように、します……」と消え入りそうな声でつぶやいた。
それからハッと思い出したように顔を上げると、今度ははっきりとした声音で「あ、あとっ! 私の汚名を晴らしてくださってありがとうございました! もう誰も信じてくれないと諦めていたので、すごくすごく嬉しかったです!」と付け加える。
岳斗はそんな杏子の嬉しそうな顔を見てほとんど無意識。
「気にしないで? 杏子ちゃんが笑ってくれると僕も嬉しいから」
何の計算もなくそう言えていた。
「えっ」
岳斗の言葉に驚く杏子を見て、岳斗は表情を引き締めた。
「杏子ちゃん、僕はキミのことが好きだ。キミのためなら喜んで死ねると思うくらい、僕にとってキミは特別で大切な存在だよ。お願い。それだけは覚えておいて?」
「あ、あのっ、岳斗さん。私っ」
杏子が何か言おうとするのを察した岳斗は、杏子をグイッと引き寄せて抱き締めた。
「お願い、杏子ちゃん。今はまだ返事をしないで?」
――それをされてしまうと、キミを花京院家の問題に巻き込んでしまうから。
心の中でそんなことを付け加えつつ、岳斗は(〝今はまだ〟って〝いつになったら〟大丈夫になるんだろう?)と、ぼんやり考える。
自分はやっぱり、本当に欲しいものは手に入れられない運命なのかも知れない。
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