校舎の廊下を歩きながら、僕はふと窓のほうに目をやる。雲がひとつ、風に乗ってゆっくりと流れていく。そういう何気ない景色を見ていると、胸の奥がすうっとして、ちょっとだけ自分を守ってくれる気がする。
放課後の音楽室。若井のギターが軽やかに鳴り響く。その音に合わせて、僕は鍵盤を指でなぞった。音が重なるたび、自然と気持ちがほぐれていくのがわかる。
「このコードさ、もうちょっと優しくしたいなって思って」
僕がそう言うと、若井は少しだけ笑って、肩をすくめた。
「お前が優しすぎるんだよ」
からかうような言い方だったけど、その声はいつもと変わらずやわらかくて、僕の心をそっと撫でてくれた。
好きだな、と思う。こういう何気ない瞬間に、好きが積み重なっていく。
だけどその隣には、いつも元貴がいた。
彼の歌声は、僕たちの音をひとつにしてくれる。少し掠れた声が、僕の心にまっすぐ届く。ときどき、その声に胸が締めつけられるような気がするのは、たぶん僕が――彼の想いに気づいてしまったからだ。
最初はただの気のせいだと思っていた。
元貴はいつもと変わらない態度で、僕にも若井にも同じように笑いかける。だけど、ふとしたときの視線や、沈黙の間にある息の深さ。そういうものに、僕は気づいてしまった。
彼の気持ちを知ってしまってから、僕のなかに、小さな迷いが生まれた。
なぜ、もっと早く気づいてあげられなかったんだろう。
どうして、彼はずっと笑っていられるんだろう。
「元貴、最近ちょっと元気ないよな」
若井がそう言ったのは、放課後の帰り道だった。
「そうかな?」
と僕は答えたけれど、本当は、気づいてる。
あのやさしい声の奥にある、少し乾いた息遣い。
無理して笑ってる時の、あのまなざし。
僕は若井の手を握りながら、言葉を飲み込んだ。
このままでいいんだろうか。
元貴を、今のまま放っておいても大丈夫なんだろうか。
音楽室の椅子に座って、僕は窓の外を眺める。校庭の向こうで、野球部の声が響いている。元貴は、今日も少しだけ遅れて来た。顔色は悪くないけれど、どこか遠くを見ているような目をしていた。
「元貴、これ新しい曲なんだけど、聴いてくれる?」
そう声をかけたとき、彼は一瞬驚いたような顔をした。でも、すぐにやわらかく笑って、「うん」と頷いた。
僕のピアノに、彼の声が重なる。
若井がそっとリズムを入れてくれる。
三人の音が、ひとつに重なった瞬間、なんだか涙が出そうになった。
元貴が歌うときの顔が、あまりにも真剣で、切実で、
まるで言葉にできない気持ちを全部その声に乗せているみたいで。
そのすべてが、僕に向かって届いてくる気がして――苦しかった。
終わったあと、若井が先に部屋を出ていって、僕と元貴だけが残った。
沈黙が、ふたりの間に落ちる。
「……涼ちゃん」
「ん?」
「……ありがとう」
それだけだった。だけどその声は、ずっと震えていた。
僕はそっと元貴の肩に触れた。ほんの一瞬だけ。
「無理、しなくていいんだよ」
そう言った僕の声も、少しだけ震えていたかもしれない。
彼は笑って頷いた。けれど、その笑顔の奥にある痛みに、僕は触れられないままだった。
夜、ベッドの上でスマホを握りながら、僕は彼にメッセージを送った。
『今日はありがとう。元貴の歌、やっぱり好きだよ』
それは心からの言葉だった。
でも、きっとその一言が彼をまた苦しめる。
そんなことにも気づいていて、それでも僕は、そう書くしかなかった。
好きだよ。
だけど、その「好き」はきっと、元貴が求めている「好き」とは、少し違う。
だからこそ、僕は彼を抱きしめてやることも、手を引いて連れ出すこともできない。
このまま、気づかないふりをしていればよかった。
彼の気持ちなんて、知らなければよかった。
でも、気づいてしまったんだ。
もう、戻れないところまで。
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