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日本の山奥に存在する古い洋館「鏡館」。10年前、5人の若者が失踪した曰く付きの場所。現在は招待制の「ミステリーゲーム」の会場として使われており、
館の鏡には「影が動く」という不気味な噂がある。
登場人物
若井滉斗(25)
男性、フリーライター。
過去の恋愛(藤澤との破綻)で心にキズを抱え、他人を信じられない。 鏡館での取材を機に大森に出会い、惹かれつつも疑念を抱く。鋭い観察力があるが、感情に流されやすい。
大森元貴(25)
男性、鏡館の管理人。
穏やかで魅力的ながら、過去にくらい秘密を持つ。若井に接近し、深い愛情を示すが、その行動には裏があるように見える。
藤澤涼架(29)
男性、若井の元恋人。
ミステリーゲームの参加者として現れ、若井を動揺させる。過去に若井を裏切ったが、今も執着がある。冷酷さと脆さを併せ持つ。
高野清和(30)
男性、ミステリーゲームの主催者。
派手な言動で場を支配し、鏡館の過去を知る人物。ゲームの裏で何かを企む。
山中綾華(22)
女性、ゲーム参加者の大学生。
無邪気に見えるが、鋭い洞察力を持つ。
物語の鍵を握る存在。
第一章 暗雲低迷
1日目
2025年8月、雨が鏡館の窓を叩く。
日本の山奥に佇む洋館はまるで世界から切り離されたように静寂に包まれていた。
若井滉斗は濡れたコートを脱ぎ、肩に掛けたバッグを握り直しながら玄関ホールに足を踏み入れる。
フリーライターとして奇抜な企画に飛びつくのはいつものことだったが、この「鏡館ミステリーゲーム」の取材はなぜか胸騒ぎを覚えるものだった。
招待状には「過去と向き合う覚悟がある者だけが参加できる」と書かれていたが、若井にはその意味がまだわからなかった。
3年前の藤澤との破綻以来、心の傷を抱え他人を信じることに臆病になっていた若井にとって、この館の重苦しい空気は余計に心を締め付けるものであった。
「ようこそ、鏡館へ」
低い声がホールに響き、若井は振り返る。そこにいたのは大森元貴、鏡館の管理人だった。黒いセーターに身を包み、微笑む男は、まるでこの館の一部のように溶け込んでいた。
灰色の瞳は深く、若井の心を覗くように鋭く、その落ち着いた物腰にはどこか現実離れした魅力が醸し出されている。
「管理人の大森。 若井、よろしく」
若井は一瞬、名前の呼ばれ方に違和感を覚えた。
それもそのはず、まだ名乗っていないのだ。
だが、大森の視線に捕らわれ、その疑問はすぐに霧散する。
「取材で来た。ゲームの概要を教えてくれ。」
無愛想に答える。警戒していると自分でも気づくほどに。
鋭い観察力を持つ一方、感情に流されやすい自分を自覚していた若井は取材者として冷静でいようと心に決めていたのだ。
大森は軽く頷き、若井をホールに導いた。
そこは驚くべき光景で、「鏡館」という名前にふさわしいものだった。
壁一面に張られた鏡が、若井の姿を無数に映し出す。自分の顔、背中、横顔がどこまでも続く。
まるで自分が分裂しているようで、若井は軽い眩量を覚えた。
鏡の表面は古びており、ところどころに細かなひびが入っていた。
「気持ち悪いな、この館」
そう呟くと、大森は小さく笑った。
「慣れるよ。鏡は、この館の魂だから」「魂?」
若井は眉をひそめた。大森の言葉には、どこか不気味な響きがあったからだ。
「この館では、鏡は嘘をつく。覚えておきな、ね?」
若井はそう警告する大森の瞳を覗き込み、その奥に隠された「何か」を感じ取る。
危険なのか、誘惑なのか。どちらにせよ、若井の心は既に乱されていたのである。
取材のはずなのに、何故かこの男に引き寄せられる自分がいた。大森の微笑みは、若井の心を揺さぶるには十分であった。
その時、別の声がホールを切り裂く。
「あれ、若井!久しぶりだね」
若井の身体が凍りついた。
声の主は藤澤涼架、若井の元恋人だ。
3年前、若井の心を粉々に砕いた男。
眩しい笑顔は変わらないが、その裏に潜む冷酷さを知る若井には、ただの毒にしか見えない。
藤澤の自信に満ちた態度は、若井をあの日の裏切りに引き戻した。
「何でここに?」
若井の声は低く、鋭かった。
藤澤は突然姿を消し若井を深い孤独に突き落とした。その理由を、若井は今も知らない。
「ゲームの参加者として来たんだ、驚いたよ、若井がいるなんて」
藤澤はカウンターに肘をつき、若井をじっと見つめた。
あれ……なんだ、この傷、?
若井は藤澤の左手に傷痕があることに気づく。
3年前にはなかったものだ。細長く、まるで刃物で切りつけられたような痕。
若井の胸に過去の裏切りの記憶が蘇った。藤澤の甘い言葉、突然の別れ、そして若井が知らなかった藤澤の裏の顔。
「参加者は5人、もう揃ったかな?」
新たな声が割り込んだ。高野清和、 ゲームの主催者だ。
派手なスーツに身を包み、芝居がかった仕草で手を広げた。まるで舞台の演出家のような男だった。
「若井、君は取材者だが、ゲームに巻き込まれるかもしれないよ。大森は管理人、藤澤は君の知り合い、綾華は大学生だ。 さあ、ミステリーゲームの始まりだ!」
その言葉が終わる前に綾華がホールに現れた。
大学生らしい軽やかな笑顔で手を振った。
全員の視線が綾華に集まる。皆は綾華を歓迎するような、見定めするような表情で。
藤澤以外。
「……は、?」
藤澤は何故か少し焦っているように見えた。
なんだ、こいつ綾華ともトラブったのかよ。
若井は考えながら藤澤の態度にイライラする。
藤澤はすぐに冷静を取り戻したが、焦りは消えていないようだった。
「やっと会えた!若井さん、取材ってかっこいいね!」
しかし無邪気な口調に若井は一瞬だけ緊張が解けた。だが、綾華の瞳にはどこか鋭い光が宿っている気がする。
彼女は大森をちらりと見て、意味深な笑みを浮かべた。その視線に若井は何か引っかかるものを感じた。綾香の無邪気さは、どこか計算されたもののように思えたのだ。
高野がルールを説明した。ゲームは3日間。館内で「殺人事件」が演出され、参加者は犯人を推理する。
初日の「被害者」はくじ引きで決まり、綾華が選ばれた。
「私が死ぬなんて、ドキドキするね!」
綾華は笑いながら言ったが、若井はその軽さに違和感を覚えた。彼女の笑顔は無邪気だが、その奥に何か計算めいたものがあるように思える。
「ゲームの前に、館の歴史を話しておこうか」
高野が不気味な笑みを浮かべながら言う。
「10年前、ここで5人の若者が消えた。誰も真相を知らない。鏡に閉じ込められたって噂もある。気をつけな、鏡は嘘をつくから」
若井は大森をちらりと見た。大森は静かに微笑み、こう囁いた。
「鏡は、君の知らない真実を映すよ、若井」
その言葉に、若井の心はさらに揺れる。大森の声には、まるで心の奥に触れるような響きがあった。取材者として冷静でいようと決めていたのに、この男の存在は若井の理性を乱す原因だった。
若井は廊下を歩いていると綾華に声をかけられた。
「若井さん。大森さんって、なんか変だよね」
綾華の無邪気な笑顔とは裏腹に、その目は鋭く大森を捉えていた。
「鏡に映る大森さん、時々おかしくない?」
若井は綾華の言葉を理解することが出来なかった。 しかし、彼女の観察力は若井が気付かなかった何かを捉えているようだった。
「何を見た?」
「さあ、ただの勘かな?」
綾華は笑ってごまかしたが、その言葉は若井の心に引っかかった。彼女はゲームの「被害者」として隠れる準備をしていたが、彼女の視線には、何か知っているかのような確言があった。
廊下から戻って綾華以外の全員がいるホールへ向かう。 若井は綾華の言葉を思い出し、鏡に映る大森の姿を観察する。
すると一瞬だけ、大森の顔が「別人」のように歪んで見えた。
「どうした?」
息を呑む若井を見た大森が近づき、若井の肩に触れた。
その温もりに若井は一瞬心が揺れたが、すぐに綾華の言葉を思い出す。
「なんでもない」
そう誤魔化した。だが、大森の微笑みにはどこか知っている気配を感じた。
その日の夜、ゲームが始まった。
綾華が「最初の被害者」に選ばれ、館のどこかに隠れる設定だったはず。
若井は取材メモを取りながら、館の不気味さに耐えていた。鏡だらけの廊下、薄暗いシャンデリア、時折聞こえる雨以外の奇妙な物音。
まるで館自体が生きているようだ。大森がそばに立ち、若井に囁く。
「怖いなら、俺が守ってあげるから。」
若井は大森の言葉に心臓が跳ねる。大森の声には、まるで心の奥に触れるような響きがあった。
だが、その優しさに裏があるのではないかと疑う自分もいた。藤澤が近くで若井を観察しているのが、鋭く肌に刺さる。
「大森を信じない方がいいよ、若井」
藤澤が低く呟き若井の肩に手を置いた。その手に触れた瞬間、若井は3年前の裏切りを思い出し、身を引いた。
「触るな」
若井は冷たく言い放った。
藤澤は笑ったが、その目は笑っていなかった。
「まだ俺のこと、恨んでる?」
藤澤の声には、かっての親密さとは裏腹な執着が滲んでいた。若井は藤澤の傷痕を再び見る。
なぜか、その傷が10年前の事件と繋がっている気がした。
ゲーム初日の深夜、綾華が予定より早く「消えた」。
予想外の出来事に、大森と若井は綾華の部屋へ向かう。女性の部屋にズカズカと入るのは少々気が引けたが、仕方ないと自分に釘を打つ。
ゲームの一環のはずが、綾華の部屋に残された荷物は不自然に散乱し床に小さな血痕が見えた。
背筋が凍る感覚がする。
「これは…ゲームじゃないかもしれない」
大森が若井の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。
「俺と一緒に調べよう。若井を一人にはしない」
若井は大森の瞳を見る。その奥に、優しさと何か隠された感情が混在しているように感じた。
「……これは?」
2人で綾華の部屋を調べると、鏡の裏に隠されていた古い日記を見つける。
10年前、5人の若者がこの館で失踪した記録。日記の最後にはこう書かれていた。
「鏡に閉じ込められた。私たちは、もうここにはいない」
若井は息を呑む。同時に、大森が日記を手に取り、すぐに隠そうとした。
「これは見ない方がいい」
そう大森は言ったが、その声には微かな震えがあったのを若井は感じ取る。
若井は大森の手から日記を奪い取った。
「何を隠してる?隠しても無駄だ。」
若井は大森を睨む。大森は一瞬抵抗するように見えたが、静かに手を離した。
「若井を怖がらせたくないだけだよ」
大森は若井の頬に触れ、そっと微笑む。
その瞬間、若井は大森の温もりに心が揺れた。
若井は日記を手持ちバッグに仕舞い、胸に冷たい予感を感じた。
その時、鏡に映る大森の姿が再び一瞬だけ「別人」に見えた気がした。若井は後ずさる。
「大森、お前…誰だ?」
若井の声は震えていた。
大森は答えず、ただ静かに微笑んだ。その笑顔に、若井は危険と誘惑の両方を感じ取った。
深夜も過ぎそうな暗闇の中、若井は眠れず館の図書室に足を運んだ。
「図書館なんてあるんだな…」
そう感心しながら足を進めると、見慣れた人物が網膜に映る。
そこには大森がいた。
月光が鏡に反射し、部屋を不気味に照らしていた。
「眠れないの?」
大森はパタンと読んでいた本を閉じ、若井の手を取った。
「この館が…気持ち悪いんだ」
若井は正直に吐露する。大森の手の温もりが、若井の不安を少しだけ溶かした。
「なら、俺がそばにいる」
大森は若井をそっと抱き寄せる。その瞬間、若井は大森の胸に顔を埋め、心臓の鼓動を感じた。
大森の唇が若井の額に触れ、ゆっくりと頬を滑り落ちる。
若井は一瞬抵抗しようとしたが、大森の瞳に捕らわれ、唇を重ねた。
キスは短く、しかし深く、若井の心を揺さぶった。
「ね、大森じゃなくてさ、元貴って呼んでよ…」
「元貴…」
「うん。それがいい。」
「俺、元貴を信じたい。でも….」
若井は言葉を切った。
「若井、俺は君を裏切らない」
大森の声は低く、切実だった。だがその言葉の裏に、若井は何か隠された真実を感じ取った。
「俺はもう少しここにいようと思うけど…若井は?」
「……もう寝る。」
「そう、おやすみ。いい夢見なね。」
なにがいい夢見なね、だ…。
そう思いながら、若井は図書館を後にした。
若井が図書室を出て廊下を歩いていると、藤澤に呼び止められた。
無視しよう…そんな若井の思いとは裏腹に、 藤澤は若井を壁に押し付けるように近づいてくる。
藤澤の目は、かつての恋人への執着と嫉妬でぎらついていた。
「大森を信じるなよ、若井。あいつは10年前のことを知ってる」
「何?」
若井は藤澤の言葉に凍りついた。綾華の失踪と日記の内容が、頭をよぎる。
「あの失踪事件…大森は無関係じゃない。鏡館の管理人って、都合よすぎると思わない?」
藤澤の声には、若井を揺さぶるような確があった。若井は藤澤の左手の傷痕を見る。
刃物で切りつけられたような古い痕は、10年前の事件と何か関係があるのではないか?そう若井の直感が囁いた。
「お前も何か知ってるだろ、藤澤」
藤澤は笑った。
「知ってるよ。でも今君が知るべきなのは、大森がついている嘘についてだ。」
第二章 疑心暗鬼
若井は鏡館の薄暗い廊下を歩く。
綾華の失踪が頭から離れなかった。ゲームの一環のはずが、彼女の部屋に残された散乱した荷物と床の血痕は、あまりにも不自然だった。
いや、こういう趣旨のゲームならよくあるはずだが、10年前の失踪事件、藤澤の傷、鏡の裏のメッセージ、大森の行動…数えればキリがないほどに「不自然」が多い。
取材者として冷静でいようと決めていたが、胸の奥でざわめく不安は抑えきれなかった。
「俺と一緒に調べよう。若井を一人にはしない」
そんな大森の言葉が耳に残り、若井の心を揺さぶる。
大森の穏やかな声と灰色の瞳は、若井を惹きつける一方で、藤澤の警告が頭をよぎった。
「大森を信じるな。あいつは10年前のことを知ってる。」
藤澤の執着に満ちた目と、左手の傷痕。あの傷が、鏡の裏で見つけた日記の内容と何か関係があるのではないかという 直感が、若井を苛む。
若井は綾華の部屋に戻る。そこには血痕を確認する大森の姿。
こいつ、どこにでもいるな…そう思いながら若井も床の血痕を確認した。赤黒い小さな染みが、シャンデリアの光を浴びて不気味に光る。
「これ、ゲームの演出にしてはリアルすぎる」
若井は呟き、隣に立つ大森を見る。
大森は黙って血痕を見つめていたが、その表情には感情が読み取れなかった。
「…元貴、何か知ってるだろ」
若井の声は鋭かった。
「何も知らないよ。ただ、若井が心配なんだ」
大森は静かに答え、若井の肩にそっと手を置く。その温もりに若井は一瞬心が揺れたが、すぐに藤澤の言葉を思い出した。
「鏡館の管理人って、都合よすぎる」
大森の微笑みには、どこか隠された意図があるように思えた。
「じゃあ、この日記はどう説明する?」
若井は鏡の裏から見つけた日記を手に持った。10年前、5人の若者がこの館で失踪し、「鏡に閉じ込められた」と記されていた日記。大森が日記を隠そうとした瞬間を、若井は見逃していなかった。
「元貴、なんでこれを隠そうとした?」
大森の瞳が一瞬揺れた。
「若井を怖がらせたくなかった。それだけだよ」
だが、その声には微かな震えがあった。若井は大森の瞳を覗き込み、そこで何かを見つけようとする。優しさか、嘘か。それとももっと深い秘密か。
若井にはまだ分からなかった。
2日目
翌朝、若井は大森と共に館の地下室へ向かった。高野が「館の構造はゲームの鍵」と匂わせていたことを思い出し、綾華の手がかりを探すためだ。
高野の派手な態度と不気味な笑みが、若井の頭にちらついた。地下室への階段は古く、湿った空気が肌にまとわりつく。壁にはやはり鏡が並び、若井と大森の姿を歪に映し出した。鏡に映る大森の顔が、一瞬だけ別の誰かに見えた。若井は立ち止まり心臓が跳ねる。
「どうした?」
大森が振り返り、若井の腕に触れた。
「……何でもない」
若井は誤魔化す。
「鏡に映る大森さん、時々おかしくない?」
そんな綾華の言葉が頭を離れなかった。綾華の無邪気な笑顔と鋭い視線が、なぜか今になって不気味に感じられる。
地下室は埃っぽく、薄暗い電灯が頼りない光を投げかけていた。古い木箱や壊れた家具が散乱し、奥に錆びた鉄の扉を見つける。大森が扉を開けようとすると、鍵がかかっていた。
「これは…管理人の俺でも知らなかった」
大森の声には、初めて聞く動揺が混じっていた。
「知らなかった、って本当に?」
若井は疑いの目を向ける。藤澤の警告が、ますます現実味を帯びてきた。
大森は黙って鍵を調べ、近くの棚から古い鍵束を見つけ出した。
扉が軋みながら開くと、小ぶりな木箱を見つける。中には古い日記や写真が詰まった箱があった。日記は先に見つけたものとは別で、10年前の失踪事件の詳細が記されていた。
「彼らは鏡を見た。そして、消えた。 鏡は私たちを閉じ込める。助けて」
そう震える文字で書かれていた。写真には、若い男女5人の姿。そのうちの1人の顔に見覚えがある。若井の背筋が冷えた。
「これ、藤澤じゃないか?」
若井は写真を手に取り、大森に突きつける。
大森は写真を一瞥し、静かに言った。
「似てるだけかもしれない。10年前のことだよ、若井」
「似てるだけ?藤澤のあの傷、絶対何か関係がある」
若井は声を荒げて言う。藤澤の左手の傷痕が10年前の事件と繋がるのではないかという直感が強まっていた。
その夜、若井は再び眠れなかった。
地下室での発見と藤澤の警告が頭をぐるぐると巡り、胸が締め付けられるようだ。館の廊下を歩いていると、いつも通りと言うように大森がいた。
「また眠れないの?」
大森の声は優しく、若井の心を溶かすようだった。若井の疑いを一瞬で消すように。
「綾華のことが….それに、あの日記と写真」
若井は言葉を絞り出した。大森は黙って近づき、若井の手を握る。その温もりに若井は一瞬、疑念を忘れた。
「若井がそんな気分でも、俺はそばにいるよ」
大森は若井を引き寄せ抱きしめた。月光が廊下の鏡に反射し、二人の姿を無数に映し出す。大森の唇が若井の首筋に触れ、軽くキスをした。若井の心臓が速く打ち身体が熱くなった。
「元貴….. 俺、お前を…」
「言わなくていい」
大森は囁き、若井の唇にそっとキスをする。短いが深いキスに、若井は大森への愛を自覚した。だがその瞬間、鏡に映る大森の姿が再び一瞬だけ「別人」に見えた、見えてしまった。若井は息を呑み、身を引いた。
「どうした?」
心配が滲む声で大森は言う。
「鏡….元貴の姿が…」
若井は言葉を切る。疑心暗鬼が心を支配し、大森の優しさが本物なのか嘘なのか、わからなくなっていた。
3日目
翌日、若井は藤澤に呼び出された。館の庭、雨に濡れたテラスで藤澤は若井をじっと見つめる。
「まだ大森を信じてるの?あいつは危険だよ、若井」
「何を根拠に言うんだよ」
若井は苛立ちを隠せずにいた。藤澤の執着がかつての恋愛の傷を抉るようでただただ苦痛でしか無かった。
「10年前のことを知ってるのはあいつだけじゃない。俺もだよ」
藤澤は左手の傷痕をさりげなく見せつけ笑う。
「この傷、気になるでしょ?鏡館で起きたことと関係があるかもしれないよ」
若井の心がざわつく。藤澤の傷痕が、地下室の写真と結びつく気がした。
「お前、10年前にここにいたのか?」
藤澤は答えず、ただ微笑んだ。
「大森を調べて。そしたらわかるよ」
その言葉に、若井の疑念はさらに深まった。
大森、藤澤に続き高野の態度も若井の不安を煽る。 高野は綾華の失踪を「ゲームの演出」と笑い飛ばしたが、その目はどこか冷たい印象を与えるものだった。
ゲーム3日目の朝、高野は参加者に新たな課題を課した。
「館の隠し部屋を探せ。そこに犯人の手がかりがある」
若井は高野の言葉に違和感を覚えた。しかしその違和感をうまく言葉にすることが出来ない。
若井と大森は高野の指示に従い、館の2階を探った。部屋では古い書斎で隠された引き出しを見つける。中には、10年前の新聞記事の切り抜きがあった。
「鏡館失踪事件。男女5人行方不明、原因不明」
若井は記事の隅に誰かの手書きで「鏡は嘘をつく」と書かれているのを見つけた。すぐに若井は大森を見る。
「元貴、これ知ってた?」
大森は首を振った。
「初めて見た。でも….この館には、知らない方がいいこともあるよ。」
「また隠す気か?」
若井の声には苛立ちが滲んだ。大森の曖昧な態度が、藤澤の警告を裏付けるようだった。
書斎を出た後若井は綾華の荷物から小さなメモを見つけた。
「鏡の裏を調べて。真実がそこにある。」
綾華の筆跡だった。彼女は失踪前に、何かを知っていたのだ。若井は綾華の鋭い視線を思い出す。
「大森さん、時々おかしくない?」
あの言葉が今になって重みを増していた。
若井は大森にメモを見せる。
「綾華、こんなメモを残してた。どう思う?」
大森の表情が一瞬硬直したのが見えた。
「…彼女、鋭かったんだね。けど危険だよ若井。深入りしない方がいい」
「危険?元貴がずっとそう言うから、余計に気になるんだよ!」
若井は声を荒げた。大森の優しさは本物なのか、それとも何かを隠すための演技なのか。疑心暗鬼が、若井の心を締め付けた。
その日の夜、若井は大森と再び廊下で向き合った。
「元貴、正直に言って。10年前の事件とどう関係してる?藤澤の言う通りなの?」
大森は静かに若井を見つめた。
「俺を信じてよ若井。若井を傷つけるつもりはない」
その言葉に若井は心が揺れた。だが、鏡に映る大森の姿が再び一瞬だけ歪んだ。若井は恐怖と愛の間で立ち尽くした。
この鏡は、この館は、この男は、一体なんなんだ?
第三章 愛憎相半
4日目
若井は鏡館の窓から差し込む薄い朝日を浴びながら疲れた目をこする。綾華の失踪、 大森とのキスと藤澤の警告。
たった3日間の出来事が頭をぐるぐると巡り、眠りは浅かった。身体は疲労で重く、フリーライターとしての観察力だけが彼を突き動かしていた。バッグには1日目に綾華の部屋の鏡の裏から奪い取った日記が収められている。
10年前の失踪事件、「鏡に閉じ込められた」と記されたその言葉が若井の心に冷たい影を落としている。
大森が食堂に現れ、静かにコーヒーを差し出した。
「よく眠れた?」
大森の灰色の瞳はいつも通り穏やかだが、どこか遠い光を宿していた。若井はコーヒーを受け取りながら、大森の微笑みに心が揺れる。一昨日の廊下でのキス、首筋に触れた唇の感触が丸1日経った今でもまだ残っていた。だが、藤澤の「大森は危険だ」という言葉が頭を離れず若井は無意識にバッグの日記を握りしめる。
「高野はどこだ?」
若井は話題を変えた。このゲームの主催者、高野の派手な笑顔が昨日の冷たい目と重なる。綾華の失踪を「演出」と笑い飛ばした高野の態度が、若井の不信感を煽っていた。
「まだ部屋にいるんじゃないの?」
大森は肩をすくめたが、その声には微かな緊張が混じっているのが見える。
若井は大森の瞳を覗き込み、何かを探す。愛か、嘘か。それとも、10年前の秘密か。
朝食後、参加者が集まるはずのホールに高野の姿はなかった。若井、藤澤、大森の3人だけが、静寂の中で顔を見合わせた。
よりにもよってこいつらかよ……
そんな考えが若井の中で芽ばえる。
藤澤の顔にはいつもの自信に満ちた笑みが浮かんでいたが、左手の傷痕を無意識に隠す仕草が若井の目を引いた。
「高野、遅いな。まさかゲームの演出で消えたとか?」
藤澤の声には皮肉が滲んでいた。
若井は黙ってホールを見回す。壁の鏡が、3人の姿を無数に映し出していた。
鏡の表面は古びてひびが入り、まるでこちらを嘲笑うようだった。
ふと、ホールの隅にある階段を見ると近くに赤黒い染みが落ちているのに気付く。
「…血?」
若井の声が空気を振動する。
大森が素早く近づき、染みを確認した。
「ゲームの演出かもしれない。落ち着いて、若井」
そういう大森の声には普段の落ち着きが欠けていた。若井はバッグから日記を取り出し、乱雑にページをめくる。
「10年前もこの館に血痕があったって書いてある。こんな偶然、あり得るか?」
藤澤が近づき、大森の上から日記を覗き込む。
「若井、まだそんな古い紙切れにこだわってるの?真実を知りたいなら、俺に聞きなよ」
藤澤の目は、若井を捕らえるように鋭かった。若井は藤澤の傷痕を再び見る。
あの刃物で切りつけられたような痕が、10年前の事件と繋がる直感が抑えきれなかった。
「高野を探そう」
若井は決断した。このゲームは綾華の失踪に続き、本物の事件に発展している。
取材者としての直感が、そう告げていた。
若井と大森は高野の部屋を調べるため2階へ向かった。藤澤は「俺はホールで待つ」と言い、その態度に若井は不信感を募らせる。高野の部屋は整然としていたが、机の上にメモが残されていた。
「隠し部屋に真実がある。探せ。」
高野の筆跡だった。若井は大森を見る。
「こいつも綾華と同じで、何か知ってたのか?」
大森は黙って頷き、部屋の壁を調べ始めた。すると鏡の裏に隠されたスイッチを見つける。押すと壁が軋みながら開く。
隠し部屋が現れ、埃っぽい空気が流れ出した。中には古いファイルや写真が散乱していた。
ファイルには、10年前の失踪事件の詳細が記されていた。
「5人の若者、鏡館で失踪。生存者1名、詳細不明」
これまでの部屋でも見てきた事件の詳細。
写真には5人の顔。その1人が藤澤に酷似していた。
「やっぱり藤澤だ」
若井は写真を手に取り、声を震わせた。
「こいつ、10年前にここにいた、 生き残ったってことか?」
大森は写真を一瞥し、静かに言った。
「確証はないよ。前もだけど、似てるだけかもしれない」
だが、その声には確信が欠けていた。若井は大森の瞳を覗き込み疑念が膨らんだ。
「お前も何か知ってるだろ? なんで隠す?」
大森は一瞬目を逸らし、こう答える。
「若井を守りたいだけだよ、ね?」
その言葉に、若井の心は揺れた。
愛を感じる一方で、大森の曖昧さが「疑心暗鬼」を呼び戻した。
昼過ぎ、若井は藤澤に呼び出された。館の裏庭、雨に濡れた木々の下で、藤澤は若井をじっと見つめた。
「大森が何を隠してるか、知りたいか?あいつは10年前の事件に関わってる。俺が知ってるのは、それだけじゃない」
藤澤の声は低く、執着に満ちていた。
「お前が10年前にここにいたんだろ?」
若井は写真を突きつけた。
「この顔、傷痕、全部繋がる。 話せ、藤澤」
藤澤は笑いながら言う。
「よく気づいたね、そうだよ。俺は 10年前の生き残り。この傷は….あの夜、鏡館で起きたことの証。」
そう言って藤澤は左手の傷跡を晒し、目を細めた。
「でもね若井、俺がここに来たのは若井をもう一度手に入れるためだよ。大森なんかには渡さない。」
若井の胸が締め付けられた。3年前、藤澤に裏切られた記憶が蘇る。
あの突然の別れ、説明のない失踪。藤澤の執着は、愛ではなく支配欲のように感じられた。
「お前は俺を裏切った。なんで今さら…」
「裏切った?俺は若井を守るために去ったんだ」
藤澤は一歩近づき、若井の腕を掴んだ。
「あの時、俺は….若井を失いたくなかった。でも、鏡館の呪いを知っちゃった。若井、早く気づけよ、思い出せよ!!!」
若井は藤澤の手を振り払った。
「呪い?ふざけるな。綾華や高野が消えたのは、お前の仕業じゃないのかよ!?」
藤澤の目が一瞬揺れた。
「俺じゃない。ただ……大森を信じるな。あいつは…鏡そのものだ」
その言葉の意味を、若井は理解することが出来なかった。
夕方、若井は大森と再び隠し部屋に戻った。そこらじゅうに散らばるファイルのひとつに10年前の生存者が「鏡の呪い」を語った記録があった。
「鏡は魂を閉じ込める。生き残った者は鏡に縛られる」
若井は大森を見る。
「これ、藤澤のことだろ?でも元貴も何か知ってる」
大森は静かに若井の手を取った。
「若井、俺を信じてくれ。俺は若井を傷つけたくない。俺も若井を……信じたいんだ」
若井を傷つけたくない。そう言う大森の声は切実で、若さが滲むその言葉に若井の心は揺れる。隠し部屋の薄暗い光の中大森は若井を引き寄せ、深いキスを交わした。
唇が重なり、若井は大森の温もりに溺れそうになる。だがキスの途中で、部屋の鏡に映る自分の姿が一瞬「知らない顔」に変わるのが見えた。
若井は息を呑み、身を引く。
「何だ…これ?」
若井は鏡を指さし、震えた。
「俺の顔が…」
大森は静かに話す。
「鏡は嘘をつく、若井。信じるな」
その言葉は、1日目に初めて聞いた警告と同じだった。 たった今、若井には大森の声が遠く感じられた。
夜、若井はやっぱり少しの申し訳なさがありつつも大森とともに綾華の荷物を再調査し、別のメモを見つけた。
「10年前の真実を知る者は、鏡に映らない」
綾華の筆跡だった。彼女は一体、なぜこんなメモを?若井は綾華の鋭い視線を思い出す。
「鏡に映る大森さん、時々おかしくない?」
彼女は大森の秘密を知っていたのか?それとも、藤澤の過去を?
若井は大森にメモを見せた。
「綾華は何か知ってた。 彼女はどこだ?」
大森はメモを手に取り、目を細めながら言う。
「彼女は…危険な真実に近づきすぎたのかもしれない」
その言葉に、若井の疑念はさらに膨らんだ。大森の優しさは本物なのか、それとも鏡のように嘘をつくのか。
4日目の深夜、若井は一人でホールの闇に立った。鏡に映る自分の姿が再び「知らない顔」に変わる。藤澤の「大森は鏡そのもの」という言葉が頭をよぎり、若井は恐怖と愛の間で揺れた。
大森が現れ、そっと肩に触れた。
「若井、俺を信じてくれ。 どんな真実でも、君を守る」
そのとき、藤澤がホールの闇から現れこう囁いた。
「若井、鏡を見て。大森の姿はそこに映らない」
若井は振り返り、鏡を見た。
大森の姿が、確かに一瞬消えた。
心臓が止まりそうな恐怖の中、若井は叫んだ。
「元貴、お前……何者だ?」
第四章 鏡花水月
「元貴、お前……何者だ?」
若井は恐怖をそのまま言葉にする。
大森は静かに微笑み手を差し伸べた。
「やっと、真実を話す時が来た。ついてきて」
その手は冷たく、しかし力強く若井を引いた。藤澤が追いかけようとしたが、大森の鋭い視線に凍りつき立ち止まった。
大森は若井を昨日発見した隠し部屋へ導いた。埃っぽい部屋の奥、割れた鏡の裏に隠された扉が現れる。
こんな部屋、知らない。
大森が扉を開けると、薄暗い空間に綾華と高野が倒れていた。綾香は青白い顔で、高野の派手なシャツは血で汚れていた。部屋には薄ら薬品の匂いが漂う。
「綾華!高野!……良かった、生きてる。薬で眠らされてる」
若井は綾華と高野の脈を確認し、ほっと息をついた。
綾華の部屋から見つかった血痕、「鏡の裏を調べろ」、「10年前の真実を知る者は、鏡に映らない」という内容のメモ。
大森の顔は鏡に映ると歪んでいた。そしてついに、映らなくなってしまった。
彼女が知っていた「真実」とは何か?
大森は静かに言った。
「このゲームは、10年前の事件を再現する罠だった。藤澤が仕組んだ。君をここに誘い込み過去を繰り返そうとしたんだ。」
若井は大森を睨んだ。
「藤澤?どういうことだ?じゃあ元貴は? なんで日記を隠そうとした?鏡に映らないのは?」
どういうことだ??頭が混乱して情報が整理できない。繰り返したところで、何になるんだよ。
1日目の隠蔽、2日目の「別人の姿」、藤澤からの指摘が頭をよぎる。
大森は深く息を吐き、初めて明確に語った。
「若井、俺はこの世に存在しない。10年前、この館で魂を閉じ込められた者の一人。若井と一緒に閉じ込められたんだ。俺はもういないから、少しでも可能性がある 君を救うためにここにいる。幽霊みたいなもんだよ。」
その言葉は、若井の心を突き刺した。
俺も大森と一緒に閉じ込められた?嘘だ、嘘に決まってる。
しかし、鏡は嘘をつく、鏡の歪み、映らない姿。そんなこれまでの謎の全てが、大森、そして自分の正体を指していた。
「いないって…?霊、?は….?」
若井は後ずさったが、大森の瞳に捕らわれた。そこには、深い愛と哀しみが宿っていた。
「俺は若井を愛してる。だから、若井の魂を解放するために存在する。藤澤は君を本当に取り戻そうとした。その為にこの罠を仕込んだんだ。だが、君は….」
大森は言葉を切り、若井の手を強く握った。
その時、隠し部屋の鏡が突然光を放った。
若井は目を奪われ、鏡に映る自分の姿を見た。
それは昨日見た 「知らない顔」であり、
地下室の写真にいた10年前の若者だった。
「……..俺?」
若井の声が震える。
大森は続けた。
「若井、君は紛れもない10年前の失踪者の一人だ。この館で魂を閉じ込められ、記憶を操作されて『現実』に生きていると信じていた。君の人生、フリーライターの3年間、藤澤との恋愛………全て、鏡の呪いが作り上げた幻だ」
若井の頭がぐらついた。そして脳は今起こっていることを全力で拒否しようとする。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……!!!!!
藤澤の執着、綾華のメモ、「知らない顔」。
「そんな…俺は生きてる!これは 現実だ!」
「現実じゃない」
大森の声は優しく、しかし冷たかった。
「鏡館は魂を閉じ込める呪われた場所。俺も君も、ここに縛られた魂だ。だが、綾華は違う。
彼女は現実の人間だ。」
「どういうことだよ、なぁ……?」
その瞬間、綾華が目を覚まし、弱々しく呟いた。
「……滉斗、、真実を、知らされた……?」
「だから真実って、なんだよ、綾華も狂いだしたのかよ!!!!」
「今、狂っているのは若井だよ。」
「あなたは、私の兄だった…」
消えそうな声で、綾華は呟く。
「……は、?」
若井の心が止まった。
「鏡の裏を調べて」、「10年前の真実を知る者は、鏡に映らない」。
それらのメモを残した綾華は失踪した実の兄である若井の居場所が鏡館だと知り、若井を救うためにゲームに参加していた。
放心状態の若井を無視するように、藤澤が隠し部屋に踏み込んできた。
「若井、そいつに騙されるな!」
藤澤の目は狂気じみ、左手の傷痕が光っていた。
「お前は俺のものだ。10年前のあいつと同じだ。覚えてるか、思い出したか!?俺はお前を失わない!」
若井は藤澤を見た。先日明らかになった生き残りの証、10年前の恋人喪失。
「藤澤……… 俺にはもう、お前を愛しているという感情は無い。俺は……大森が、元貴が好きだ。」
「ふざけるな!!! !」
藤澤は叫び、ナイフを手に若井に飛びかかった。大森が素早く割り込み、藤澤の手を押さえた。
「もう終わりだよ、藤澤。君の呪いはここで断ち切る」
大森の声に鏡が震え、光が溢れた。
藤澤は膝をつき、呟いた。
「俺は….ただ、若井を取り戻したかった…」
これまでの執着、そして「俺はお前を守るために去った」という告白。
藤澤は10年前鏡館で若井を失った。その魂の代わりとして現在の若井を求めていた。
大森は若井を抱きしめ、唇を重ねる。
深いキスは魂を揺さぶる力を持っていた。
「俺は霊的な存在だ、若井。君を解放するために10年間この館で待っていた。君の愛が、この館の呪いを破る鍵だ」
鏡が割れ、眩い光が部屋を包んだ。若井の記憶が蘇る 。
10年前、平和だった家族との日常。遊びで来た鏡館で仲間と共に失踪し、魂が閉じ込められた瞬間。藤澤の恋人だった自分。大森がその魂を救うために現れた存在。
「元貴……愛してる。でも、俺は….」
「愛は永遠だ」
大森の声は消えゆく。
「だが、現実は鏡花水月だ。君は自由だよ。若井」
光が消え、若井は目を覚ました。鏡館は静寂に包まれ、鏡は全て砕けていた。藤澤と高野は倒れ、綾華は涙を流しながら若井の手を握っている。
「滉斗……戻ってきて」
高野は意識を取り戻し、呆然としていた。
大森の姿は、どこにもなかった 。
藤澤は倒れたまま、砕けた鏡の破片を見つめる。
「若井…俺は…」
彼の声は途切れ、左手の傷痕はただの古い傷に過ぎなくなっていた。
呪いが解け、10年間の執着が崩れ落ちた瞬間、藤澤の目は光を失った。
若井が綾香の手を引いて去る中、藤澤は動かず、闇に取り残されたままだった。現実に戻っても、彼を待つのはこの罠を仕込んだことに対する裁きだけだ。
遠くで倒れていた高野は砕けた鏡の破片を見つめながら呟く。
「終わった..全て…」
派手なシャツは血と埃で汚れ、かつての自信は消えていた。10年前の隠蔽と藤澤の罠に加担した罪が彼の心を蝕む。高野はよろめきながら若井達の後に続いた。
藤澤とともに現実での裁きを待つ虚ろな目だった。
若井と綾香は館を出た。現実に戻れたのか、幻の続きなのか、確信はなかった。
「帰ろう、家に……」
「うん、、……元貴、」
もういない者の名を呼び、振り返る。
そこには古びた洋館が立っていた。
「本当に、消えたのか……」
意中の人との突然の別れに、若井の心は虚しさが宿る。短い間だった。本当に短かった。でも、それでも、
大森の愛は、若井の心に永遠に刻まれていた。