テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ゲンが話したのは、ハルが壊れた計器を直しているときだった。
「違う。そこじゃない」
「ここ?」
「力を入れるな。古いものは、正しい方向に押しても壊れる」
「面倒だな」
「人間も同じだ」
「ゲンじいのこと?」
「帰れ」
いつものやり取りだった。
ミオは工房の隅で、古い配線を種類ごとに分けている。
二人は最近、境界のことを聞くためだけに来るのをやめた。代わりに修理を手伝う。そうすれば、たまに老人の方から昔の話をする。
ミオが何気ない調子で言った。
「ゲンさんは、境界の外を見たことありますか?」
ゲンは手を止めなかった。
「ない」
「トウマさんもないって」
「そうか」
「村で見たことある人、いますか?」
「知らん」
「昔は?」
カチ。
工具の音が止まった。
「昔ならいる」
ハルは息を止めた。
「誰?」
「兄貴だ」
「ゲンじいの?」
「ソウ。俺より五つ上だった」
初めて聞く名前だった。
「外へ行ったの?」
「行った」
「どうやって?」
「お前らに教える話じゃない」
「帰ってきた?」
ゲンは答えなかった。
「死んだの?」
「分からん」
「でも帰ってこなかったんだろ?」
「帰ってこなかった。それだけだ」
ゲンの声が強くなった。
「帰らなかったことと、死んだことは同じじゃない」
ハルは黙った。その言葉には、長い時間が詰まっているように聞こえた。
「何歳だった?」
ミオが静かに聞く。
「十九」
「どうして外へ?」
ゲンは窓の外を見た。
「確かめるためだ」
「何を?」
「中央からの連絡が来なくなって、長かった。大人は待てと言った。外は危険だ、指示が来るまで待てと」
ハルとミオは顔を見合わせた。
中央通信。古い管理棟で見た記録。
「ソウさんは待たなかった?」
「待ったさ。何年もな」
ゲンは苦く笑った。
「でも兄貴は言った。『待てって言った人間は、まだこっちを見てるのか』って」
ハルの背中がぞくりとした。
「それで出た?」
「夜にな」
「門から?」
ゲンは答えない。
「どうやって開けたの?」
「そこまでだ」
「ゲンじい」
「話したことを後悔させるな」
ハルは口を閉じた。
ミオが代わりに聞く。
「誰か止めなかったんですか?」
「止めた。俺も止めた」
「どうして?」
「怖かったからだ」
「外が?」
「兄貴が戻らないことが」
工房の空気が重くなった。
「それで、本当に戻らなかった」
ゲンは壊れた計器を見た。
「次の日も。一週間後も。一年後も」
「何か残してなかった?」
「昔の道を北へ行くと言ってた」
「31?」
ハルが言ってしまった。
ゲンの顔が変わった。
「どこでそれを知った」
ミオがハルを睨む。
「古い地図」
「管理棟か」
二人は黙る。
ゲンは深く息を吐いた。
「お前ら、本当にろくなことをせんな」
「31って何?」
「俺も知らん」
「ソウさんは知ってた?」
「地図を見て、そこに何かあるかもしれないと言ってた。それだけだ」
「何かって?」
「人だ」
ハルの心臓が速くなる。
「外に人がいると思ってた?」
「当時はな」
「じゃあ、今も――」
「分からん」
ゲンは鋭く遮った。
「五十年近く前の話だ。兄貴が何を見たのか、どこまで行ったのか、俺は知らん」
「でも、死んだって決まったわけじゃない」
「そうだ」
「村では?」
「死んだことになった」
「何で?」
「帰ってこなかったからだ」
「それだけで?」
「それだけで十分だったんだ。外は危険だと皆が思っていた。帰らない人間が一人出れば、ほら見ろとなる」
ハルは胸の奥がざわついた。
ソウが死んだ証拠はない。でも、帰らなかったという事実が、外は危険だという証拠に変わった。
「ゲンじいは、どう思ってる?」
「何を」
「ソウさん、生きてたと思う?」
長い沈黙。
「分からん」
いつもの言葉。でも今日は、逃げではなかった。
「だから、ずっと腹が立ってる」
「誰に?」
「兄貴にも。止められなかった自分にも。死んだと決めた村にも」
工房を出たあと、二人はしばらく歩いた。
「外へ行った人、いたね」
「うん」
「でも帰ってない」
「死んだかは分からない」
「それでも、危険だった可能性はある」
ミオがハルを見る。
「それ、自分で言えるようになったんだ」
ハルは石を蹴った。
「ゲンじい見たら、そんな簡単に言えない」
ソウはハルたちにとって昔話の人だ。ゲンにとっては兄だ。
もし自分が外へ行けば、父や母やナナも同じように待つことになる。
「やめる?」
ミオが聞いた。
ハルはすぐ答えられなかった。
「調べるのはやめない」
やっと言った。
「外へ出るかは?」
「まだ決めない」
ミオは頷いた。
翌日、ゲンは何事もなかったように工房にいた。
ハルが顔を出すと、老人は小さな金属片を投げてよこした。
「何これ」
「古い制御盤の札だ」
表には文字がある。
『搬入ゲート 手動解除』
裏には簡単な矢印。
「これって」
「捨てる部品だ」
「ゲンじい」
「勘違いするな。開け方を教えたわけじゃない」
「でも――」
「それと」
ゲンはハルを見た。
「兄貴の真似をするな」
「……うん」
「返事が軽い」
「分かってる」
「お前の『分かった』は信用ならん」
ハルは札を返そうとした。ゲンは受け取らない。
「捨てると言った」
ハルは金属片を握った。
手動解除。
境界は開く。少なくとも昔は。
その夜、ハルはミオに札を見せた。
「ゲンさん、止めたいのか教えたいのか分からない」
「たぶん両方」
「どうする?」
ハルは金属片を見た。
ソウ。十九歳。夜。北へ。戻らなかった人。
怖くないわけではない。
それでも、疑問は消えなかった。
なぜソウは出られたのか。
なぜ今は誰も出ないのか。
そして、境界は本当はどちらを向いて閉じているのか。
「門を調べる」
ハルが言った。
「開けるの?」
「開くかどうかだけ」
ミオは目を細めた。
「その言い方、危ない」
「でも、ここまで来て確かめないの?」
ミオは金属片を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「開いたとしても、絶対に越えない」
「分かった」
「約束」
「約束する」
二人は指を絡めた。
ハルは、その約束を信じることにした。
その日の帰り、ハルは一人でゲンの工房へ戻った。
忘れ物をしたわけではない。
聞きたいことが一つ残っていた。
老人は入口の椅子に座り、細い金属棒を磨いていた。
「ミオはどうした」
「帰った」
「ならお前も帰れ」
「一個だけ」
「一個で済んだことがない」
ハルは隣の木箱へ座った。
「ソウさんが出たあと、ゲンじいは門まで行った?」
老人の手が止まる。
「朝になってからな」
「開いてた?」
「閉まってた」
「じゃあソウさん、自分で閉めたんだ」
「たぶんな」
「帰るつもりだった?」
ゲンは金属棒を机へ置いた。
「兄貴は食料を三日分しか持っていかなかった」
「三日?」
「遠くへ逃げる人間の量じゃない」
ハルは胸が詰まる。
ソウは村を捨てたのではない。
少なくとも、出発した時は戻るつもりだったのかもしれない。
「何で誰も探しに行かなかったの?」
「行こうとした」
ゲンの声が低くなる。
「俺と、あと二人。だが止められた」
「誰に?」
「当時の代表たちだ」
「なんで」
「一人を探しに三人出して、四人とも戻らなかったらどうする。そう言われた」
ハルは反論できなかった。
冷たい判断に聞こえる。
でも、二百人以上が限られた人手で暮らしている村では、その判断にも理由がある。
「ゲンじいは納得した?」
「するわけないだろ」
「でも残った」
「ああ」
老人は自分の手を見る。
「残る方を選んだ。だから今でも腹が立つんだ」
「誰に?」
「その質問、さっきしただろ」
「今は答え違う気がする」
ゲンは長く黙った。
「自分にな」
それ以上、ハルは聞かなかった。
家へ戻ると、ナナが床に石を並べて遊んでいた。
「何これ」
「村」
丸い石が家。
大きな石が学校。
細い枝が境界。
「ここから出たらだめ」
ナナが小さな木の実を枝の外へ動かす。
「なんで?」
ハルが聞く。
「外だから」
「外だとなんでだめ?」
ナナは困った顔をした。
「だって、だめなんでしょ?」
ハルは何も言えなくなった。
九歳の妹は、もう理由のない決まりを覚え始めている。
誰かが教えたというより、村全体から覚えたのだろう。
「お兄ちゃん?」
「何でもない」
ハルは木の実を枝の内側へ戻した。
ソウも子供のころ、同じように教わったのだろうか。
それでも十九歳で境界を越えた。
勇敢だったのか。
無謀だったのか。
今のハルには決められない。
ただ、ソウを「外へ行って死んだ人」とだけ呼ぶのは違うと思った。
翌日、ミオにゲンとの話を伝えた。
「三日分」
ミオはそこに反応した。
「帰る予定だった可能性、高いね」
「だよな」
「でも予定通りにならなかった理由は分からない」
「道に迷った。怪我した。人に会った」
「全部可能性」
「31まで行った」
「それも」
ミオは紙に書く。
『ソウは帰還予定だった?』
また疑問符。
ハルはもう文句を言わなかった。
ゲンからもらった手動解除の札を、その横へ置く。
ソウがどうやって出たか。
門がどう動くか。
二つの疑問が初めてつながった。
「開くかどうかだけ」
昨日自分で言った言葉を、ハルはもう一度確認した。
外へ行くためではない。
ソウの真似をするためでもない。
境界が本当に越えられるものなのか、それを確かめる。
「約束、覚えてる?」
ミオが聞く。
「越えない」
「絶対」
「絶対」
今度の返事は軽くしなかった。
コメント
1件
第9話、すごく好きな回だった……🥀🤍 ソウという“外へ行った人”の存在が、ただの過去の話じゃなくて、ゲンじいの今もなお続く痛みとして描かれていて、胸が詰まったよ。 「帰らなかったことと死んだことは同じじゃない」っていう言葉、すごく重かった。 ハルとミオの約束も、ちゃんと“越えない”って決めてるところに二人の関係性が見えた気がする。 あとナナの「だって、だめなんでしょ?」が静かに刺さる……。 謎が増えたけど、それでも前に進もうとしてるハルを応援したくなる回だった🌙