「元貴、無理しなくていいんだよ」
涼ちゃんは、優しい声でそう言った。
でも、元貴は小さく首を振った。
「……無理、してでも、戻りたいんだ。
また、3人で“本物の音”を鳴らしたい」
その言葉には、不安も、決意も、そして少しの焦りも混ざっていた。
突発性難聴は、すぐに完治するものではなかった。
薬も飲み、点滴にも通い、静かな部屋で何度も目を閉じて耳を澄ました。
でも、左耳から聴こえる音は、やはり遠い。
「今日はどうだった?」
毎日のように滉斗がLINEをくれて、
「調子悪いときは、今度俺が歌うから!」なんて冗談を言ってくる。
涼ちゃんは、リハのスタジオで元貴の代わりにメロディラインをピアノで鳴らして、
「元貴の代わりなんてできないけど、音は消えないようにしとくからね」って、にこりと笑った。
2人の音が、元貴の心を少しずつ支えてくれた。
⸻
ある日、再びスタジオに立った元貴は、マイクの前に立った。
最初は歌うことが怖かった。
聴こえない音に、自分の声がズレていたらどうしよう、音痴だと言われたらどうしよう――
そんな考えが頭をぐるぐると回っていた。
「大丈夫。俺がギターでリズム取るから、合わせて」
滉斗がいつもより優しい音を鳴らす。
すこし揺らぎながら、でも確かにまっすぐで、元貴の心に「安心」を届けてくれる音だった。
「僕もテンポ出すね」
涼ちゃんが軽く指を動かして、ピアノのクリック音を鳴らす。
それは、元貴の“今”に合わせたテンポだった。
――3、2、1…。
元貴がゆっくりと目を閉じる。
マイクに向かって、声を出した。
最初の一音は、震えていた。
でも、2音目からは、少しずつ色が戻ってきた。
右耳に届く音。
そして、心に響く“記憶の音”。
「……貴方の声で解れてゆく 忘れたくないと心が云う……」
自分の声が、ちゃんと音になっていた。
滉斗のギターと、涼ちゃんのピアノに包まれて、音が自分に戻ってくる感覚――それは、涙が出るほど優しかった。
歌い終わったあと、スタジオの中は一瞬静まり返った。
「……なに泣いてんの、元貴。音、鳴ってたよ。ちゃんと」
滉斗がちょっと照れくさそうに笑って、
「むしろ今のほうが、響いたかもな」って続けた。
涼ちゃんは、ハンカチをそっと差し出しながら言った。
「元貴の声、強くなってた。音が減った分、気持ちが増えたんだと思う」
⸻
音は、耳だけで聴くものじゃない。
音は、心に触れるもの。
聴こえなくなったことが、
元貴の中の「音の意味」を、もっと深くさせてくれた。
⸻
その夜。3人でラーメンを食べに行った帰り道。
元貴は、ふと立ち止まって空を見上げた。
「ねえ……もし俺が、完全に音を失ったら、そのときも、隣にいてくれる?」
滉斗が言った。
「当たり前だろ。どんな形でも、お前が音楽をやる限り、俺はギターを弾くよ」
涼ちゃんも笑った。
「それに、音が聴こえなくなっても、元貴の“声”は、僕の心にずっとあるから」
その言葉に、元貴は静かに笑った。
「……ありがとう。
俺、音楽、やっぱりやめられないや」
――そして、3人の“音”はまたひとつ、新しい始まりを奏で始めた。
END
コメント
2件
めちゃくちゃ感動でした😭