泣いて、泣いて、泣きつくした。こんなに泣けるものなんだと、自分で驚いた。広坂宅を離れた翌日、起き上がることさえも出来なかった。寝そべったまま会社には体調不良と連絡を入れ、気遣いを見せる社員に礼を言い、また泣いた。こんなに泣いたのは幼い頃以来か。過去、いろんな辛いことがあった。小さな頃は泣き虫で、姉や弟によく泣かされた。口の達者な彼らを言い負かせず、いつも泣いてばかりだった。弟が高校に入る頃には落ち着いたときくが、それでも、負け続けたという経験は、彼女のなかに苦い記憶として残っている。
就職活動のときに、営業職などひとと接する職を選ばなかったのは、そのことが関係している。例えば、クレーム対応など絶対に無理だと。上京して、友達と交流を重ね、あの頃とは違う自分を構築出来たという自負は生まれたが、それでもバイト中、一度だけ、泣いたことがある。新宿の繁忙店で働いていた頃の話であった。機械から伝票が次々吐き出され、床でとぐろを巻くほどの長さに至る……それほどまでに忙しい居酒屋であった。店員は皆美人で優秀で、手際よく処理をしていった。
ホールスタッフとして働く彼女は、あるとき、客に、料理が遅いことにクレームをつけられた。彼女は謝った。だがその客は不服げで……いや客には罪はないのだが。しかし、言い負かされたことへのトラウマがここで蘇る。
キッチンさんに、『すみませんあの、95卓のお客様が……』そこまで言ったときに、どっと涙があふれた。すると男性中心のキッチンさんが、皆心配した。大丈夫? 料理が遅いってクレーム入ったんだよね。ごめんね。なんとかするから大丈夫。よしみんな夏妃ちゃんのために頑張ろう! おー! ……
あまり話したことのないキッチンさんが、ものすごく心配してくれ、泣きじゃくる彼女は、恥ずかしさを感じるものの、それでも入ったばかりの彼女を労わってくれるそのやさしさが彼女の胸に染みいった。そう――広坂が示してくれたのはその種のあたたかさだった。彼が言葉を発するだけで彼女はあたためられた。冷えた、凍てついた自分のなかの氷が、溶かしだされた。あの甘やかな、たった十二日間の同棲生活で、彼女は忘れられない宝物を得た。……因みに、バイトで泣いたあのとき、空気を読めないホールスタッフの社員が、ほら料理さっさと運んで――冷たく言い放ったことも覚えている。彼に罪はないのだが。
愛撫をされたから絆されたのか? 彼女は考える。いや――違う、と彼女は思った。勿論それも判断材料のひとつではあるけれど、いつでも、広坂は、彼女を尊重してくれた。どんなときも彼女の目をしっかり見て……彼女がちょっぴり不安を抱けば、彼女は安心させる言葉を与えてくれたり、そっと抱き締めたり……とくんとくん。愛情に正直な鼓動を聞くたび、彼女は癒された。彼は、彼女の存在に安心すると語っていたが、彼のほうこそ、彼女に癒しを与えてくれていた。
その、広坂が――あんなにもなってしまったから彼女は悲しかった。あの態度も含めて判断材料にすべき――なのだろうが、いまは、おびただしい涙をどうにかすることが先決で、考えがまとまらない。
さめざめと、夕方まで彼女は泣いた。一日中降り続く雨みたいだな、と彼女は思った。梅雨の訪れは遅く、いつレインブーツを履くものか、彼女は心待ちにしていた。ぎらついた真夏の太陽も恋しいが、梅雨には梅雨のよさがある。気に入っているデザインの、黒のサイドゴアブーツ。あれと、からだにフィットするレギンスや、ひざ丈のスカートとまとめるのが彼女のお気に入りだ。勿論、パンティストッキングを履いて。
ストッキング越しに幾度も広坂に乱されたことを思い返す。不思議と、足を舐められただけで、彼の刺激的な手で触れられるたびに彼女の細胞は歓喜した。自分があんなになるなんて知らなかった。広坂は、彼女のさまざまな面を引き出してくれた。情動豊かで泣き虫な自分を、あの広坂は受け入れてくれた。父親のように、――恋人として。
彼の真摯な人間の在り方は、彼女の価値観を変えた。こんなに献身的でやさしい男がこの世に存在することに、彼女は驚かされていた。
広坂との思い出に浸りながら夜、テレビもつけずにカップラーメンをすすっていると、電話が鳴った。――広坂の母だ。どうしたのだろう。
「もしもし」
「夏妃さん。こんばんは。……大丈夫?」
え、と彼女は当惑を口にしたのだが、広坂の母は、「昨日、うちの守と話したの。それから、譲ともちょっと……。あの子たち、嘘がつけない性格なのよね。大体、なにがあったのか察しがつくから、……帰りは遅いのかしら? 明日の金曜日、仕事帰りで構わないから、すこし、お話しましょう……」
――いろいろ、聞きたいことがある。迷わず彼女は同意した。
広坂の母である広坂(ひろさか)冨美恵(ふみえ)は、雑誌から抜け出たような美女だった。白髪については例のアナウンサーの一件が世間を騒がせていたが、冨美恵の肌といったら陶器のようにきめ細やかで、目は澄み渡っており、あああの広坂を産んだ母親なのだと――納得する。
冨美恵は、白のさらりとしたブラウスに、紫のフレアスカートといった装いで、バッグは赤のバーキン。トレンドと、年相応の貫録を組み合わせたスタイルが、美しい。
「こんばんは。今日は、ありがとう」
「……いえ」
挨拶もそこそこに、冨美恵の予約した店へと向かう。
「二子玉川といったらあすこに行くと決めているの」と冨美恵は微笑する。「予約必須。カウンター席なら空いているって聞いたからほっとしたわ……。魚を熟成させたお寿司を提供するお店でね。本当に、美味しいの……」
広坂のグルメっぷりは親譲りだということか。また新しい広坂の一面を発見してしまい、喜びを隠せない。が、もう失われたものだと思うと、胸が痛んだ。広坂から連絡はない。会社でほとんど顔を合わせることはない。何事もなかったかのように、クールに仕事をこなす姿を遠目に見て、胸が苦しかった。いますぐここから抜け出してあのマンションに連れ込んで愛しぬいて欲しい――何度そう願ったことか。しかし、そう願えば願うほど彼女は厚い仮面をつけた。それさえあれば会社でも平静を装ってやっていけるという偽りの仮面を。
ちょっと熱が出たんです、と金原たちには嘘をついた。しかし、聡い金原のことだから勘付いていることだろう。
さて冨美恵のお気に入りの店の暖簾をくぐり、足を踏み入れる。見た感じ、確かに、回転ずしとは雰囲気が違う。カウンター席それにボックス席……このあいだの焼き肉屋と同様に、料理人が全体を見渡せる作りとなっている。
「こんばんは。今日はどうも、ありがとうございます」
冨美恵は長男に経営を任せて一線を退いている。然れどもジュエリーショップの二階に位置するあの部屋で、時には悩める社員たちの相談に乗り、守にアドバイスを送り、せっせと皆のために料理を振る舞う日々を過ごすときく。次男である広坂にしても、権威を振りかざすことなく、誰に対してもフラットに接する――また広坂との共通点を見出してしまい、涙が湧いてくる。彼女のこころのなかにはまだ、広坂が住みついている。他の誰も触れることの許されない、尊い領域に。
「……美味しいものを食べたら元気が出るわよ。さあ食べましょう」
そんな彼女の胸中を見抜いてか、冨美恵はやさしく声をかけてくれた。
「……あの子には悪いことをしてしまったと思っているわ。わたしたちが、悪かったの……」
場所を、夜景の見える高層階のバーに変え、ちびちびとカルーアミルクを飲む彼女である。
「あの子たちの好きにさせてやればよかった……という後悔もあるけれどね。あなたには正直に話すわ。それでも、あの子たちはきっと、うまくいかなかったと思うの……。
何故なら、あの子は、あのひとと接するたび、自分を抑え込んでいた……それは見ていれば分かるわ。なにを決断するにしてもあのひとの顔色を窺い、あのひとの意見を待ってから決める。……不思議ね。もっと譲は、快活な子だったわ。昔っからね。リーダーシップを取るのが得意だった。息子自慢になるけれど、皆から支持されて生徒会長をこなしたり、……そうね。昔っからなんでも好きなことをばりばりとこなすタイプだった。
わたしには、あのひとが、譲の個性を押し潰しているようにしか見えなかった……。
あなたは――違うでしょう?」
バーボンの入ったグラスを傾け、冨美恵はやわらかく笑う。「ぱっと見でね。あなたを見た瞬間、分かった。これはもう、譲がのめり込むタイプの女の子だなと。ちゃんと自分の意志を表明し、感情豊かで個性のある……それでいて譲を立てることの出来る、柔軟性としなやかさを併せ持った、しっかりとしたお嬢さん。客商売をしているから、ひとを見る目は肥えていると自覚しているわ。あなたなら、譲とやっていけると、確信したわ。相性がいいのね。譲は譲であなたを見る目が本当にやさしいし、ああこの子たちは愛し合いながら長くやっていける……親として安心したわ。
……喧嘩したんでしょう? うちのごたごたのせいで……。守も本当に。申し訳ないわ」
「いえ」と彼女は涙を拭い、「知っておいて、よかったです……。守さんには感謝しているんです。血のつながりのない、わたしのことを心配してくれて……そう、守さんには『大丈夫です』って嘘までついちゃったんですけど……。
ほんと、あんなことで、喧嘩になるなんて……心配かけてごめんなさい。冨美恵さんにまで心配かけちゃって……」
「喧嘩なんて誰でもするわよ。長く、結婚生活を続けていれば。うちなんか、今日出てくるときに、言い合いになったのよ。若いふたりのことなんだから放っておけと。でもわたし、放っておけない性格なのよ……あなたが困っているのが直感で分かったから、出しゃばっちゃって。
親は、いつまでも子どもの味方なの。あんなにも、譲が深く愛している相手なら、……そしてあなたの目は愛に燃えていた。あなたたち二人が揃うだけで、空気があたたかくなるのね。見る者を幸せにするくらい、あなたたちは、お似合いなの。なにもあなたたちが美男美女だというのが、理由ではなくてね」
「……はい」彼女は涙を拭い、自分の気持ちを伝えた。「あんなにも自分が情感豊かだなんて知らなくて……譲さんといると、いろんなことが思いだされるんです。様々な感情が引き出される。……わたし、ひとりの時間が長かったから、例えば美味しいものを食べてむきゅー! ってなるなんて……一人だとなかなかそうはならないじゃないですか。
でもそんなわたしを……喜び全開のわたしを、いつも譲さんは、おだやかな目で見守ってくれるんです……。わたし、譲さんのあの目が大好きなんです。仕事をしているときの、鎧をまとっているあの感じも最高なんですけど、……なんか、わたしだけにしか見せてくれない表情があるってだけで幸せで……ずぶずぶに、幸せに浸っている感じで……」
「――そのこと、譲には伝えた?」
「あ、いえ、まだ……」そうだった。新しい環境に順応するので精いっぱいで。からだは素直に反応していたのに、言葉では……なにも。あんなにも、広坂は想いを伝えてくれていたのに。それこそ、百万本の薔薇を束ねても足らないくらいのボリュームの。
「出ましょう」冨美恵は、凛とした声を放った。「なら、出来るだけ早くその気持ちは伝えたほうがいいわ」時刻は十時を回っていた。――間に合うか? いや、間に合わせるのだ……。
ビルを出ると彼女は礼を言った。「あの。いろいろとありがとうございます。お気遣いいただいてすみません。冨美恵さんのおかげで、わたし、自分にとって一番なにが大切なのかが……分かりました」
「トーキングキュアって言葉があるくらいだからね」と歩き出す冨美恵。「話すことで自分の気持ちが整理されることってあるのよ……また悩むことがあったらいつでも連絡して? わたし、お昼以外は空いているから……」
「ありがとうございます」
思えば、二子玉川という場所はこれを想定していたのかもしれない。冨美恵と別れ、電車に揺られ、三十分と経たずに着いた。――広坂のマンションへと。
鍵を持たない彼女はインターホンで彼の部屋を呼んだ。……のだが。返事はない。まさかまだ帰宅していないとか? いや、彼女のいる頃は八時には帰宅をしていた。では……眠っているとか?
もう一度鳴らしても反応がないので彼女は焦った。電話をしてみた。彼はすぐ電話に出た。「……もしもし? 夏妃?」
久しぶりに聞く、愛に満ちた声に、どっと涙が出た。「んもう。譲さん。いまどこにいるんですか? ……会いたいよぅ、いますぐ……」
「きみこそどこにいんの」と広坂。「ぼく、きみんちの前でずっと待ってんだけど……外で飲んでる?」
――なんというすれ違いだ。互いに、愛する相手の宅の前で、愛する相手を待っていたということか……。
「え、でも、広坂さん、よくうちのアパート覚えてましたよね? あすこ結構分かりづらいのに」
「一度行った場所を忘れないのがぼくの特技さ。きみのことも、……忘れられない」
「ああもう……」あふれ出る涙を拭った。「とにかくもう……会いたい。わたし、そっち行きます。待っててください。……と、あっ……!」
ここで思いだされた。広坂は、――閉所恐怖症と言っていなかったか。特に、アパートが駄目なんだと。
「予定変更です」と彼女。「やっぱり、わたし、こっちで待ってます。それでいいですよね」
「駄目だ」
「どうして……」
「この時間にきみをひとりで待たせたくないというのと。きみの部屋で、きみに会いたいのが理由だ。なんだか無性に、……きみがいままでここでどんな生活を過ごしていたのか。知りたくて知りたくてたまらない。だからおれは待つ。きみのことをいつまでも待つよ」
「……分かりました」
速足で駅へと向かう。こんな気持ちで走るのは久しぶりのことだった。ステップから、振る腕から、広坂への愛情が迸る。いま、愛する男の元へと向かう。あふれんばかりの気持ちを乗せて。愛する二人が想いを確かめ合うまで、一時間足らずと迫っていた。
*
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!