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時刻を半日巻き戻し、金曜日の午前十一時三十分。広坂は――いよいよ、彼女のデスクへと向かう。ある決意を秘めて。もう、……待つことは出来ない。自分の想いを伝えるのだ。ほんの数日彼女と離れただけで、いかに、彼女が大切な存在なのかが理解出来た。一人暮らし歴の長い彼は、寂しさを拠り所に夏妃を愛しているのではない。本当に、愛おしい存在だからこそ、彼女を欲するのだ。
自分がどんな表情をしているかまでは気が回らない。メールや電話でも駄目。とにかく――約束を取り付けよう。いよいよ、夏妃の所属する総務部のエリアに差し掛かった頃、
「広坂くん、ちょっと」みんなを見渡せる窓際の部長席に座る金原が広坂を呼んだ。彼女はなにやら素早くタイピングをし、「いまから第三で予約を取るから――よし来た。こないだの、クルーエル社との契約についてちょっと話したいから、第三行こっか」
広坂は夏妃を見た。黙々と業務を遂行している。彼女を見てひとつため息を吐き、広坂は、金原に従い、第三会議室へと向かった。
「……なんですか金原さん」後ろ手でドアを締めると広坂は、「クルーエル社の件なら、こないだちゃんと片付いたじゃないですか。契約成立ですよ。社長からもお礼の電話が来たくらいで――」
「広坂くん。眉間。みーけーん」言って金原は自分の眉間を人差し指二本で伸ばす仕草をする。怪訝な顔で着席する広坂に対し、「あなたね。鏡で自分の顔、見てみな? そんなんじゃ、女の子は怖がっちゃうよ。いたずらに刺激しちゃ駄目。だいたいね、あなた――。
夏妃ちゃんが出て行ったからって落ち込みすぎよ。まったくもう」
広坂は激しく咳き込んだ。その様子を、あらごめんなさいね、と金原は立ったまま腕組みをして見下ろす。
「でも、なんで――」
「姿勢が違うのよ夏妃ちゃんの」広坂の注意を引きつけておいてぴんと指を一本立てて、「あなたのところに行ってから雰囲気が変わった。表情が柔らかくなった。背筋がぴんと伸びた。寝る環境が良かったのね。それに比べると休み明けの昨日だったかしら? こめかみから頬にかけての筋肉がこわばっていて、かなりの緊張状態にあるわ。あの子かるく猫背なのね。背中がちょっと丸くなって、それでぴんと来たわ。
雰囲気のことはともかく、身体的変化に気づいているのはあたしだけだと思う。――大丈夫。誰にも言っていないわ」
「金原さん、『アンテナ』って読んだことあります……?」
「いえ? なにそれ?」
「知らないんならいいんです……こっちの話です」――なぁんだ未読か。夏妃も昔読んだという、田口ランディの『アンテナ』。あの小説に藤村美紀という女性が出てきて、こんなふうに看破していた。夏妃が、昔読んだけど面白かったよー、と言ってくれたから、彼女のいないいま、彼は貪り読んでいる。「えーとそれで。金原さんは、おれにアドバイス的なものを送るために、ここに連れ込んだんですか?」
「まあ近いわね」金原は窓際で眼下を見下ろし、いー眺め、とつぶやき、「どうせあなたのことだから約束取り付けて、今日は金曜日だから夜話そう、って魂胆だったんでしょう。
でも考えてみて。そんなこと、お昼前に言われて……午後のあいだじゅう、気になってしょうがない状態に陥るのよ。それが、あの子にとって、幸せなのかしら――?」
「――あ」迂闊だった。自分のことを伝えたいという思いでいっぱいで、そこまで頭が回らなかった。つくづく、自分は恋愛初心者なのだと、実感させられる。
率直に広坂は訊いた。「なんか、……いいアイデアとかあります? おれ、彼女傷つけちゃったんで……勿論謝りますけど、でもなんか、そこまで聞いたら、彼女の苦しみを取り除いてやりたいって思ってます……まおれが全部悪いんですけど」
「女の子は基本、自分が一番じゃないと気が済まないのよ。覚えておいて」広坂の前でテーブルに手をつくとにやりと笑い、「どーせあなたのことだから、過去の女のことがばれた。んで夏妃ちゃんが嫉妬した――そんなところでしょう?」
なにもかもお見通しということか。広坂は白旗を上げた。
「とにかく、いま約束を取り付けて、夜会うのは得策ではないと……そういうことですよね」顎を摘まみ考え込む広坂。「だったら……サプライズなんかどうだろう。花束とかケーキとか、そういうの」
「ケーキぃ?」金原が反応した。「あなた、なにも知らないの? このタイミングでケーキなんて。本番は――」ここまで言ったところで金原は言葉を飲み込んだ。「ううんなんでもない。ケーキは微妙かも。待ち伏せするのならなんか違うもんがいいんじゃない? ちょっと思い浮かばないんだけど、……フィナンシェとか。どうでしょう、もっとこころときめくものがいいなあ――」
「プリンだ!」広坂は素早く立ち上がる。衝撃で椅子が後ろに転がるがこの際、それは問題ではない。「そうか! 彼女、『天使のぷるぷるプリン☆』が大好きだから、よし買いに行こう! ……て金原さん。この際だから正直に聞きますけど、自宅前で待ち伏せとか、……重いですかね?」
「いや、いんじゃないの? そのほうが速攻セックス出来るし」
広坂は顔を背け、咳ばらいをした。そんな彼に、
「……夏妃ちゃんって、金曜日飲みに行くタイプ? なんとなくだけど、友達とかいなさそうだよね。あんなにいい子なのに……」
「学生時代の友達は、みぃんな遠くに行っちゃった、ってこぼしてました。北海道に沖縄に香港にニューヨーク。なもんで、金曜日に飲みに行く可能性は低いです。そもそもあの状況ですし」
「飲んで憂さ晴らしするってタイプじゃないもんねえ」同意する金原はドアへと進み、「あんないい子、滅多にいないんだから、手放しちゃ駄目よ? 幸せにしてやんな。分かっているだろうけれどあの子、本当にいい子なんだよ。ピュア過ぎて目がくらむくらい。誰に対してもやさしいんだから。……山崎の馬鹿に長いあいだ苦しめられたんだから、ちゃんと理解して、甘えさせてやりなさい。あの子ちょっと、愛情に飢えているから」
きっぱりと広坂は宣言した。「――分かりました。必ず、幸せにします」
なんとか仕事を七時で切り上げ、新宿で天使のぷるぷるプリン☆を買い、小田急線に乗車。確かK駅だったはず。朝は準急が止まるが急行の止まらない、プチブルだらけの世田谷区。インパクトのある駅名及び住所のために、覚えるのはたやすかった。住所は彼女が宅急便を出すときにチラ見し、頭に叩き込んだ。スマホを凝視し、絢香の歌い上げるようなぐるぐる曲がりくねった道をgoogleマップを頼りに辿り着く。チャイムを鳴らしても無反応。この時点で広坂はまさか夏妃が冨美恵と会っていることなどとは思わない。ただ、待った。スマホもいじらず、持ち歩く『アンテナ』も読まず、最愛の彼女との思い出に浸りながら、彼は待った。
もう――限界だった。自分の気持ちに蓋をするのは。他の誰でもない、夏妃を愛している。彼女との思い出……自分からキスしてくれたときのこと。料理を作って待っていてくれるあの健気なエプロン姿。感じたときに見せる、女神の恍惚……そう、おれにとって夏妃は、唯一無二の女神なのだ。してあげられないことを気に病んでいたようだが、そんなのは二の次だ。あれほど満たされた女を見て、満たされない男などどこにいようか? ――伝えよう。愛してると。本当に愛しているのはきみだと。
三時間ほど経ち、心配になってきたところで夏妃から電話があった。六畳一間のアパート。閉所恐怖症のことは気にかかるものの、広坂は、あの部屋での夏妃が知りたかった。夏妃が自宅に荷物を取りに行くのに一度同行したあのときは、びびりなゆえ、彼女が荷物をまとめている間、ドアを開いたり、蒸した外に出たりして過ごした。今夜はそうじゃない。ちゃんと自分の想いを伝えて、あの部屋で過ごす夏妃がどんななのかを確かめるのだ。――よし、決めた。
改めて自分の気持ちを確認してみれば、やはり、自分の中心を占めるのは夏妃だった。会社ではポーカーフェイス、ただしにこやか。おれの前でだけあの花を咲かす、麗しい存在――。
夏妃は、電話から一時間ほどで姿を見せた。広坂の姿を認めた瞬間、みるみる彼女の顔が歪む。「――広坂、さん……」
ぽろぽろと涙を流す彼女に手を伸ばし、指を絡ませ、そしてぎゅっと抱き締めた。こんな華奢なからだにいったいおれはどれほどのものを背負わせてしまったのか。後悔の念に駆られた。広坂の腕のなかで泣きじゃくる彼女は、
「ひ、ろさかさん、あの、わたし、……寂しかった」泣きぬれる頬を支え、顔をあげる。間近に見る彼女はやはり、美しかった。「ひとりで、頑張ってみようって思ったの。でも……家に帰ると涙ばかり出てきて。ごめんなさい。わたし――あなたの傷を刺激したんだね。あなたがどれだけ辛い思いをしたかを考えずに、自分のことでいっぱいいっぱいになっちゃって……わたしがあんなことを言ったせいで、あなたがどんなに辛い思いをしただろうって、ずっとずっと、考えてた……」
「ごめんな夏妃」と広坂は彼女の背を撫でる。衣類越しにブラジャーの感触を感じ、正直に欲情した。「あの……おれさ。言わなかったのはおれが悪かった。おれがあんなに感情的になったのはやっぱり、……きみの前で格好つけたかったんだよな。おれ……。きみを独り占めする山崎にすげえ嫉妬してた。無様な自分を見せるのが怖かった。幻滅されるのが怖かった。いい格好しぃなんだよおれ」
「あのねえ、広坂さん」
「なぁに? 夏妃」
「あの、……伝えたいことが、二つあるの。先ずね……」
両脇から広坂のウエストを支えると、彼女は広坂の顔を見て、力強く言い切った。
「あなたとの結婚契約を、解消します」
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