その夜、俺は久々にピアノを弾いた。調律だけは欠かさずに行っている。使い道がないお金で買った、めちゃくちゃ高額なクリスタルのグランドピアノの前に座ってぼんやり鍵盤を眺めた。しばらくすると珍しくピアノを弾きたくなって、適当にジャズ・スタンダード曲を弾いて歌った。
たまには自分のために歌うのもいいな。
自分で曲はもう書いていない。RBの時に全て事務所に吸い取られた。枯渇(こかつ)の頭では、なにも浮かばないのは六年前と同じ。
今は他人の曲でもいいか。著作権についてうるさく言う人間もいないし、久々に音楽の話で盛り上がったから、ただピアノを弾いて楽しく歌っていた頃のことも一緒に思い出したから、弾きたくなっただけ。
枯葉(かれは)も歌った。ジャズヴォーカリストだった俺の母が一番得意で巧かった歌。
「枯葉」(Les Feuilles Mortes、Autumn Leaves)――は、もともとフランスでシャンソンとして広まった曲で、世間一般としてはジャズスタンダードとして知られている歌だけど、本当は違う。
一番初めは、ローラン・プティ・バレエ団のステージ「Rendez-vous」の伴奏音楽の一つとして、ジョゼフ・コズマが原曲となるものを作曲。それを映画「夜の門」(Les Portes de la Nuit)の挿入歌のために、ジャック・プレヴェールが詩を付けた。
映画は若きイブ・モンタンが、後にジュリエット・グレコが歌ってヒットさせ、その功績があったから、アメリカでもヒットした。誰でも一度は耳にしたことのあるような、スタンダード代表の「ムーン・リバー」等の名曲を世に残した作詞家・ジョニー・マーサーが、「Autumn Leaves」として英語の詩を付け、ナット・キング・コールやフランク・シナトラのような、有名な歌手に数多くカヴァーされて、シャンソンの曲なのに、ジャズスタンダード・ナンバーとなったもの。
諸説は色々あるけれど、大まかな感じで俺が知っているのはこれ。
枯葉の歌詞の内容は、若い頃互いに愛し合っていた二人が別れざるを得ず、それぞれの人生を送ったあと、再び出会った時には北風に吹かれて舞う枯葉のようだったと慨嘆し、海岸の砂浜を歩く二人の足跡も波が静かに消し去っていく――といった感じの内容。切ない曲でいかにもシャンソンっぽい。
歌詞の意味もわからずに、俺は母の真似して幼い頃からこういう歌を歌ってきた。
そういう背景があるから特に歌に関して知識も豊富なうえ、触れてきた世界がジャズだから、ポップスを歌わせても色気がある。自分でいうのもなんだけど。
親父がジャズピアニスト、母親がヴォーカリストだったから、二人の才能は引き継いでいると思う。でも今はそれを生かせる環境ではない。宝の持ち腐れや。
俺の自由を奪って金を生み出すマシーンと化してからは、好きな音楽が苦痛になってしまって、全てを捨てたくなってもがき苦しんだ。
今もその名残がある。ピアノを見るのでさえ嫌な時期もあったし、歌を歌うことでさえ、鉛を飲み込まされたように重く苦しいとしか感じない時もあった。
貧乏な時代、その日暮らしのライブハウスで泥臭く歌っている方が、何倍も俺は輝いていた気がする。金と引き換えに失ったものの代償は、俺の中ではとても大きいものだ。
自由を犠牲にしてしがみ付いてきたRB。剣が事件を起こしたせいでRBは解散、責任を取るためにも大栄で働いているけど、それも空色のお陰でゴールが見えた。
空色。お前がいつも俺を救ってくれる。
RBの末期。一切曲が書けなくなってしまって、本当に辛かった時期。締め切りがあったから最悪につまらない曲を出すしかできなくて、今でも消し去りたい全く満足のいかない曲をリリースした時。お前は、俺に手紙をくれた。
曲を聴いて、俺が心配になった、と。
『――今回の新曲は、白斗の苦しみのようなものが伝わってきました。孤独と葛藤を織り交ぜたような、魂の叫びが。もしこの苦しみが本物なら、しっかり身体を休めて下さい。無理をせず、頑張らず、一番に自分のことを考えて、どうか元気でいてください。
アルバムも楽しみにしていますが、先ずは白斗に元気になって欲しいです。
完成まで何年でも待ちます。私はいつでも大好きな白斗を応援しています。
吉井律』
曲が書けなくて、アルバムが完成しなくて、本当に辛くて、どんなに努力しても曲が浮かんでこなくて、苦しくて、俺しか作詞作曲ができないから、RBの全てが俺にのしかかって、プレッシャーまみれで、本当に潰れそうだった俺を、その手紙が救ってくれた。
心が洗われるような、空色の封筒と便せん。
この世でなにも楽しみのない俺が、唯一待ち焦がれたもの。
RBがメジャーデビューしてから、十年間も定期的に欠かさずファンレターを送ってくれた女は空色だけ。
彼女がくれる手紙が、優しい言葉が、RBの白斗だった俺をずっと支えてくれていた。
会ったこともない女に幻想や愛を抱く俺は、相当アブナイ奴だと自分でも思う。
忘れるために閉じ込めていた想いが、再会によって溢れ出す。
手に入らないから、余計に焦がれる。
思いが、加速する――
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